なんだろうか、この眠気は。
春眠暁を覚えず、というものか。
いや、春だからってだけのことでもなさそうだ。
日記アプリを検索してみると、1ヶ月に一回くらいは「眠い」の文字…。
要は、いつも眠いってことだ。
イライラしたり、ムカついたりして止まらないとき。
こういうときに、つい暴走してしまったりしやすいもの。
だから、強制的でもいいから、とにかく寝よう。楽しいことを考えられなくても、せめて思考を停止、アタマをからっぽにして。
同じようなことを何度も書いてる…。よっぽど改善したいことなのだろうし、また書くだろう。でもいいのだ!私のブログなんだから。
本に間違いがあることは、たまにある。
小説やエッセイなら、それほど問題ないが、学習参考書や専門書の場合は少し困る。
単純な、送り仮名の誤りに始まって、ときには、それまでの話と矛盾する説明がされていたりすることもある。
私でも気づくことだから、たいした内容では無い。
でも、さらに他の間違いがありそうだな、という予測をすることくらいはできる。
人のすることに完璧は無さそうだし、"致命的"でなく、"気がつく"ようなミスであれば、問題ないのではないか。
まあ、そんなこともある、と思いながら読むのがいいのだろう。
同じ分野の本を複数読むということは、"間違い探し"ができるという意味でも役に立つ、と思うようにしている。
ホントのところは、ただの興味本位で、いろんな本に手を伸ばしているだけなのだが。
一応、確実であろう間違いについて、出版社へ連絡してみた。
やはり、他にも誤植があるようで、版を重ねながら訂正しているという。
気になったのは、ウェブなどで正誤表を発表する予定はない、という回答であったこと。
なにも責めるつもりじゃないのだから、ちゃんと公開してほしいものだ。
致命的なミスではないそうなので、その言葉を信じることにしたいが、初めの方の版を買った人に、失礼だとは思わないのだろうか。
ところで、辞書のような本でも間違いはあるらしい(ページが多いから当然か)
実際にあった。書店で最新の版を見せていただくと、しっかり修正されていた。
私は。
細かいですし。
店とかに問い合わせをしても、おまかせではなく、詳しいことまで干渉したがる。さぞかしウザいと感じているでしょう。
でもね、ちゃんと理解したことについては、うるさくも細かくもない、と思ってます。
誰でもそうだろうけど、説明やら何やらでは納得できないことを、イヤイヤながらもやるとか、意味もわからないことをただ覚えるとかいうのは、大変苦手なんじゃないでしょうか。
たとえ、何の役に立たなくても、いろんな資料にあたったり、聞いてみたりして、「そっかー」って理解できれば、それでいいんです。ただそれだけなんです。
こういうのって、実は、うまく世渡りできない、お金持ちになれない性質なのかもしれません。
特に目的もなく、ただ、わかるためだけに、時間やお金を使っていく。
何かを成し遂げる訳でも、誰かの役に立つ訳でもない。
そう考えると、ホント、無意味なことしてるなー、って気もします。
でもね、そんなのが、私なのだ、と密かに思っていたりもするんです。
うるさく思われても、細かいと陰で言われても、しょーがないじゃん! そんなんなんだから。
ってことで、これからも傍目には、役立たず!とか思われながらも、興味のあることに振り回され続けよう、と考えてるところなんですよ。
普段持っていて、よく使う、iPhoneとApple WatchだけはAppleCareの契約をしている。
Watchについては、背面の塗装剥がれで相談したことがあり、交換することもできるという話だったが、正常範囲だと思えたので、そのまま使い続けている。
そう言えば、iPhone4Sのときにも、契約期間ギリギリでバッテリーの減りが早く感じ、エクスプレス交換サービスを利用できますよ、という話だったのだが、設定やアプリを見直したところ、改善した気がしたので、そのまま。
今も家用のApple Music端末として活躍している。
結局のところ、AppleCareには入っているけど、損をしているような気もする。
ただ、電話サポートは利用させてもらっているので、安心料といったところか。
そろそろ、Apple Watchの新型が…という話はなさそうなのだけど、契約しているAppleCareは、あとひと月足らずで期間終了。塗装剥がれで交換してもらえれば、バッテリーも新しくなってラッキー、と思いたいところなのだが、何となく、素直には喜べない。
何というか、一応これまでの二年間、ほぼ毎日着け続けてきたという「実績」のようなものを、ただ新品(とされている)というだけのモノと交換するということに、違和感のような、嫌な気持ちを感じるのだ。
これが、Apple製品の話でなければ、修理という選択肢もありえるのだけれども。
新しいということは、魅力的である。
でも、これまでの実績というものも捨てがたく、充分に魅力的だ。
こういう風に思うのも、歳のせいだったり、時代のせいなのかもしれないが。
コミュニケーションを取るとき、論理的である必要は無いのだろう。
話の内容自体は、どうでもよい。いや、多少違っていてもいい、と言うべきか。
内容が正確か、と言うことよりも、こんな感じ、が伝わればそれでいい。
特に、何かの説明をするようなときには。
場合によっては、説明すら要らないのかもしれない。
そうなんだよ、とか、そんなもんなんだよ、という風に。
細かいことを伝えようとしながら話していると、場が不安定になったり、ときには壊れてしまうことがある。
そうなると、もう、話の内容より、ただの言い合いみたいになる。簡単に言うと、何やってんだろ?ってなことに。
昔の発言を取り上げるときも、そう。最後の最後には、言った、言ってない、になるだけ。
じゃあ、どうすればいいのだろう?
言い合いをしてまで、話をしなくてもいいだろう。勝ち負けは無いのだから。
正しさより心地良さ、どう感じ、どう思うかを目安にしたほうが、いいのではないだろうか。
ただ、話を聞いて欲しいのだろうけど、聞いているうちに、こちらにも言いたい、聞いて欲しい、そんなことが猛烈に浮かび上がってくる。
そういうときには、どうしたらいいのだろう…。
とりあえず、無理矢理にこちらの話をねじ込もうとしても、上手く行かない感じだ。
じゃあ、ずっと聞いておくことにする?
それもなかなか難しそうだ。でも、ひと段落するまでは、聞いておくのが良さそうではある。
そこで、ある程度聞きながら、気になる、何か言いたくなったことを、メモしておくのはどうだろう?
そのメモが、ある程度溜まり、もう一度見返し、タイミングを見計らってから、こちらの話をする。そういうのは、どうだろうか?
話をしている本人としては、聞いてもらうだけでいい、意見は要らない、ってことなんだろうけど。
どうして何か言いたくなってしまうのだろうか。相当なお節介焼きなのだろうか。
どうしようもなく感じるとき。
うまくいかない気がするとき。
できないと思うとき。
なんでわかってくれないんだ、ってとき。
なんだかモヤモヤしてるとき。
生きにくいって思うとき。
どれも似たような表現だけど、つまり、結局、「ダメなとき」
すべてを「停止する」
そして、「寝る」
再起動で、回復する。
頭の言うことなど、信じてはいけない。
近頃、気になってやってる「辞書の散歩」
持ってる辞書を行ったり来たり。適当に。
何気に困ってきてるのは、用例が少ないような気がすること。
でも、これ以上増やしたら、厚い本がさらに厚くなっちゃう。
アプリの辞書もいいけど、スカッとしすぎな気もする。
いつでも使えるのはアプリ。どっちも気ままに使ってる。
もっと散歩してたいけど、いつまでたっても終わらなそう。