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のんびりしたい私のアタマノナカ

今週のお題「元気を出す方法」③

引き続き、思いついた方法を書いてみる。

「適度に暴飲暴食する」とか「不安な未来を忘れて、今に集中する」とか。不思議なことに「最悪の事態を想像して一旦落ち込む」っていうのも意外と効果があった。

同じところに留まっていると心が活発さを失ってしまうのか、元気をなくしてしまうようだ。まあ、これは私の場合だけれども。ずっと同じことを繰り返したり、同じところで長く過ごすのには向いていないらしい。とはいえ、コロコロと環境が変わるのも嫌いという。めんどくさいな。

元気を出す方法って、人によって違うだろうから唯一のものはなさそうだ。さらにタイミングによっても違いそうなので、効果のあった方法をいくつも集めて表にしておくとか。まずはその表の中からピンとくるものをやってみる。逆に、絶対やりたくないものを選んでみるのもいいかもしれない。

ひとまずまとめると、

・楽しみな予定を作る ・お気に入りの音楽を聴いたり好きな本を開く ・期限のあることに取り組む ・疲れているなら寝る ・今やってることとは違うことをする ・楽しいことを満喫しきってしまう前にやめておく ・好きなもの、好きな人のことを考える ・短いスパンでサクッと気分転換して気分を変える ・適度に暴飲暴食する ・不安な未来を忘れて、今に集中する ・最悪の事態を想像して一旦落ち込む

今回思いついたのはこんな感じでした。

今週のお題「元気を出す方法」②

一つ思いついたので追加。

好きなもののことを考えるっていいんじゃない? もちろん、人でもOK。好きなものを食べるとか手に入れるとかではなくて、好きなもののことを想像したり妄想したりすると幸せになれて元気が出そう。

ものを買うとか食べるとかだと、手に入れた時点で一区切りついてしまうからか、ある程度の喜びや達成感はあるだろうが未来に向かっての活力は湧きそうにない。それに比べて好きなもの、好きだったときのことを考えると、何らかのパワーが生まれるように思う。

物質として手にするよりも、精神的なもののほうが満たされるってことなのかな。それが、人の手で作られたものに愛着を感じることにもつながるんだろうね。食べ物とかだって。なんでさっき思いつかなかったんだろ。

といっても、同じことをずっと考えてて元気が出るなら苦労はないわけで。短いスパンでサクッと気分転換して気分を変える、これが最強の方法かもしれないね。

今週のお題「元気を出す方法」

元気を出す方法。実はこれといってそんな方法はない。あれば今も元気になはずだけど、まあ普通の調子かな。

でも、少し考えてみよう。元気になるって何か楽しみにしてることがあって、それに向かってるときが多いかなあ。子どもの頃だと、待ちに待ったゲームの発売日間近とかは元気だったかも。あとは面白い番組の放送日とかも。

うーん、つまらない。なんといっても、自分で決められないことに左右されすぎてる。自分の元気を出す方法なんだから、自分で作り出せたほうがいいに決まってる。

自分で行動を起こして元気になるとすれば、お気に入りの音楽を聴いたり好きな本を開いたりすると元気が出そうな気もする。

あとはちょっと違うかもだけど、期限のあることに取り組んでるときも、終わったときのことを考えると元気が出るというか、気持ちにハリが出る。

そもそも元気って何? と思って「”元気”を右クリック→”元気”を調べる」とすると一番目に「活動のもとになる気力。いきいきとして活力の盛んなさま。」と表示。これはスーパー大辞林の語釈かな。

つまり今週のお題は「活動のもとになる気力を出す方法」ってことか。活動したくなるような、何か喜ばしいことを作る、もしくは見つけるといった動機づけをする方法ということになる。これは当然、人それぞれよね。

みなさんはよくやるのかもだけど、好きなものを食べるってのは私の場合あまり当てはまらない。好きなものを食べても、満足はすれど別に元気は出ないので。眠くなるし。

ああ、寝るってのはいいかも。ただし、疲れたとき限定。疲れてもないのに寝ても活力が盛んにはならない。

いくつか考えてみて思いついたのは「今やってることとは違うことをする」ってこと。同じことをしてると、それがいくら好きなことでもつまらなくなる。逆に面白くなさそうなことでも、いつもと違うことを間に挟むと案外楽しかったりする。同じことしてるとマンネリを感じて、活力がなくなっていくのかもね。

どんなに楽しいことでも、満喫しきってしまう前にやめておく。そうしたらまた次回、元気を出す方法として使えるんじゃないだろうか。そんな出来事をたくさん用意しておけば、元気がなくなったときに別の方法で元気を出せるかもしれない。

今のところはそんな感じです。もしまた思いついたら投稿します。

道具との付き合い

使い慣れた道具と新しい道具のどちらが良いのか。ケースバイケースだろうけど。

少なくてもどれかの道具を使いこなした経験がないと、新しく良い道具を手に入れても使いこなせないだろう。

おもちゃみたいな道具でも、基本的な部分を備えた道具を使いこなせていれば、新しい道具を手にしたときにも応用が効く。

使いこなせないままの道具ばかりを増やしていたら、結局は何も成し遂げることはできない。

だから何かをやるときは、最初ばかりを何度も繰り返して途中でやめるよりも全体の流れを知る。一通り最後までやってみる必要がある。

とはいっても、基本を何度もやることに意味がないわけじゃないと思う。どんな手順でもいずれ全体を経験することはできるだろう。ただ、一つの道具を使いこなすのは難しいというだけのこと。熟練度の低いまま道具を使うのだってありだと思う。

今ある道具は、使い込む価値のある道具だけじゃない。次の段階への橋渡しをしてくれる道具や、使い込んでも深みの出ない道具もあるのではないか。周りの評価などには関係なく、これには何かありそうだ、そう感じる道具を使えばいい。使っているうちに嫌になったものは使うのをやめたらいい。どれか一つに固執しなくてもいい。

使うものを一つに絞っても多くのものを並行して使っても、道具を使っている合計時間は同じ。道具があふれて使いきれないなら、ほかの誰かに譲ればいい。

本当はどれか一つに絞って使い込みたくても、道具が多すぎて目移りしてしまうのが困ったところ。

40-16÷4÷2が解けない?

「40-16÷4÷2」を間違える、それは問題なのか。本当に小学校算数の教え方が悪いのか。

ゆとり教育がよくなかった、という話も聞く。もしそうだとしても学び直せばいいだけのこと。あたかも人材育成が失敗していて、取り返しがつかないかのようにいうのは違うと思う。

さっきの式を「40-(16÷4÷2)」と書くだけで間違えない人もいるだろう。普段しない計算をやらせて、解けない大学生や社会人がいる! と問題視して何になるのだろうか。

確かに漢字やことわざ、四字熟語などとは違って、計算の仕方を間違うと困ったことになるかもしれない。でも日常生活で計算式を解かないなら全く問題にならないのでは。

何らかの計算が必要な場面があったときは、「40-((16÷4)÷2)」のように括弧の中から一つずつ計算するように考えるのではないか? つまり「16÷4」の結果を「÷2」して、最後に40から引こうと考えるのが自然な気がする。一つの式にまとめた「40-16÷4÷2」を解こうとするのは計算問題の場合がほとんどだろう。仮に一つの式で表す場合でも、上で挙げたように、括弧で順序がわかるようにすれば演算ルールを覚える必要がなくなる。

できるだけ無駄を省いて簡潔に表現したいということだろうが、ルールを少なくして誰でもわかるようにするのも良いのではないか。漢字の送り仮名を覚えるとか、英語の句動詞を正確に暗記するとか、そんなことも大事だと思うけれど、細かいことは後で補完していけばいい。そんなやり方もありではないかと思う。

変わっていく好み

パッとしない、面白みにかける。第一印象でそう思ったものが、使ってみると一番よかったりする。これって見る目がないってことなのか。

目を引いて、いいなと思わせるものってのは調和が取れていないということだろうか。だからこそ、長く使っているうちに最初良いと思った箇所がだんだん嫌になってくるのかもしれない。それで、目にとまらないものこそまとまりがよくて長い利用にも耐える、というのなら理解できる。

食べ物や飲み物でも、はじめて口にしたときに驚いたようなものほど慣れるのも早い。何度かならともかく、飽きたら口にしたくなくなるくらい興味がなくなるものだってある。

でも実際に手に入れるものの多くは目を引くものになってしまいがち。頭ではわかっているつもりでも、新鮮に感じるものを手に取ってしまう。たまに掘り出し物はありそうだけども、見るほうが変化していくからずっと興味を惹くものにはならない。

とはいえ、どう感じるかはその人の性質や出会ったシチュエーションにもよるだろう。慣れやすい人もいるし、自分から合わせるのは絶対嫌という人だっているはず。

好みがはっきりしてて周りを自分に合わせたいタイプ、逆に好みの範囲が広くて何にでも合わせられるタイプ。ここだけは譲れないというものがある人とこだわりがなくて流されるような人。人のタイプは千差万別だ。似たようなものばかりではなく、それぞれに違いがあるから面白い。そんなことを実感しながら過ごせたらいいなと思う。

同じものに固執しない、いつもをブチ壊したい気持ちを止めない。変えつつも全く違うものにはせずに両方の間を抜けていくような…まあいいや、何考えてたのかわからなくなったからまた今度。

大修館書店の辞典

「新全訳古語辞典」「明鏡国語辞典 第三版」でいいなと思ってるのは、赤と黒の2色刷りということに加えて見出し語と用例のフォントを変えているところ(物書堂のアプリ版も同じ模様)。明鏡国語辞典に関しては、幅が広くなった代わりに厚みが少し抑えられ、手に取りやすくなったのもいい。

明鏡国語辞典 第二版」も持っているけど、こちらは赤色の使用やフォント分けはされていない。かといって、それが見にくいわけではなく、結局は慣れの問題だと思う。

正直な話、最初は見出しにゴシック体が使われているのを見づらく感じて嫌だった。でも慣れてくるとさっきの2点に気がついて、細かいところを良く工夫してるなって感じた。今はとってもお気に入り。

更新されたものって受け入れ難い気持ちになりがちだけど、ちょっと慣れるまでは先入観抜きに触れてみたほうがいいな。少なくとも、個人的には新しいものが好きなようだ。

コストダウンのためだったとしても、価格が抑えられたり重量が軽くなったり、手に取りやすくなったりするならそれもいいと思う(詳しくはないけれど、辞典のような文字数の多い書籍ではフォントを変えると印刷代にも影響するのかな?)。

外国語の読み方

外国語を勉強するとき、同じ文章を何度も読むのがいいと言われる。逆に、内容がわからなくてもいいから多くの文章を読むのがいいとも言われる。

やってみる側としては正直どちらも難しい。同じ文章を読んでいると、しっかりわかっているわけでもないくせに飽きてくる。かといってわからないままで数をこなしても、読み散らかしていくだけで読めた感は少ない。

試験を受けるのなら、解答を理解して覚えればいいのだろう。しかし、文章の解釈は一つだけと言い切れない。自分なりの解釈を作った後で解答を確認するのはいいとして、最初から解答を頭に入れるのは思考停止。洗脳を望んでいるようなものだと思う。

自分なりに考える。それが人として大切なのはわかるが、そんなことをしている時間はあるだろうか。仕事でも、考える前に覚えろ真似をしろ、と言われていては産業ロボットを増やしているだけだ。できるようになってから考えればいい、という意見が出るのは生産性を最優先しているから。最低限のルールや方法は教わる必要があるだろうけど、ベテランのコピーを作り生きるために作業をするのが人間らしいだろうか。代わりはいくらでもいる、という言葉もあるがそれは当然のことだろう。

誤訳したりしながら、考えながら読んで自分なりの攻略法を見つけ出す。法律や契約などの厳密さが求められる文章ならともかく、物語の読み方を一から十まで学ぶというのは、つまらないことなのでは? そもそも日本語で書かれた文章だって、正確に読めないことが多くあるわけで。

外国語の勉強ために外国語を読むのではなく、楽しむとか知りたいことのために外国語の文章を読む。本来それがしたかったはずなのに、ついついお勉強として文章を読んでしまう。どっちの方法がいいかなんて考えてしまうのは、そうした気持ちの表れだなと思った。ただ、読みたいものを好きなように解釈して読めばいいだけなんだ。

きまりがある意味

きまりについて話すとき、なぜそういうきまりがあるのかを一緒に言ってくれないとただの丸暗記になってしまう。

昔からそうきまってるから、ではダメ。そうきまったのにはちゃんとした理由があったはずだから。それなりに納得できる理由があったはずなのだ。なのに、最終的には何センチまでとかの覚えやすい数字のような記載だけが残って暗記項目になってしまう。これでは暗記テストと変わらない。

内容だけを覚えていて、試験に受かるのは得意だけど実際の業務に役立たない人って多いんじゃないだろうか。ダメかどうかはわかる、でも全体が見えていない。それじゃ、きまりが頭に入ってるだけの規則集人間。いや、人である必要すらない気もする。

だけど、大抵の人は最終結果を覚えるのが好きなもの。要点がまとまった状態を好ましく感じるんじゃないかな。たぶん、考えるよりも楽だから。暗記が苦手でも毎回考えるよりは、繰り返し出てきて覚えた知識をずっと使いたがるものなんだろう。

覚えたものをクリアして考え、再度覚え直すのはとても難しい。そんなことをするくらいなら、全て壊してからやり直したほうがやりやすい。建物や道具、生き物なんかも永くは使わず、新しいものを歓迎する。大事に使っていても、溜まった疲労の影響で致命的な部分が損傷する。検査して取り替えても新しいものには到底敵わない。

きまりを覚えるのは専門の機械に任せて、なぜそうなのかを覚えておく。形骸化したきまりは新しくしていこう。

辞典の用例

辞典の用例について。

具体的には書かないけれど、ある出版社の英和辞典、3つのある単語の用例を見てみた。中学生向け、中学高校生向け、高校生向けの3冊で、辞書名に共通の文字が含まれているもの。用例は全く同じと言っていいほどで、挿絵も同じだった。こうなると、進学に合わせて同じ出版社の辞典を使っていく必要はないように思える。

別の出版社の3冊も見てみる。今度は中高、高校、大学生くらいがターゲットと思われるもので、こちらも辞書の名前に共通の文字が含まれていることから、ステップアップを促しているようだ。こちらも用例は似通っているけれど、登場する人物名や出来事などの名詞を微妙に変えている。紙面のレイアウトも雰囲気が違い、注意点やコラムのようなものにも変化があるので、年齢が進むにつれて買い替えていくのも良さそう。

ただ、中学、高校、一般向け辞書の用例が同じなのは良くない事ばかりとは言えないかなあ。読み比べてあまり面白くないのは確かだけれど、段階を追って買い替えて行っても用例が同じだと安心感というか、3冊を通して大きな一冊の辞典を読んだ気分にはなれるかもね。そこがいいところかもしれない。といっても、3冊とも監修者が違ったりすると、なんだかなあって気持ちにはなる。

同じ出版社で、辞書の名前が新しくなったものは元になった辞書の内容が結構使われているようなので、気になる場合は購入前に見ておいた方がいいかな(そもそも、英英辞典から引っ張ってきてる内容も多いんだろうし)。時代というか労力的にも、まっさらな状態から新規で辞書を作るのはなかなか難しいだろうから。

どっちにしても出版社が同じだと用例は似たものになりがちなので、変化を求めたいときは違う出版社のものを追加した方がいいと思う。

漢和辞典と古語辞典

近頃気づいたこと。 漢和(漢字)辞典が面白い。ついでに古語辞典も面白い。

学生の頃にも多少は読んでたと思うけれど、今どきの辞書の方が読みやすくなっていると感じる。フォントサイズを変えたり2色刷りになっていたり、調べ物をするために開くというよりも、単体で楽しめるようになってる。

まあ、小説みたいにずっと最後まで読んでいけるかは別として、ちょっと手に取って読むにはいいんじゃないかな。読書が苦手な人、忙しい人にもいいと思う。辞書はそもそも一冊丸ごと読むための本じゃないから、読みきれなくても罪悪感のようなものを感じなくて済むし。一つの項目を読むだけだって学びにつながるかもしれない。

よくないことがあるとすれば、紙の辞典は場所を取る。あと、手放す時に高く売れないし、フリマサイトで売ると送料が高くつく。かといって、要らなくなって捨てるにも、悪いことをするような気がしてなんとなく捨てづらい。

一部の人を除いては、古すぎる辞書を持っていても役に立たないわけで。ある程度愛用したら、壊れるくらいの製本がいいのかもしれない。ま、愛用してると逆にどれだけ汚くなっても捨てられなくなってしまうんだろうけれど。

話は戻って、漢和辞典や古語辞典の方が、国語辞典よりも面白く感じる。何気に意外だった。久しぶりに見てみると、漢文や古文って結構覚えてる。案外、勉強していたのかもしれない。現代文よりも教訓めいたものが多かったからかな。といっても、読んだことあるって思うだけで暗唱できるようなのはないけどね。

漢和辞典は特に、同じ部首の漢字が並んでるから意味が近いものを続けて見れる。部首のイメージがまとまってるって感じかな。国語辞典だと、読みが同じ言葉たちのイメージが集まってる感じはそこまでしない。求めていたものは漢和辞典にあったたんだって思った。

ただし、漢文も古文も過去のもので新しいものは出てこない。なので、新しい用例が出てくることは少ないだろうし、他の辞典とダブっていたりすることだってある。そういう意味では、自分にとって使いやすい辞書が一冊あれば事足りてしまう。そこは残念な点だ。国語辞典のように、新しいものが時代に合わせて変化するといったことは少ないだろう。せいぜい、見やすくなったとか歴史背景が学べるサイトにアクセスできるとか、最新の研究成果を盛り込んで使いやすくなったなどの進化に止まってしまいそうな気がする。

それにしても、いくつもの物語を読むんじゃなくて辞書や参考書をつまみ読みしてるだけの読書って意味があるのかな…。まあ、意味はなかったとしても、興味があるからそれでいいんだと思うんだけどね。

適度な緊張感

昨日出かけていたら昼食が午後2時くらいになった。出かけていると確かにそんなに腹が減らない。というか気にならなかった。探し物があったわけでもないのに、売り場を見てると目に留まるものがあったり。脳は何かを探しているのかな。普段気づかなかったけど。

部屋でじっとしていると腹が減る。店を巡ったりしているとそれほど空腹を感じない。部屋に居ても忙しくしていれば腹が減らないのかもしれないけれど。リラックスしていると消化が早くなるのかな。忙しいときは消化がゆっくりなのかも。

家にいると眠くなるのはリラックスしているから? 刺激が少ないだけなのかな。特に急ぎの用事がなければ何時間でも寝れそうな気がする。実際はそうでもないけど。眠くなるのは退屈だから?

眠くなるってリラックスしてるわけじゃなくて、脳が暇してるだけなのかもね。眠くならない程度の心地よさ、それがリラックス。眠くなるならリラックス過剰。そんな感じなんだろか。そんなことを思った。

好きなものをしまい込む癖

時間のあるときに読もうと思い、取っておいた本ほど読めていないことに気がついた。図書館で借りた本のような、手元から離れる日が決まっている本だと一応軽く読んでみることが多いのに。

ゲームとかでも、とりあえずクリアしてしまおう! みたいなものは雑にでも進めていける。それに比べて大事にしたい、楽しみにしているものは、時間があって調子の良いときにゆっくり味わいながら。みたいな感じでプレイしようとしてる気もするなあ。どうやら、好きなものを最後まで取っておきたい性分がこんなところにも現れているらしい。

もう、ご褒美を我慢して勉強してたような子どもじゃないんだから、好きなものほど優先的にすぐに手をつける。そんな習慣に切り替えていってもいいんだよ。そう言ってあげたい。

面白い、面白くない

本や映画を見ていて、面白くない、興味が持てない。そう感じることがある。そこで見るのをやめてしまうのが普通かもしれない。やめてしまって面白く感じる作品を探すって人も多いだろう。

不思議なのは、そこでやめてしまわずに、面白さを考えないで見続けていると稀に「まあこれもありかな」とか「へえー」とかいった感じに楽しめることがあること。これは期待せずに接した作品にも当てはまるかな。ずっと楽しみにしていたものほど落胆が大きくて、何の期待もなかったものは、案外良かったじゃん。って経験もある。

面白さを期待しているときは一言一句を見逃さないような見方をしていることが多いだけに、興味がなくなったときに見るのが嫌になる。それに対して、期待していないものはそもそも適当に流しながら見ているからか、思ったより良いと感じられたりする。

本を読む際は批判的な態度で読め、と書いてあるのをどこかで見た。逆に、何も考えずにただ受け入れる読み方が向いているときもあると思う。読みづらいと感じたら、いろんな読み方を試してみる。順序を無視して読むのもいいし、一旦読むのを止めにして閉じてしまうことも。

注意したいのは、ずっとその作品がつまらないわけじゃないってこと。たまたまそんな心境だった、なんてこともあるだろうから。昔すごく好きだった作品を今見て、大したことないって感じることだってあるでしょ。それと同じように、全然面白くなかったものもタイミング次第ではすごく面白くなる可能性がありそう。面白いって感じる感受性ができてないってこともあり得るだろうし。

人の心ってコロコロ変わるからココロっていうらしい。物事に対する心の感じ方も毎回違うんじゃないかな。

覚えることについて

記憶については、何度も繰り返し接していたら脳が大事なことと認識して覚えられる、とか。一度ですべて覚えているけど思い出せないだけ、という話もある。いったいどれが正しいのやら。

いや、どっちが正しいってわけではないのかもしれない。ショックな出来事は一回で脳に刻まれて忘れるのは難しいという。だけど、おそらくそれは一回で記憶されるのではないだろう。辛い出来事なだけに頭の中で何回、何百回も繰り返されることで記憶されるのだと思う。

草だらけの場所でも、そのうち人がいつも歩くところに道ができていく。同じように、脳内で何度も蘇るたびに強固な記憶になっていくのではないだろうか。となると、ぐるぐる思考は悪いというイメージがあるけれど、記憶するべきことをぐるぐるできるなら一つの才能とも言えそうだ。

一回聞いただけで覚えられるように見える人も、周りから見ただけではわからない。実は頭の中で何度も繰り返しているのかもしれない。本人が気づかないところで、たとえば夢に出てきたりして無意識に何度も繰り返している可能性だってある。

効率のよい勉強法などを見ると、一冊の本をサラッと何度も繰り返し読むのがいいとか、じっくり精読するのがいいとか一見逆のことが書かれている。これも書かれていることを何度も頭に思い浮かべるという意味で、結局は同じことを言っているのだろう。

昔からたくさんの人が挑戦してできなかったように、何も考えずに頭の中を空っぽにすることなんて普通の人はなかなかできないものだ。興味のあることを何度も思い浮かべていれば、それなりに覚えることはできるはず。

つまるところ、覚える方法があるとしたら、それは興味を持つこと。知りたい、そう思えればどんな方法でもいい。でも世の中の人が記憶術を知りたい! というようなときは、たいてい興味がなくてやりたくないこと、試験に合格しないと生活に影響する、そんな状況だろうから簡単には覚えられない。必要に駆られて学ぶという手もありそうだが、それでは主体性がない。楽しくない。できれば興味を持って学びたいもの。

ただ、難しく考えなくていい。興味が持てれば理由はなんだっていいので、先生の解説が面白いとか、容姿が好みとか、テキストのデザインが良くて触りたくなるとか。正直、興味が持てさえすればどんなことだっていい、内容には関係ないと思う。当然、Amazonのレビューがいいとかはまったくもって関係ないし、どうでもいい。でも、みんなと同じが好きな人にはレビュー評価が高いことは大事なことかもしれないが。

あれをマスターしたらかっこよく見られそうとか、稼げそうとか。そんな動機では脳がフルパワーを発揮しない。気になること、関心があることに取り組む。それだけでいくらでも覚えられると思う。歳を取って記憶力が落ちた、なんてのは多分嘘。覚えたいのに覚えられない、なんてのも勘違い。

じっくり感じてみてほしい、まだ本当に興味がある? って。もう大まかなことはわかっていて、惰性で続けているのでは。覚えようとする出来事に対して興味がなくなってきた、そういうことなんじゃないかな。