書いて浮かべるブログ

書きながら考える

のんびりしたい私のアタマノナカ

思い込みしだい

脳は過去と未来を判別することができないと聞いたことがある。確か、脳自体としては善悪の判断もできないのではなかったか。

内容の面白さとはまた別の要因で、気分の良いときにしていることが楽しく感じられたりするもの。

授業を受けるにしても、つまらないと思いながらだと本当につまらなくなってしまうし、面白いと思いながら仕事をすれば面白く感じることもある。

どちらにせよするのなら、楽しくやったほうがいい。

つまらないと思いながらすると、つまらないだけでなく疲れやすくもなる。さらに困ったことに時間が流れるのも遅く感じてしまうのだ。

そんな経験はないだろうか。つまらない仕事をイヤイヤやっていると、仕事は終わらないわ、ミスはするわ、定時までの時間をとても長く感じたりする。逆に、仕事上がりに楽しみにしていたイベントがあって気分のいいときなんかは、仕事がスムーズに進みやすくなる。仕事が面白いとまで思わなかったとしても、つまらないとかツラいと感じながら過ごすことは少ないだろう。


頭の中というのは不思議なものだ。どういう状態で物事に取り組むかによって、感じかたが全然違ってくる。

それ単体で面白いことなんてないのかもしれない。他の人から見たらくだらないと思えることでも、楽しみながらやる方法があったりするのだろうか。

楽しさは周りの誰かからもらうものではない。楽しいと思いながらやるのが大事なんだろう。少なくてもつまらないと思いながらやっていれば、どんなことだってつまらないことになってしまうのではないだろうか。


毎日のルーチンワークをなくそうと考えても、そう簡単になくなるものではない。毎日予想外の出来事がある生活なんておそらくないのだろう。幼い子どもならまだしも、長いこと生きてきた人が刺激を感じることなんてそんなに残されていないということなのかもしれない。

しかし、予想外の刺激を感じられないのは自分のせいだろう。いつもと違う変化に気づかなくなっているだけだ。どうせ前と同じだろうから、と言わんばかりに頭の中で思っているから何も変わらず面白くないと感じてしまうのではないか。


変化がほんの少しでゆっくりだと、脳はその違いに気づかないらしい。いつもと同じだから、見なくてもいいし気にしなくていいや、というように。脳ってやつはそういうものなんだろう。

普段と変わらないように見える日常の中にも、面白いことは存在している。ただ自分がそれに気づいていないだけ。そう仮定して暮らしてみるのはどうだろう。仕事だって勉強だって遊びだって、とびきり面白いと感じる状態はそう続かない。それなら、その辺に転がっている当たり前に見えるものを、面白がってみるのもいいのでは。

誰かが言ってたじゃないか、人生楽しんだもん勝ちだって。

誰が何を言うか

僕らは、人の言っている内容そのものに、あまり興味がないらしい。

たとえ私が素晴らしい内容のことを話していても、上半身は裸でトランクス一枚の格好なら、少なくても見知らぬ人にちゃんと話を聞いてもらうことは難しいだろう。

逆にたいした話はしていなくても、オーダーメイドのスーツを身にまとって、どこぞの社長のように見える風貌であったなら、一人くらいは話を聞いてくれる人がいるかもしれない。

口下手な有名人が深いことを考えずになんとなく語った言葉でも、それを聞いた人たちがいろんな想像をしてくれるらしい。周りが勝手に含蓄のある言葉というとらえかたをしてくれることもあるようだ。

つまり、ある程度は尊敬している人の話でないと、聞く耳すら持っていないということ。デフォルトの状態では片方の耳から反対の耳へ抜けてしまって頭に入らないし、頭に入ったとしてもどうでもいい内容に聞こえてしまう。それは、サラリーマンには口うるさい上司の説教かもしれないし、子どもにとっては親や教頭先生の小言なのかもしれない。


書物に載っている内容でも同じなのだろうか。

書かれていること自体には興味があって知りたいことなのに、著者の文体が嫌いだから記憶に残らないこともあるような気がする。

私は言葉を使うのが仕事ではないので経験したことはないのだが、小説を書いたり詩を書いたりする人はどうなのだろう。書いた人が意図していないかたちで理解される、というようなことはあるのだろうか。

例えば、ある作家がなんとなく書いた文章を評論家がいいように解釈してくれて、作家の思いとはまったく違ったかたちで評価されてしまったりとか。

もしそんなことがあったとしても、文章を書いた作家が本当のことをいうことはないだろう。評論家の解釈を自分のものとしてしまうかもしれないし、無意識にそう思い込もうとするかもしれない。それに、いくら作者とはいえ人は常に変わり続けていくものだから、月日が経てば書いたときとは違う考えをするようになっていることだろう。


どうやら、どちらかというと何を言ったかよりも、誰が言ったことなのかが重要なことのように思われる。そしておそらく、それ以上に大事なことは、その言葉と出会うタイミングなのだろう。いくら自分が必要としている言葉だとしても、ほんの少しのすれ違いのために心には響かないものになってしまうこともある。

何かピンとくるものを感じるというふうに、そういった感覚に気づけるような状態でいることは大切だと感じた。

「わからない」をどうするか

わからないことに出会ったときの対応は、人によって違う。

まず一つ目は、見なかったことにしたり、触れないように避けてみたり。
理解できないことほど、逃げるように離れたり自分と同じ意見の人たちと固まってしまいやすいもの。ときには仲間を集めてわからないことを排除しようとしたりもする。

よくやってしまいがちな対応だけど、これをやってしまうと余計にわからないことが気になってそこにばかり目がいくようになってしまう。

まったくの無視が出来れば良いのだけれど、なかなか意識から消してしまうことは難しい。そんなことができるのは修行を積んだ聖人のような人だけだろう。実際にそんな人がいるならの話だが。

もう一つの対応は、わからないことを理解しようとすること。
わからないことというのは自分の思考回路にない発想なのだから、怖いと感じてしまいやすい。でもそれは、他のほとんどのことと同じようにわかってしまえば大したこともない。それに、理解することで自分に合った対処法を考えることもできる。

どちらを選ぶかは自由だ。わからないことを理解するのはときに大変な労力を要するし、時間もかかる。わかるまでの長い間、もやもやした不安定な状態を続けることにもなる。今のようにインターネットで検索をかければ手っ取り早くそれなりの答えが手に入る時代に、そういった状態に耐えることができる人は少なくなっているだろうから。

じっくりと考える時間もなく、0か1のようにデジタルな感覚を求める私たちには、わからないことから目を背けて逃げ回るのもそれなりに楽しいかもしれない。誰かが用意してくれた解答を記憶してわかったつもりになりながら、本当の部分では会得していない道具を使いながら暮らしていくのもアリだろう。

数学の公式一つを心の底から理解するというようなことは、この時代には求められていない。計算機のように問題から答えを導き出していく。求められているのは結果だけ、計算機にやりがいは求められていないのだ。

本来の学問とは、どこかの天才が見つけ出したものを追体験して、ごく稀に新たな発見が生まれるというようなものだったのだろう。しかし、今はほとんどの人にそのような学問は必要なく、学問の成果を使えるようになれれば十分。それも、他の人より結果を導く能力に長けていることを証明するためだけに学問が利用されている。それなら、競争をさせることができればなんの競技でもいいではないか。極端なことをいえば、50m走の速い順に社会的地位を与える、というのでも社会が認めるものならなんでも良い。

けれども、なんらかの教育を受けている私たちは、わからないことへの対策を教わってきているはずだ。一から教えてもらわなくても自分の力で考えることができる。もしかすると、その答えは正解ではないかもしれないが、自分の頭で自分なりの答えを考えることが大切なのだ。それができないと、いつまでたっても誰かの考えの言いなりになってしまう。

まあ、さっきもいったようにどちらを選ぶかは自由だから、好きにしてみたらいい。
ただ、選択肢がない状態に比べれば、いくらか気楽でいられるのではないだろうか。

運動会のお弁当

運動会について聞いた話。

運動会をお昼で終わるようにしたから、お弁当を食べることがなくなったのだとか。

子どものころ、親が運動会を見に来るときもあれば来ないときもあった。見には来なくても、昼ごはんの時間に合わせて弁当を持ってきてくれて一緒に食べていたから、弁当を食べるのは普通のことだと思っていた。そのあと、だいたい15時くらいには終わってたかな。

そんな思い出のある人からすると、運動会がお昼で終わるというのは寂しく感じてしまうらしい。逆にお弁当の準備をしなくていいから、昼で終わったほうがいいという人もいるらしく、どっちもどっちといったところか。まあ、いまどきはお弁当の準備といっても早朝からつくってくれるわけではなく、弁当を買ってくるだけらしいのだが。

しかし、お弁当を一緒に食べるだけなら、運動会が終わった後に勝手に食べたらいいのではないかと感じる。運動場にいるのが良くないのなら、どこかの公園なんかに出掛けて行って、家族で弁当を食べたらいいだけのことではないのか。友だちの家族と食べたいとしても同様だろう。

それに、運動会自体についても好きなように変えていったらいいと思う。運動が得意な子には楽しいイベントでも、そうでない子にとっては本番だけでなく、練習をしているときからつらいものだ。そんな子に合わせて競技をつくってみたり、赤白青とかの組に合わせて競い合わせるのが嫌なら、もっと楽しいと思えるシステムを考えてみたり。

私にいわせれば、そもそも運動会という名前が良くない。なんでもいいからやりたくなるようなイベントを考えてみてはどうだろうか。そんなことを思いつかない、考えたくないような人材は学校に要らないのでは? とも感じてしまう。

子どもに勉強させるためにご褒美で釣ろうとするだけの親や、学習する楽しさを教えられないような先生しかいないのかもしれないが。

確かに、勉強さえできるようになれば手段なんてどうでもいいのかもしれない。しかし、そのまま大人になって、勉強をさせられる環境がなくなってしまったときにその人はどうなってしまうのだろう。

ご褒美を見せつけられなければ、もう勉強はしない。学習する楽しさを知らず、攻略法だけを駆使して仕事をこなしていく。したいことなんて何もないし、お金にならないようなことはしない。それでも構わないが、それこそ人間ではなく、コンピュータと同じになってしまう。

したいけど今はできないことに取り組んで、できるようになっていく楽しさを知らなければ自信なんて生まれはしないだろう。運動会のように、面白くもないけどしないといけないことを無難にやるくらいなら、しなくてもいい。みんなで楽しめそうなことを企画して、先生や保護者がサポートしていく。全員が納得するイベントなんてありえない。それならバラバラにやるなりなんなりすればいい。そんな、少しでもみんなが面白いと思えるようなものを協力してつくりだす場が学校なのではないだろうか。

個人的にはみんなで楽しくってのは嫌いだし、いまどき勉強は家でもできるので、学校もイベントもなくなっていいとは思いますけれど。

みんなと同じ

みんなと同じは良いことだろうか。

この島にはそんな人が多いらしい。みんなと同じなら赤信号を渡ることはもちろん、どんなことをしても気にならないようだ。多数決=正しい、ということになっているのかもしれない。

多数決に従わないと不利益が起こるなら、みんなと同じが安心なのは仕方がない。みんなと違うと生きていけなくなってしまうのだろうから。外の世界に接することが少ないほど、そういう思いは強くなる。

自分の考えを信じていても平静でいられない人は周りに合わせているしかない。中途半端に我を張っていてもどこかで無理が出てきてしまい、周りの普通から影響を受けてしまう。そうすると、安心してはいられなくなる。

そもそも合わない人と一緒にいる必要なんてないから、壁をつくって抵抗するくらいなら一人で居られるようにしたらいい。一人では生きられないって? 甘ったれたことを言うもんじゃない。一人でも生きられるようになるか、周りに合わせて自分を抑えるか、まずはどちらか決めるべきだ。両方を許してくれるほどの才能があるのは生まれたばかりの赤ちゃんか、誰からも憎まれないような魅力に溢れた人くらいだろう。

しかし、無理して一人で生きようとするくらいなら、周りに合わせたほうがいいのかもしれない。多数決に従った生きかたにはモデルケースが用意されているからだ。いくら生きかたが多様化しているとはいえ、多くの人に合わせていれば自分で悩まなくて済む。そんな何も考えなくていい生活を望んでいるのならだが。

自分の頭で考えて行動するなら、悩み苦しむのは仕方のないことだろう。誰かの真似ばかりをしていたら、結局他人に合わせるのと変わらないのだから。考えた挙句の結論が誰かと同じになることもある。それでも自分で考えた末のものなら、気持ちを抑え込むことなく納得できる。

失敗しなければ成功もない、とよくいわれる。周りに従い続けていれば、何も新しいことは起きないが与えられたものだけで満足はできない。周りの説得を聞いたとしても、納得できるまでやってみること。そうしていないと面白いことなんて見つけられない。満足も納得だってできるわけがない。

だけど、満足も納得もなく、面白いことなんてないけれど、安心できる生活がしたいというときはみんなと同じにすればいい。別に悪いことではない。そういう時期のこともあるのだろうし、つまらないことに耐性があるのだろう。けれども、面白いことを見つけたいなら、みんなと同じはやめたほうがいい。似た感性の人に合わせるのもいいが、自分のセンサーを研ぎ澄ませることで誰かに合わせる必要がなくなるからだ。

好きなようにしていて似たような人に出会うのと、好きなようにしている人に合わせるのとは、まったく違うことなのである。

面倒のなかの面白さ

私には面倒なことがかなりある。もともと自分のことはめんどくさがりだと思っているし、具体的にどんなことかと聞かれても答えることはできないが、まあいろいろあるんだと思っていた。

どんなことを面倒だと思うか考えてみると、多くは生きるために「しないといけないと感じている」ものに分類されることを面倒だと思っているらしい。

なんとも思わない人がほとんどだと思うけれど、歯を磨いたり顔を洗うことすら面倒になる人もいる。服を着替えるのが面倒とか、朝に目が覚めて布団から出るのが面倒だとか。食べることにたいして興味のない人なら食事も面倒なことに含まれるのかもしれない。

ところで、「面倒なこと=面白くないこと」なのだろうか。確かに歯を磨いたり服を着たりすることを面白いと感じながらワクワクしていることは少ないだろう。しかし、面倒なことが面白くない、というわけではないような気がする。
そういった日常生活で習慣になっていることは、面白いとか面白くないという対象になっていないのかもしれない。ただ無意識にやっていること、そんな種類のことを面白くないからやりたくないと考える人はあまりいないのだろう。

したいことをしているつもりでも、熟練していくとあまりに簡単なものに思えて面白さを感じなくなってくるものがある。少しずつ、段階にしたがって難しくなっていくようなもののほうがやる気を引き出してくれることもある。ということは、面倒だからといって面白くないということではないらしい。

もし私のように面倒くさがりの人がいるなら、試してみてほしいことがある。それは面倒だと思っても、面倒と感じながらでいいからやってみること。トイレに行くのと同じくらいの感覚でやってみるといいだろう。
トイレに行くときに面倒だけどどうしようか、なんてことを考え続ける人はいないはずだ。しないといけないと感じていることをするときに面倒さを感じるのは、「しなくていいならやりたくない」という気持ちが隠れているからだろう。やりたくなくてもしないといけないなら、やり始めるだけのこと。だらだらとやりたくない感情に浸っているからさらに面倒になっていくのだ。

するべきことをただ黙々とやっていくことで「しないといけない面倒なこと」がなくなれば、残されている面倒なことは「しなくてもいいこと」だけになっていく。その中にはまったくしなくていいこともあるだろうし、やってみたいけど面倒なこともあるだろう。しなくていいことはやらないだけだが、面倒だけどやってみたいことは大切にしたほうがいい。なぜなら、この中にしか面白いことは含まれていないからだ。

やってみたい面倒なことに手をつけていくことで、面白いことを見つけることができるかもしれない。しかし、もし見つかったとしても、すごくやりたいことだとは限らない。

たとえそれが仕事にするのに適当な「毎日してもいいくらい面倒なこと」でもいいではないか。
少しでも面白いことを見つけられる可能性が、面倒なことの中にあるわけだから。

甘いものが食べたかった

コーヒーとチョコレートを食べたりしたら、元気が出そうだと思った。
そういえば、たまにコーヒーは飲むけど、チョコレートはめったに食べなくなったなあ。

頭を使う作業をする前に、甘いものを食べるといいって話があるよね。糖質を摂取すると良いっていうのはなんとなくわかる気がする。ということは、頭脳作業を仕事にしている人たちは甘いものをとっていないとやってけないってことなんだろか。体を使う人は、栄養ドリンクを飲んだりしてないとやってけないくらいの労働量なのかな。

体を使うにしても頭を使うにしても、昔と比べたら楽になってるはずだよね? 機械が導入されてるんだから。でも、機械のないときにはとても1日にできなかった量の作業をしないといけなくなってるのかも。たくさんの仕事をこなせるようにはなったけど、人の疲れ具合は大して変わってないのかもしれないね。

もしかしたら、座ってるだけの仕事とかだと体を動かさない分、逆に疲れてしまいやすいのでは?

体や頭をフルに使って健全な疲労を感じていたほうが、ホントは気分転換になってたりして。作業を機械に任せて楽になったのは間違いないけど、見せかけの作業の数だけが増えてモヤモヤしやすくなったせいで甘いものや栄養ドリンクが必要になったのかもしれないよ? 全身を使って仕事や勉強、運動なんかをやり終えると、なんともいえない爽快感をご褒美としてもらえるでしょ。

脳に対する甘いもののようなものは、もうひと頑張りしたいときに使うちょっとした起爆剤だと思う。いつもはそんなものを使わなくてもやってけるだけの活動量にしておかないと、毎日消耗してしまって続けていくことができなくなる。そういう意味で、サプリやコーヒーがないと続けられない生活ってのは1日にいろんなことを詰め込み過ぎてるんじゃないかな。

なぜだかわからないけど人には調子の良くないときもあるから、1日にしないといけないことをあまり多くつくらないこと。その代わりにしたいことを一つ二つくらい入れてあげる。自分に発破をかけるときって、したくないけどやらないといけないことをしているときだと思うから。したいことに集中してるときには、意外と甘いものが欲しいなんて思わないもの。

ぐうたらな頭のいいなりになるのは好ましくないけど、コーヒーとチョコレートを食べて元気になろうと感じた私は、疲れていたのかもしれないね。

良すぎると記憶に残らない

不思議に感じたことがある。それは「面白かった、良かったものほど覚えていない」ということ。

面白かった映画や本というのは、面白かったと覚えているわけだから見終わったときにそう感じたのは間違いのないことだろう。それでは何が面白かったのか、と聞かれると意外に答えられないような気がする。全体的に面白かった、それは確実だと思うのだが。

いろんな謎が入り組んだ物語があったとしよう。たいていの場合、謎は最後に解決して終わりとなる。映画なら時間、本ならページ数などの問題でそれがうまくいかなかったとしても、何作かの続編が発表されてすべての謎が氷解することがほとんどだ。逆に、疑問が残されたまま物語が終わりを迎えたままになると、駄作という評価が下されてしまいがちだ。

しかし、疑問残されたままというのは頭にとって案外気になることらしく、大きく膨らんだ謎がラストで一気に解決する作品と比べるとなかなか頭から離れないことがある。簡単にいうと、ツッコミどころが満載なのである。こういった作品は、同じ作品を見た人たちと感想の共有がしやすく、話題にするのにピッタリだ。あのシーンはどういう意味なんだろう? とか、あそこをもう少し細かく描いて欲しかったなど、話のネタにもなりそうだ。要するに、頭が働き始めるための素材になるのである。

そういう意味では、映像にできないといわれた原作を映画化などという触れ込みのついた作品があまりパッとしないのは仕方のないことなのかもしれない。その原因については、原作を読んだひと各人が描いていたイメージをたった一つの映像にしてしまうからだといわれる。どこの誰が見ても自分のイメージ通りだと感じるような映像なんておそらく存在しないから、たとえ誰かに絶賛されたとしても他の誰かには酷評されてしまうのが関の山だろう。

同じように、登場人物の性格についても違和感のない無難な人は記憶に残りづらいのかもしれない。だいたいのキャラクターパターンは決まっているように感じるし、個性的なキャラの人たちが集まって物語を作り上げる。商売として考えると、それぞれのキャラグッズが売れるように満遍なくファンがつくようことも考えておかなければならない。そして、見終わったときに視聴者をスッキリさせ過ぎない程度のモヤモヤした雰囲気は残しておく。記憶に残り、ずっと忘れないものというのはそんな巧妙な構成でつくられているのかもしれない。

それにしても、名作といわれる作品ならまだしも、そうでもないものが記憶に残ってしまってるのは、私の感覚が作者の気持ちに近いものを持っていたからなのだろうか。インターネットを使っても似たような感覚の人を見つけることができなければ、その作品が世の中に出回ったこと自体まぐれだったということかもしれない。詳細に作り込まれたものなら人の心に刻まれるとは限らないのである。

まだ使えてる初代AppleWatch

AutoSleepアプリを使って睡眠中のログを取るようになってから、AppleWatchの充電を入浴前にするようなサイクルになってるんだけど、数日前に半日ほどで突然バッテリーが赤いところまで減ってしまって驚いた。いつもは1日持つのにと思いながらも、いいかげんそろそろ買い替えないといけないかな、なんて考えたり。
ずいぶん再起動してないことに気付き、試してみる。どうやら当たりだったようで、その後の駆動時間は元に戻ってたけれど、AppleWatchのバッテリーがおかしくなってきたのかもしれないので、Appleサポートに問い合わせてみることに。

オペレータの方の指示に従ってiOS診断をする。以前、塗装の剥がれやマイクの動作について相談したときには案内されなかったけど、Watchでも診断できるようになったんだな。診断自体は1分もかからずに終了。診断結果をパーセンテージでみることはできないようで、バッテリー容量はだいたい90%くらい。とても良い状態らしい。ハードウェアの他の部分にも異常はなく(マイクは診断対象外)、まだまだ使えるとのこと。

確かに、久しぶりに再起動をした後はいつもと同じように丸一日の利用が可能になってたから、ハードに問題はなかったんだろう。それにしても、このAppleWacthは2015年の発売日近くに買ったから、もう丸4年使ってる。時計なんだからこれくらいの年数使えるのは普通だろうけど、ガジェットとしてはホントに優秀だと思う。WatchOSのバージョンアップに伴って動作はもっさりとしてしまったくらいで、時計・通知・アクティビティの記録という基本機能を使う分には問題ない。着け心地が未知数だったシリコンバンドについても、多少の黄ばみが見られる程度でバンドを止める部分の金属が外れる様子もないし、金属を差し込む穴にも亀裂などはなくしっかりしている。

どうしても技術の進歩にしたがってWatch本体は年々バージョンアップをしないといけないんだろうけど、バンドにはその必要がないからこれくらいの耐久性を持ってるのかな。実際、現行のシリーズ4でも同じバンドが採用されてるし。

今使ってるのが壊れたからってすぐに現行モデルが購入できるわけじゃないけど、まだ使えそうとなるとちょっと微妙な心境になってしまった。ちなみに、今でも初代AppleWathはバッテリー交換や画面割れを含むすべての修理ができるようだ。ただいくら今使ってるWatchに愛着があったとしても、修理費用を考えたら新しいモデルを買っちゃうよねって気はするんだけども。

ひとまず終わりまで

机の前に座って作業をしていたときのこと。

ずっと続けていると、行き詰まってきた。煮詰まったとでもいったらよいのだろうか。休憩を挟んだりしながら続けてみる。やはりうまく進まない。時間ばかりが過ぎていく。

ダメだこりゃ。これ以上は時間の無駄だと感じて、違うことを始めてみる。その間も頭の中ではさっきの作業のことが気がかりではある。気分転換して完全に忘れられるといいのだが、私の頭はそう簡単に忘れてくれそうにない。こんなことより単語の一つでも暗記してくれたらいいのに。

30分〜1時間ほどして再び机に向かうことにする。今度は家族が掃除機をかけ始めたりして騒がしい。部屋のドアを閉め、音楽を流して防衛開始。不思議と今度はスムーズに進む。一体何が違うんだろう?

さっきと変わったことといえば、「なんとかちゃんと終わらせなきゃ」と思ってたのを「もう適当でいいや」と思ったことと、静かだった部屋に掃除機の音と音楽を鳴らしたこと。この二つが効いているのだろうか。長めの休憩で頭の疲れが取れたのかもしれないが。

適当でいいとはいわないが、完璧にしようとすると終わらせるのが難しくなるんだろう。終わるためのハードルが高くなるわけだから、そりゃそうだ。一通り終わらせよう、というくらいでちょうどいい。一旦終わって時間があるなら、もう一回見直せばいい。

趣味でも仕事でもそうだろう。向かっている先が正しいかもわからないのに、少しつまづいたところで止まってじっとしていたら最後まで行き着かない。もしかしたら、つまずいた場所には行かなくてよかったのかもしれないのだから。途中に尋ねる相手がいるならともかく、そうでないならひとまず終わりまで行ってみる。それなら間違ってたとしても、もう一度最初から始める時間が残されている。

たったひとつを成功させるより、失敗するかもしれないものを何度も繰り返すほうがやりやすい。失敗作はたくさんできてしまうけれど、ひとつも完成しないのでは話にならない。

いろんなことに手を出すけど続かない、そんな人は失敗を怖がっているんじゃないだろうか。どこかで効いた言葉だが、やめない限りは挫折はない。のんびりと一生続けてもいいんだから、簡単に挫折なんてしなくていい。今はうまく行かないことでも、興味があるならしつこく続けていったらいい。周りにどう思われようが関係ない。

他の人に対してもだが、自分の失敗にも寛大になるほうがいいなと感じた。

広めたい人

LINE Payのキャンペーンについて聞いた話より。

知ってる人がたくさんの人に無料で1000円を送金してるらしい。もらった人が1000円分もらえるんだけど、何人からもらっても、もらえるのは1000円だけ。だから、相互に一回送り合えば終わりで十分だと思うんだけど、たくさんの人に送りたくなるのはどういう心境なんだろう?

たぶん、キャンペーンを知らない人に知ってほしい、お得感のお裾分けをしたいんだろな。
だとすると、キャンペーン開催側としてはいいお客さん。放っておいても勝手にユーザーを増やしてくれる。2人のユーザーが相互に送り合うだけでも銀行口座登録や本人確認をする人が増えるから、それだけでも十分。さらにうまくいけば、お裾分けをしたがる人がねずみ講式に利用者を増やしてくれるかもしれない、という。

小さい字で書かれている説明を見てみると、10人に送ってツイートすると追加キャンペーンとして100万円分にチャレンジというのがあるようだ。じゃあ、そのためにたくさん送ってるのかな? とも思えるけど、もっと多くに送ってる気がするし。「広めたい人」っているのね、と感じた。おそらく、そういう人が広告業界などでは必要とされるんだろう。

でも、このことをあの人に伝えたいっていう気持ちは、さすがに私にもある。幼い頃だけでなくて、今でも。広めたい人はそういう人なのかもしれない。それに、誰かの役に立ちたいという気持ちがあるのかも。

自分だけが知っているという状態も、まあまあ楽しい事態ではある。ただ、そのままではもっと面白い展開はありそうにない。知ってることを他の誰かに伝えると、人によって違った反応をする。特に自分と違った感性を持つ人に伝えれば。その結果、自分の思考が刺激を受けることが考えられる。こんなふうに思う人もいるのか、っていう感じに。広めたい人は、そんなような外部からの刺激が欲しい状態、外向的になっている時期の人のことなのかもしれないな。人の頭の中は一つに定まったりしてないから、内向的に頭の中だけで考えていても案外いろんな刺激を得られるものだとは思うのだけれど。

私の中にも、「広めたい人」は存在する。しかし、LINE Payのキャンペーンに対しては反応がなかった。それは送金をしないといけないような友だちがいない、ということも大きな原因であると思う。このような機会を利用して、みなさんにもキャッシュレスの便利さを味わってみて欲しい。

散歩道に子猫

朝に散歩をしていると、道路色の子猫がミャーと2匹。

親はエサを探しているのか、シャーっていう気配はない。

近寄るも驚く様子はなく、誰かに連れて行かれそな感じ。

子どもの頃より子犬子猫を連れ帰るような子でなかったし、今もそう。気には留めずにその場を去る。

幼い子でも連れようものなら、厄介ごとになったのだろうか。

夕方再び歩いてみると、あたりまえのように子猫は居ない。

親猫が連れ帰ったか、どこぞの誰かに迎えられたか。

相手が鳥でなければいいが。

敏感なのもほどほどに

ときおり近くの建物の給水ポンプ音がする。いつ音がするのかは決まってないけど、一定時間経つと収まるのでそれほど気にはならない。もしそれが、ずーっと鳴っているような音だったらどうだろう。

仕方なく野宿をするときに自販機のそばで眠るくらいならどうってことはないけど、毎日冷蔵庫の横で寝るのは勘弁してほしい。我ながら結構神経質なんだなと思う。人の耳は注意してる音がよく聞こえるらしく、それぞれの音量通り均等に聞こえるわけじゃない。てことは、いつもある音は聞こえてても気にならなくなるってことか。気にしているから余計に気になるってだけなんだろうけれど。

そんなことを考えていたら、昔使ってたイコライザーのことを思い出した。アナログのレバーが付いてるやつで、いじれる周波数も決まってるもの。いろいろ触って遊んでみたけど、部屋自体の音響特性がフラットなわけじゃないし、「これだ!」と思った補正値が見つかったとしても、時間が経って耳が慣れてしまうとどれも同じように感じ始めてしまう。確か、当時遊びに行ってたレコード屋さんの在庫か何かで、知り合いの店員さんから安く譲ってもらったんだったかな。でも、測定器じゃなく耳で調整してたことと、耳が慣れてしまうことでだんだん使わなくなっていった。いまだに音楽を聴くときは音質調整をしないのは、そんなことが関係してるのかもしれないな。

先月くらいの早朝に、キレイな鳥のさえずりで目が覚めたとき、あたりがシーンと静まりかえっていて、キーンって耳鳴りしそうな感じのときがあった。無音なわけではないんだろうけど、普段聞こえる生活音がしない時間帯だからか印象に残る静けさだった。

騒がしいところに良すぎるのも体に良くないが、静かな環境に慣れすぎるのもよくないことなのだろう。たまにいつもより静かな状態を作ることができれば、それで十分なのかもしれない。

そういえば、前に使っていた単品コンポのダブルカセットデッキは、電源プラグを差しただけでかすかにブーンというトランスの音が聞こえてたから、寝る前にはコンセントから外していた。いまでもその手の唸り音のようなものは苦手で、なるべく水槽のポンプ音みたいに年中つけておくもののそばには近づかないようにしている。

誰にでもこれは嫌いってものがあると思う。しかし、嫌いだからといって避けてばかりいると、いつまでたっても気になってしまうばかり。結局のところ、気にならないようにしていくためには、あるのが当然の環境に居続けるのがいいのだろう。逆療法とはなってしまうが、嫌なものをチマチマと取り除いていくよりは手っ取り早い解決法なのではないだろうか。

言葉は口にするのが前提

あらためていうまでもないんだろうけど、言葉は音から生まれたんだろう。
そして、声を発した本人が居なくても残せるように文字が生まれた。

文字を残していない動物でも言葉は操っているかもしれない。
私だって、犬が怒っているときの唸り声や構ってほしいときに出す声ぐらいは理解しているし。

言葉の数が増えてきて、覚えておくのが大変になったり、何度も同じことを口に出すのが面倒になったから、どうにかして残しておこうってことで文字が生まれたのかな。もしそうだとすると、犬なんかの動物はまだそこまでめんどくさくないのかも。

ともかく、文字は音から生まれたらしい。生まれて間もないときから言葉を習得していくにしても、まずは音を聞くことから始まっていく。声を出そうにもアー、オー、ウーくらいの音にしかならないだろう。人真似を繰り返しながら音が声になっていき、話ができるようになっていく。読み書きを覚えるのはそのあとだ。

大人になってしまった人の場合、音から入っていくのは難しいといわれていて、まず文法を学ぶのがよいとされているらしい。話すよりも読むことから始めるってわけ。どうやら、幼い頃とは脳の働きが違うからとかいう話。
脳内が変わってるってのはあるんだろうけど、大人になるまでに聞いて学ぶよりも読んで覚えるほうを重視してるってのが関係あるんじゃないかとも思う。言葉を聞いて学ぶ力を使ってないうちに機能が衰えてしまったとか。

別に、目で見て覚えて読むほうを大事にするのが悪いっていうわけじゃないけど、言葉が口にしたり聞いたりすることから生まれたってことは知っといたほうがいい。読み書きだけを考えていたら理解できない、一見不思議に見えるきまりがあったりするものだから。読んだり書いたりするときには問題ない規則が、口にすると話しづらいとか、聞き取りにくいなどの理由で例外として不規則になっていたりすることがあるので。

日本語の漢字でも、同じ漢字なのに前後関係によっては濁点がついたり付かなかったりする。「学習机」の読みが「がくしゅうづくえ」になっちゃったり。こんなのも口に出して読むから起きることで、それが自然になってる人は黙読してるときでも濁点を付けて読んでるでしょ?
人が言葉を口にする限りはこんなことはなくならないと思う。だから、なんでこうなるんだろ? っていうきまりがあったときには、発音規則を読み込むのもいいけど口に出して読み上げてみるといいんじゃないかな。そうしてれば、音が濁ったりするわけが実感できると思う。

声に出して話すことがなくなっていったら、例外のない文法ができたりして覚えやすくなるかもしれないけど、そんなことになったら読むことはできるけど話そうとすると話しづらい、声に出して読むことが難しい言葉になっちゃうかもしれない。文章の表す意味はどっちも同じなんだけどね。

認めるということ

才能を認められた人というのは多くの場合、努力してきたことや苦労したことが高く評価されているのだろう。

世間に認められた人たちは、どうやら若いころからすでにその才能が完成しているようだ。しかし、たとえ早いうちからその分野の人に認められたとしても、一般の人たちに認められるまでには時間が掛かる。一般の人たちというのは、私のように流行りものに飛びつくような人のことで、物事の本質を見抜く能力は持ち合わせていない。だからといって、そのような人たちのことをバカにしてはならない。世の中には圧倒的に一般の人たちが多く、その人たちに認められなければ世間に認められたとはいえないのだから。

写真のような絵を描いた人をすごいと思っても、トレースして描いたとなると「な〜んだ」と感じてしまったり。写真を加工して絵のようにすることもできるのに、手で描いたとなると尊敬したり。
ソフトウェアによる加工では表現できないことがあるし、見比べてみると全然違うのだろうけど、それを見る目のある人がそれほどたくさんいるとは思えない。あの人は有名人に見出された人だとか、過去に大変な苦労をしてきた、などという周辺知識をもとに判断するくらいしかできない一般人のほうがはるかに多いことだろう。

そして、はじめから恵まれた環境にある人はなぜだかあまり評価しない。すごいのが当然だと思ってしまうから、そうでないときの風当たりがものすごい。
つまり、一般の人はその人の作った内容を見ているのではなくて、信用に値する人がその人を賛賞したときや、相手を認めたくなるくらいに頑張っていると感じたときに、突然その人のことを持ち上げる。同時にそれまで作り上げてきたものにも一気にスポットライトが照らされていく。

作品自体には単体でも価値があるのだろうけれど、誰それの作ったものという前書きが付くことで本当に認められるというわけだ。
だから、世間に認められるためにはそれなりの下積み期間が求められる。急に出てきて成功すると、一発屋扱いされてしまったり、運がよかったとかいうふうに扱われてしまう。いくら才能がある人であっても、多くの人々に認めてもらうためにはなんらかの仕掛けを用意しておく必要があるということなのだろう。


それにしても、他人に対しての評価は厳しいのに、自分のこととなると聞き流すだけで覚えるとか、いくら食べても太らないとか、そんな甘い言葉に簡単に心を許してしまうのはいかがなものだろう? と思うのだが。