書いて浮かべるブログ

書きながら考える

のんびりしたい私のアタマノナカ

ピッタリくるもの

すごく好きなものってある?

考えてみたけど、ずっと好きで持ってるものとか、ずっと好みの音楽や作家なんていないことに気がついた。

他の人のことはわからないけど。

そのときだけお気に入りのものはあったとしても、長く続いてる好みなんてない。続いてたとしても、せいぜい5年間くらいかな。

好みの映画も特にない。映画を見たときはそれなりに面白かったと思ってるはずなんだけど、数年経過したときに人に語れるほどのお気に入りではない。

だから、昔持ってたものを見ても「ああ、これ好きだったなあ」と思うくらいで、ある程度の年月が過ぎたらほぼ間違いなく処分可能。どうしても捨てられなかったものなんてないと思う。

これって、さみしいことなのかも。ものだけじゃなくて思い出でも、あの思い出は絶対に忘れたくないって言うのも思い当たらない。もしかしたら、記憶喪失や認知症なのかもしれない。

当時好きだったものは今でも嫌いじゃないけど、ちょっとした思い出が蘇ってくる程度で大した感慨は生じてこない。

よく言えば、過去を忘れて前へ進んでいる、というように考えることができるのだろうが。やっぱり、これは人として問題があるんじゃないかとすら考えてしまう。

過去に引きずられない分、前を向きやすいという話もある。しかし、過去の積み重ねがその人の人生だろうから、過去がそれほど思い出せないというのはいかがなものか。

ということは、例えば今の私のクローンが作れたとしてもそれは今の私ではない。おそらく遺伝子に記憶は含まれていないからだ。そして、そのクローンは見た目が似ているけれど、今の私ではないだろう。

ん? この話の流れでいうと、私が私かどうかを見極めるための要素は「記憶」ということになる。ならば、私の記憶さえ完全に移行されれば、見た目や体の性質はどうでもいいということになるのか。

性格が脳の回路のクセだとすると、記憶は脳の回路と同じようなものではないのか。そうなると、記憶を完全移行した脳は、私とほぼ同じものなのでは?

なんて話はどうでもいいのだけれど、本当に心の底から好きな物語が思い浮かばないというのは案外寂しいものだな。

それなりの量の作品に触れてきたと思っていたけど、大した量ではなかったのだろう。少なくてもプロフィールに書けるようなものは一つもない。ぴったりとくるものが見つかっていないというのは悲しいものだと感じた。

作業中に少々騒がしくしてみる

静かな環境に慣れすぎると、ちょっとでも騒がしいところでストレスを感じてしまうらしい。

受験を控えている学生などはなるべく騒がしい環境でも集中できるように、あまり静かな環境での勉強をするのは良くないのだとか。それで居間で勉強するのが流行ったりしたのかな。家族がいる居間で集中して宿題ができるようになれたら、それなりに集中力がついてるといえるだろうから。まあ私は受験を控えているわけでもないし、資格試験を受ける予定もないので関係ないのだけれども。

ってことで、試しに私もやってみた。

居間ではないけど、机に座って作業をするときにカフェミュージックを流す。加えて、フランス語会話の音声も一緒に再生。その状態でパソコン作業を始めてみる。それほど集中力が必要とされる作業をしてみたわけではないけども、PCを使い始めるとミュージックも音声も気にならなくなる。それも、気にならなくなってくるではなくて、いきなり気にならない。うむ。もともとデスクワークをしているので、これくらいの作業をするくらいの集中力はあるということなのか、とりあえずそういうことにしておこう。

ある程度の時間続けてみた。途中に休憩を挟みながら5、6時間といったところか。それでも別に作業に影響はなさそうだ。聞いていたのが耳心地のいいカフェミュージックとフランス語の音声だったからかもしれない。

やってみて気がついたのは、パソコンの作業をほんの少し中断したときに音楽と音声がそれなりにちゃんと聞こえてきたこと。これなら、聞こうと思って再生し始めるよりも多くの音声会話を聞けそうだと思った。デメリットといえば、音声と音楽を再生しているタブレットなどのバッテリーを余計に消費することくらいか。あとは、家族が近くにやって来たときに何やってんだコイツ、と思われそうなこと。意外とこれが一番ヤバいかも。

逆に、メリットとしては眠気がくるのが遅くなったような気がすること。静かな部屋の中で作業をしていると、落ち着いてしまうのかどうしても眠くなっていたのだけれど、それがマシになったような気がする。適度な雑音(フランス語音声+カフェミュージックが適度かは不明だが)が眠気を抑えてくれたのかもしれない。

静かでないと集中なんてできないと思っていたけど、そうでもないというのが実感できた。脳は聞きたいことにしか耳を傾けないっていうけど、ホントにそうなんだなあ。いい感じでノイズにフィルタをかけてくれるってことか。これってカクテルパーティー効果っていうらしくて、前にも聞いたことがあったようだ。

ただ、複雑な作業をする場合や音楽と音声の組み合わせによってはまったく集中できないかもしれないので、また今度試してみたいと思う。

ゆっくり適応していこう

むかーし、子どもの頃とかに「言いわけをするな」って注意されたことはありますか。

私自身は要領の良いほうだったので、そうした言葉を聞かされることは少なかったと思うのだけれど。そういうのって大人になってもあるんだと思った。目上の人や上司などにいわれるっていう場面が思い浮かぶ人もいると思う。

社会に出るというか、先輩の言うことはなんでも聞くっていうのが今よりさらに当たり前な雰囲気だったから、特にみんな何も考えないで言う通りにしてたんだと思う。

これって今考えると、思考停止ってやつじゃないかな。

確かに当時は目上の人の言うことを守ってればずっと安心できる世の中だったんだろうから、上司の言うことを疑うなんてことはしなくてよかっただろう。でも今はどんなに地位のある人が言ってることでも疑ってかからないといけないような不安定な状況になってる。そして最終的に何か困ったことになっても、それは自己責任だとか言われる。

だから、適応障害ってやつは社会の変化に合わせて起きるようになったことで、今の若い人たちがゆとりだからとか根性がないとかいう問題ではないはず。

以前は上司の言うことに「そんなわけない」と思いながらも思考停止して、みんながやってるマニュアル通りにしていればよかった。どっちかというと、今のほうがややこしくなってるように感じる。ある相手の場合は昔ながらの思考停止の対応、また別の相手の場合には逆に言いたいことをそのままぶつけないとキレられる。

どうしたらいいんだろ?って的確に雰囲気を読めない人が適応できなくなってしまう。これでは相手の考えてることを想像しようとする動物的な人よりも、脳みそを使って学習した高学歴というか論理的なタイプの人のほうが辛いかもしれない。

まあ、世の中をなんとなくでも知っている大人たちが、本当のところをうまく伝えてないから適応するのが難しくなっちゃうんだろうけど、教えるほうも真面目過ぎたり世渡りの仕方を教えたがらないお偉いさんたちの意向なのかもしれないね。

もしくは、人を使う側の嫌がらせとか。

学習してきたことがそのまま仕事の役に立たないのは当然なんだけど、高学歴の人に対して教えてもいない仕事を押し付けて、「そんなことも知らないの?」みたいなことをいう輩もいるって聞いたことがある。それって、ただの嫌がらせでしょ。どこかで学んだことがどこの職場でも通用するんなら、人の入れ替えが簡単にできるからそれはそれで大歓迎なんだけど、実際はどこの職場でも細かいところでの仕事の仕方に違いがあって、最初は教えてもらうしかないんだから。

おじさんたちには変な嫌がらせをして若者の出鼻をくじかないようにしてもらいたいものだ。

モードチェンジ

描き始めないと何を描きたいかはわからない、というようなことを画家のピカソさんが言ってたらしい。

あれを描こう、と考えてから描くんじゃなくて、まず描き始める。描いているうちに描きたいものが浮かんできて、何が描きたかったかわかってくる。そんな感じなんだろか。

こんな話って他でも聞いたことがある。

やりたくなくても、やってみると面白くなってくることもある。とりあえず散歩を始めると、気分転換になって運動にもなる。そんな雰囲気かな。

仕事をするのが嫌でも、放置してたら終わらない。でも、やり始めたらそのうち終わるし、たまに楽しくなったりもするもんだ。

本を読むのだって勉強をするのだって、面倒に感じるときもあるけど、やり始めたら面白くなってくるときがある。ノッテくるというべきか。

それにしても絵を描くときに何も考えないで、描き始めたら何かが描けるっていうのは、やっぱり凡人にはできない芸当でしょう。初めからそんなのができるとは思えない。たくさんの蓄積があるから、何もしてないときに思い付くってやつなのかもしれない。もし凡人でもそんなことができるとしたら、人はただの受信機のようなものってことになっちゃうでしょ。待ってたら何かがひらめいて実現するみたいな。

でも、一般人にも当てはまりそうなこともあるね。

どっかの一流企業や学校に属していたら、だんだんその組織に相応しい人間になっていくという感じの。ある意味洗脳みたいな。そんなのはあるかも。だから自分をダメなやつだって思ってると、ほんとにどうしようもないやつになっちゃうわけで。

何かをするときに頭の切り替えをするのが難しい人は、勉強や作業をするのに専用のスペースが必要になったりする。普通は周りの環境しだいってことなんだと思う。どこにいても作業に影響が出ないっていう人は本物なんだろうけど、それにしてもある程度の環境整備は要る気がする。

何かをやり始めると、そのことに合わせたモードになるんだろな。だから、絵を描き始めるまでは何を描きたいかがわからないってわけか。常にどれかのモードに切り替えてるから、全体の動作モードを俯瞰しながら何かをするってのが難しいのかもしれない。そう考えると、始めるまでわからないってのは当たり前に思えてくる。それに、どれかのモードへ完全に切り替えられないとパフォーマンスも期待できないってことなんだろう。

「健全な精神は健全な身体に宿る」より

 必要条件ではないようなので、健全な身体には、健全な精神が宿っていることがあるくらいの意味だろうか。逆に健全でない精神の場合は、身体が健全な場合とそうでない場合が考えられる。
 しかし、健全な身体というのが健康のために食事のコントロールをしていたり、身体を鍛えるという意味だとすると、そもそも健全な身体を作るためには健全な精神が必要なんじゃないか。精神と身体の関係でいうと、身体が主で精神が従のように感じられるが、鍛え上げられた身体は放っておいても作られるものではないだろうから、やはりまずは健全な精神が必要だろう。
 それとも、オカルトのような話になってしまうが、精神でも身体でもない魂のようなものがさらに上位にあるといいたいのか。その流れでいくと、最初に魂が健全でなければならない。精神でも身体でもない何かが核にあり、それが健全であれば身体、精神の順に健全となる可能性があるといいたいのだろうか。

 もとより身体と精神には相関関係があり、どちらが上というようなことはないと思われる。
 先ほど話したように、身体と精神を客観的に見ているような何かがあるのかもしれない。それは魂のようなものなのか、精神の中にあるいくつかの意識のことなのかはわからない。それよりも、どうやら経験的に意識は統一された一つのものではないようだから、どこか一つの意識を自分自身だと思ったりせずにまんべんなく複数の意識に注目することが求められるのだろう。それなのにどれかをメインにして他のものを抑えようとしてしまうことが、病につながっていくのかもしれない。
 そう考えると自分自身などというものは、頭の中に思い浮かぶことを眺めているだけの調整役のようなものということもできる。精神の状態を調整するように、身体の状態を整えていく。座り過ぎていて身体がこわばってる気がする。食べ過ぎなのかお腹が重い感じがする、などの思い。自分にできることは、そんなものたちをコントロールすることくらいなのではないか。心身相関についても、関係があるというよりも心と身体は同じものだと考えたほうがしっくりくる。例えば、気分がすぐれないときに体を動かして行動を始めたら気分が変わった、という経験をしたことがあるだろう。
 そうしたことから、「健全な精神は健全な身体に宿る」という言葉が表していることは、心と身体のどちらのいうことを聞くかといえば身体のほうの声を聞いてみなさい、と言っているように受け取れた。

深く考えても真剣には考えない

一生懸命に、真剣にやらないとできないこともあるようだけど、気軽に、なんとなくやってみるほうがすんなりできるような気がする。

考えごとを真剣にしていても、なかなか答えが出てこないってことがあると思う。それは、真剣に考えるってのが空想しているのと変わらないからなんじゃないだろか。

真剣っていうのは、頭で考えることでなくて、行動することなんだろう。真剣に行動するとか。

深く考えるとはいうけど、深く行動するっていうのは、なんか変でしょ。

辞書を見てみると、真剣という言葉の語義には、「物事を一生懸命にするさま」と書かれてた。

真剣に考えるっていうのをやめて、深く考える。

でも、深く考えるのってあんまりしないほうがいいかも。

どうしようかなって、考える。ずっと時間をかけて深く考えてると、無理やりに答えを見つけようとしたり、やめたほうがいいような気がしてくるから。

おそらく、真剣にするのは行動で、真剣に考えちゃいけない。

夏休みの宿題を始めるときだって、真剣に考えてたらいつまでたっても始められないけど、とりあえず毎日少しずつやってれば一通り終わらせられる。たぶん、よくわかんないところも空白もあるだろけどね。

じっくり深く考えるのが苦手で、まずやってみよう!って人がいるけど、もしかしたらそんな人のほうが理にかなってるってことなのかな。

少しずつでもやってればそのうち終わる、「案ずるより産むが易し」みたいなもの。

こんなにできるかわからない、それでもしないといけないなら、まず真剣に行動してやってみる。

最初にできないって言っておいたら、終わらなくても「だからできないって言ったじゃん」って言い訳できるし。

できる分だけを真剣やってたら、案外終わっちゃうかもしれないし。

ただ、やり始めたからって、何がなんでも終わらせようとはしないように。真剣に考えちゃうと、寝る時間を削ってまでやっちゃうから。そんなことしてたら続けられないし、終わるものも終わらなくなっちゃう。

ベストなパフォーマンスが出せる状態で、真剣に取り組むだけ。できなくてもともと。

自分を痛めつけてまでするのは逆効果。そんなことしちゃったら、毎回辛い状況が待ち受けてる。

真剣にやってるとだんだんできるようになるから、はじめの負荷を増やして一気にできるようにしようなんて考えちゃダメ。そんなのは、目標達成重視型の頭が考えそうなこと。

目標なんて忘れて、真剣に行動するだけでいいんだよ。

役立たなくても不要ではない

数学書を眺めていると、よくわからないところがあった。わからないとはいっても日本語で書かれている本なので、何度も読んでいればなんとなくイメージくらいはつかめてくる。まあ、これは日本語で書かれているから、読んでいれば理解できるというのは納得がいく。

それと比べて、外国語の文法書なんかは言葉についての解説が書かれているわけだから、これも読んでいればなんとなく理解はできてくる。ただ、言語ははっきり説明できることだけで成り立ってはいないので、わかるというよりも慣れて覚えるという感じになる。

数学の場合、定義が日本語で書かれているから、日本語が理解できれば言おうとしていることがわかる可能性はある。それは日本語を話している人の話を聞くようなものだから、よくよく聞いていれば大まかなことくらいはわかるだろう。そういう意味では、数学を理解するためには日本語がちゃんとわからないといけない。

外国語の文法書も、日本語で書かれているわけだから日本語がわかる必要はある。数学と違うのは、なんらかの定理が理解できるわけではなく、言葉についての理解が深まるということ。外国語で書かれたものを読み解くのとはまったく違うことだ。文法書を読んである言語を理解することは、外国語について理解するということで外国語に堪能になることではない。

だが、現実には理解することより使えることが重要視されている。仕組みは知らなくても使えればいい、というふうに考えている人が多いのではないか。


クルマの運転でもそうだろう。どうしてクルマが動くのか、そんなことは知らなくていい。でも、ちゃんと動かせるようにはなってくれ。そんな感じだから、マニュアルトランスミッションの車は難しいとかいう話になってしまう。

どんな人でも高度な技術が使えるというのは素晴らしいことだ。ただ、技術を使いこなす能力だけを評価しがちな傾向はどうかと感じる。どんな技術でも、何にもわからない人に使わせるには注意が求められるのではないだろうか。それに、なんらかの技術を使うほうの人たちだけでなく、つくりだす側の人材も必要だろう。

もともと、一人でなんでもできる人なんてそう簡単にはいない。多くの人の、「これならできる」を組み合わせて様々なことに対応していくのが社会というものではないだろうか。

外国語や数学に話を戻してみる。外国語でコミュニケーションがとれて、数学を使った計算に長けていればオーケー、というのはどうだろうか。おそらく、コミュニケーションがとれるだけでも、計算が早いだけでもたいして役には立たない。

でも、そういう人材が要らないわけではなく、必要とされる。誰かの「できる」は、他の人の「できる」と組み合わせて使うものだと思うからだ。


人の個性を大切にしているように見せかけながら、これを選ばないと損をするよ、というメッセージが発せられていることもある。みんなが選びたがる職業を志したり、ベストセラーを買いたくなるのはそういう心境からだろう。しかし、たとえ損をしたとしても、その人にとってちょうどいい状況があるのではないだろうか。

人は一人ひとりみんな少しずつ異なっている。似ている部分が多かったとしても同じ人間ではなく、意見が合わないからといって関係がない人というわけではないはずだ。

これをやっていると人から重宝されるとか、優秀だと思われるということはあるだろう。評価をされないよりされたほうが気分がいいのも確かだが、それでは自分を見失ってしまい、誰かの役に立つだけの人間になってしまう。そうなってしまうと、当然自分の役には立たない。

詰まる所、これが一番大事とか、これをしなければならない、というようなものがあるとは思えないのですよ。

必要とする人に届くように

たまたま独和辞典を眺めていたら、その辞書は制作期間24年でようやく発行されたということを知った。

これは前書きに書かれていた言葉なんだけど、24年間で完成したわけじゃなくて一旦まとめることができたので、一度発行して辞書の内容を世に問うというようなことが書かれてる。長い年月が経っているので、出版社との関係や編纂者たちの年齢なども出版のきっかけとなったのかもしれない。

ちなみにこの辞書は古本屋で安く手に入れたもので、改訂版などではなく、2003年に初版で初めて発行されたもの。辞典をつくるのは大変な仕事だと思われるが、本当に長い時間がかかるんだなと感じた。他の本たちと違ってすべてのページを読まれることはないだろうし、かといって辞書を引く人みんなにとって不要なページはないわけで、なんだかとても尊い仕事だと思った。

しかも、この辞書はいま現在絶版になってしまっていて、中古でしか手に入らない。インターネットの情報を見る限りでは評価が低いわけではないのだけれど、絶版ということは単純に売れなかったのかもしれない。この出版社には他の独和辞典がないので、残念なことにこれまでの資産が生かされることもないのだろう。

改訂して復活させようにも、2006年の正書法に対応したものではないから手間がかかるということなのだろうか。でも、他の出版社からは2000年発行の独和辞典がまだ現役で売られてたりもするわけだから、出版側としては改訂するほどのメリットがないと考えているんだろう。

そういえば、その出版社が昨年発売したドイツ文法の本は装丁の変更はしたけど中身は同じだということだった。約20年ぶりに新装版となった本の内容が同じというのはそれだけ完成された本なのかもしれないが、出版社の考える需要と供給の関係が伺えるような気がする。

いま出版されている辞書はデジタルのデータだけでできているだろうから、一度完成させてしまえば改訂時の手間は昔に比べて少なく済むだろう。データフォーマットなどの問題で過去の資産が生かせないのだとすると、ただただもったいないの一言である。

今回挙げた絶版辞書は、文学研究者が携わったことが特徴ということであり、巻末にはドイツの歌や聖人についての記載がされている。見出し語75000語の学習辞典でサイズに装丁、価格もごく普通。もしかしたら、こんな部分が他の辞典に対する競争力を削いでしまったのかもしれない。

見た目が普通の学習辞典だから、学習者が買っていってしまったのだろう。しかし、内容としては文法に詳しいわけでもなく、文字の色や大きさにそれほど工夫があるようにも見えない。どちらかというと通好みだと感じる。辞書を届けるべき相手にちゃんと届かなかったのではないだろうか。

もし、再びこの辞典が発売されることがあるとしたら、そのときにはしかるべき人の目に止まるような装丁と価格設定をしてほしいものだ(「◯◯◯独和中辞典」のように名前を変えてしまうのもいいかもしれない)。

考えようがないから、やってみる

いくら考えても絶対にわからないのは、経験が足りないから。
判断するための材料が少なすぎるのだ。そんなときは考えることに時間をかけるより、なんとなくでいいからまず決めてやってみる。ある程度の経験を積んで材料が溜まってきたら考えることができるようになっていく。そうではないだろうか。

それなのに、想像くらいしかできないことについて一生懸命に時間をかけて考えたりしてしまう。それはどうしてなのだろう。

簡単な計算問題を解くにしても、初めから眺めているだけでは答えはわからない。まずは手を動かして計算を始めないといけない。数式をじっと見ているだけで答えは出てこないのだ。なんども練習問題を繰り返し解いていると、そのうち問題を見るだけでなんとなく答えがわかるようになってくる。そのために練習をするのではなかったか。

例えば、160g入り198円(8%税込)のウインナーAと、248g入りで298円(8%税込)のウインナーBがあったとする。100gあたりだとウインナーAは123.75円(8%税込)、ウインナーBは約120.16129円(8%税込)だから、ウインナーBの方が少し安いのだけど、ウインナーAが好みならそっちを選べばいい。しかし、グラム単位の比較ができない人は(そんな人は滅多にいないだろう)いくら商品の値札を眺めていても、あくまで重さあたりの価格で判断するならばだが、どちらがどうなのかなんてことはわからない。

ということは、比較検討の基準や方法をまだ知らない人が、初めて触れる出来事のことをいくら時間をかけて考えても、ちゃんとした答えなんて出るわけがないのである。もし正解が出るとすれば、それは「運」くらい。だったら、最初からよくわからないことを決めるときにはコインの裏表に任せるほうがいいのではないかと思う。わからないことを悶々と考えるだけエネルギーの無駄遣いだ。

安かったら買うけど、というのも同じようなものだ。以前にも書いたことがあるように、安ければ買うというものはなくてもいいものなのは間違いないだろう。でも、安いのが気になるなら買ってみればいい。気になっているのにどうしようかと考えるのは無駄なこと。先ほどのようにグラム単位で比較できるのならともかく、比較する対象がない状態で何を考えるのだろう。そんなに気になっているのなら、手に入れてしまえばいいだけである。買えるだけの予算がないならまだしも、考える必要すらないことだと思うのだが、いかがだろうか。

思ったことたち

・知りたくないことを無視してると避けるのが難しくなっちゃうけど、目を背けたいようなことはメディアからの情報を遮断しといた方がいいかも。見たくないことが頭に入ってしまったら、無意識のうちに影響されて嫌なことが目につくようになってしまうかもしれないから。

・近くにいる人だからって親しいわけじゃないし、遠くにいたって親しい人だってことはある。だから、近くにいるからって親しくする必要はないよ。でも、争いごとにならないくらいには親しい方がいいけどね。

・続きものの物語を読むときは完結してから触れるのもいいよね。最初から最後まで自分のペースで読んで行けるから。一作ずつ発売されたのを読んでって、続きを想像したりしてるのも楽しいけれど。

・ビールが美味しくなる季節。冷やしすぎると味の違いがわかりにくくなるから、ちょっと冷えてるくらいが美味しいよ。それにしても、冷えたのが飲めるのってありがたいやね。

・音を奏でるよりも絵を描く職業の方が多い気がする。音楽っていうくらいだから、鳴らしてる本人が楽しんでればいいってことかな。楽しみながらやれることは、仕事としての需要が少ないからなのかも。

・今すごく我慢したら後でずっと楽になるってのは、そもそもうまくいかないみたい。ちょっと頑張って、少し楽して。そんなのの繰り返しがいいんだろなあ。

中庸を味わう

いくら好きなことをするにしても、「まだ続けたいけど、ちょっと疲れたな」というくらいのところでやめておくのがいいらしい。この続きはまた明日、という感じで。

そうすると、次の機会に続けるときはとても楽に始められる。これは好きなことだけじゃなく、しないといけないことにも当てはまりそうだ。あまりにキリの良いところまでやってしまうと、続きを始めるのが億劫になってしまう。

ただし、ここでいってるキリが良いは気分的なキリの良さの話。まだ続けたい気持ちはあるけど、区切りとしてちょうどいいところでやめておく。それが毎日続けるための秘訣のようだ。

作業内容の区切りも大切だけど、やる気の方がもっと重要。やりきった!ってところまでやってしまうと、もう二度としたくなくなるかもしれない。「もう少しで終わりそうだけど、残りは明日の楽しみにしておこう」くらいのときがやめどき。「何事も、過ぎたるは及ばざるが如し」ということなのだろう。

逆にいうと、やめたいことは嫌になるまで続けてみるといいのかもしれない。やりきったと感じるところまでやってみれば、すんなりと手を引くことができるのではないだろうか。好きなことはほどほどに、嫌なことはとことんやってみる、案外そんなものかもしれない。

食べ物でいえば、デザートなどをチビチビ食べるような感じ。一気に食べてしまうと明日の分はなくなる。あんまり何日も冷蔵庫に入れておくわけにはいかないけど、できるだけ何回かに分けてじっくり味わいたい。そんなふうに思ったことってありませんか。

世間では、なんでも効率よく早く済ませるのがいいように思われがちだけれども、少しずついろんなことをつまみ食いしながらやっていくのもいいと思う。たくさんいろんな経験をするのもいいけど、たった一つのことを楽しみながらやってきた、なんてのも魅力的な人生ではないかな。

一つのことを「味わう」。
同じことをするのなら、一つの時間を短くしたり、いくつか平行して進めると同じ時間内に複数のことができる。それはそれで役立つときがあるけど、好きなことくらいは贅沢に時間をかけて味わいたい。そしてさらに、長いあいだ味わっていたいなら毎回ほどほどのところで中断する。

好きなことをやってるはずなのになぜか疲れるという人は、やり過ぎてるのかもしれない。特に今まであくせくしてきたかたは、まだやりたいってところでやめることを試してみてほしい。

使い込むとは、ただ使うことではない

正規表現を使って思ったことについて。

本でもパソコンでも、手垢にまみれて壊れかけるくらいまで使ったものを、一般的には使い込まれたものというようだ。

はたから見てもボロボロになった本や、キートップがテカテカになったノートパソコンは使い込んでいるように見えることだろう。

だからといって、その本やパソコンなどの道具が役に立ったということにはならない。

確かに人が使ったというだけの意味なら、物体として使い込まれたのは間違いないのだろう。しかし、道具として役立ったのかというと、また別の話だ。

本を汚さなくても内容を吸収できる人はいるし、いくら汚くなっていてもサッパリ頭に入っていないような人もいる。頭に入っていなくても見ながら役立てばいいのだが、持っているだけで本の内容を活かせない人だっているだろう。

同じくパソコンについても、キーボードやマウスで入力した回数が多ければ多くのことをこなしたというわけではないのは言わずもがなであり、音声入力やプログラムをうまく使っていれば新品同様の見た目でも、十分価格の元を取ることは可能だろう。はっきりいってパソコンの場合は、ペシペシとキーを叩いたり、マウスをガチャガチャ動かしている人は仕事が遅い。

そういえば、クルマやバイクを運転するときについても似たような話があった。クルマやバイクのハンドルは車両を曲げるために使うのだけれど、ただのきっかけに過ぎないということ。もともとハンドルをグリグリ切らなくても曲がるようにつくられているからだ。それなのに、ハンドルを無理に切るような運転をしていると、まず前輪が変な減り方をしてしまう。人の体もそうだと思うが、乗り物は無理矢理に動かすものではなく、動きたがっているように動かしてやるだけでよい。

道具を丁寧に扱いすぎて、役に立てられないのは本末転倒だが、元を取ろうとするかのように使い込む必要はない。大量消費の時代にあっても、道具を大切にすることに意味はあるのだ。

で、正規表現なんだけど、無駄なキー入力によるパソコンのダメージと時間削減、さらに同じことを繰り返すことによる自分のモチベーションの低下。そういったことを効果的に解決してくれるすごいものだった。ちょっと前のようにプログラムをつくる必要すらない。
おかげで、私の精神エネルギーは浪費されることなく、パソコンのキーボードを痛めつけることもなく、しないといけないことを無事に終わらせるができたとさ。

思い込みしだい

脳は過去と未来を判別することができないと聞いたことがある。確か、脳自体としては善悪の判断もできないのではなかったか。

内容の面白さとはまた別の要因で、気分の良いときにしていることが楽しく感じられたりするもの。

授業を受けるにしても、つまらないと思いながらだと本当につまらなくなってしまうし、面白いと思いながら仕事をすれば面白く感じることもある。

どちらにせよするのなら、楽しくやったほうがいい。

つまらないと思いながらすると、つまらないだけでなく疲れやすくもなる。さらに困ったことに時間が流れるのも遅く感じてしまうのだ。

そんな経験はないだろうか。つまらない仕事をイヤイヤやっていると、仕事は終わらないわ、ミスはするわ、定時までの時間をとても長く感じたりする。逆に、仕事上がりに楽しみにしていたイベントがあって気分のいいときなんかは、仕事がスムーズに進みやすくなる。仕事が面白いとまで思わなかったとしても、つまらないとかツラいと感じながら過ごすことは少ないだろう。


頭の中というのは不思議なものだ。どういう状態で物事に取り組むかによって、感じかたが全然違ってくる。

それ単体で面白いことなんてないのかもしれない。他の人から見たらくだらないと思えることでも、楽しみながらやる方法があったりするのだろうか。

楽しさは周りの誰かからもらうものではない。楽しいと思いながらやるのが大事なんだろう。少なくてもつまらないと思いながらやっていれば、どんなことだってつまらないことになってしまうのではないだろうか。


毎日のルーチンワークをなくそうと考えても、そう簡単になくなるものではない。毎日予想外の出来事がある生活なんておそらくないのだろう。幼い子どもならまだしも、長いこと生きてきた人が刺激を感じることなんてそんなに残されていないということなのかもしれない。

しかし、予想外の刺激を感じられないのは自分のせいだろう。いつもと違う変化に気づかなくなっているだけだ。どうせ前と同じだろうから、と言わんばかりに頭の中で思っているから何も変わらず面白くないと感じてしまうのではないか。


変化がほんの少しでゆっくりだと、脳はその違いに気づかないらしい。いつもと同じだから、見なくてもいいし気にしなくていいや、というように。脳ってやつはそういうものなんだろう。

普段と変わらないように見える日常の中にも、面白いことは存在している。ただ自分がそれに気づいていないだけ。そう仮定して暮らしてみるのはどうだろう。仕事だって勉強だって遊びだって、とびきり面白いと感じる状態はそう続かない。それなら、その辺に転がっている当たり前に見えるものを、面白がってみるのもいいのでは。

誰かが言ってたじゃないか、人生楽しんだもん勝ちだって。

誰が何を言うか

僕らは、人の言っている内容そのものに、あまり興味がないらしい。

たとえ私が素晴らしい内容のことを話していても、上半身は裸でトランクス一枚の格好なら、少なくても見知らぬ人にちゃんと話を聞いてもらうことは難しいだろう。

逆にたいした話はしていなくても、オーダーメイドのスーツを身にまとって、どこぞの社長のように見える風貌であったなら、一人くらいは話を聞いてくれる人がいるかもしれない。

口下手な有名人が深いことを考えずになんとなく語った言葉でも、それを聞いた人たちがいろんな想像をしてくれるらしい。周りが勝手に含蓄のある言葉というとらえかたをしてくれることもあるようだ。

つまり、ある程度は尊敬している人の話でないと、聞く耳すら持っていないということ。デフォルトの状態では片方の耳から反対の耳へ抜けてしまって頭に入らないし、頭に入ったとしてもどうでもいい内容に聞こえてしまう。それは、サラリーマンには口うるさい上司の説教かもしれないし、子どもにとっては親や教頭先生の小言なのかもしれない。


書物に載っている内容でも同じなのだろうか。

書かれていること自体には興味があって知りたいことなのに、著者の文体が嫌いだから記憶に残らないこともあるような気がする。

私は言葉を使うのが仕事ではないので経験したことはないのだが、小説を書いたり詩を書いたりする人はどうなのだろう。書いた人が意図していないかたちで理解される、というようなことはあるのだろうか。

例えば、ある作家がなんとなく書いた文章を評論家がいいように解釈してくれて、作家の思いとはまったく違ったかたちで評価されてしまったりとか。

もしそんなことがあったとしても、文章を書いた作家が本当のことをいうことはないだろう。評論家の解釈を自分のものとしてしまうかもしれないし、無意識にそう思い込もうとするかもしれない。それに、いくら作者とはいえ人は常に変わり続けていくものだから、月日が経てば書いたときとは違う考えをするようになっていることだろう。


どうやら、どちらかというと何を言ったかよりも、誰が言ったことなのかが重要なことのように思われる。そしておそらく、それ以上に大事なことは、その言葉と出会うタイミングなのだろう。いくら自分が必要としている言葉だとしても、ほんの少しのすれ違いのために心には響かないものになってしまうこともある。

何かピンとくるものを感じるというふうに、そういった感覚に気づけるような状態でいることは大切だと感じた。

「わからない」をどうするか

わからないことに出会ったときの対応は、人によって違う。

まず一つ目は、見なかったことにしたり、触れないように避けてみたり。
理解できないことほど、逃げるように離れたり自分と同じ意見の人たちと固まってしまいやすいもの。ときには仲間を集めてわからないことを排除しようとしたりもする。

よくやってしまいがちな対応だけど、これをやってしまうと余計にわからないことが気になってそこにばかり目がいくようになってしまう。

まったくの無視が出来れば良いのだけれど、なかなか意識から消してしまうことは難しい。そんなことができるのは修行を積んだ聖人のような人だけだろう。実際にそんな人がいるならの話だが。

もう一つの対応は、わからないことを理解しようとすること。
わからないことというのは自分の思考回路にない発想なのだから、怖いと感じてしまいやすい。でもそれは、他のほとんどのことと同じようにわかってしまえば大したこともない。それに、理解することで自分に合った対処法を考えることもできる。

どちらを選ぶかは自由だ。わからないことを理解するのはときに大変な労力を要するし、時間もかかる。わかるまでの長い間、もやもやした不安定な状態を続けることにもなる。今のようにインターネットで検索をかければ手っ取り早くそれなりの答えが手に入る時代に、そういった状態に耐えることができる人は少なくなっているだろうから。

じっくりと考える時間もなく、0か1のようにデジタルな感覚を求める私たちには、わからないことから目を背けて逃げ回るのもそれなりに楽しいかもしれない。誰かが用意してくれた解答を記憶してわかったつもりになりながら、本当の部分では会得していない道具を使いながら暮らしていくのもアリだろう。

数学の公式一つを心の底から理解するというようなことは、この時代には求められていない。計算機のように問題から答えを導き出していく。求められているのは結果だけ、計算機にやりがいは求められていないのだ。

本来の学問とは、どこかの天才が見つけ出したものを追体験して、ごく稀に新たな発見が生まれるというようなものだったのだろう。しかし、今はほとんどの人にそのような学問は必要なく、学問の成果を使えるようになれれば十分。それも、他の人より結果を導く能力に長けていることを証明するためだけに学問が利用されている。それなら、競争をさせることができればなんの競技でもいいではないか。極端なことをいえば、50m走の速い順に社会的地位を与える、というのでも社会が認めるものならなんでも良い。

けれども、なんらかの教育を受けている私たちは、わからないことへの対策を教わってきているはずだ。一から教えてもらわなくても自分の力で考えることができる。もしかすると、その答えは正解ではないかもしれないが、自分の頭で自分なりの答えを考えることが大切なのだ。それができないと、いつまでたっても誰かの考えの言いなりになってしまう。

まあ、さっきもいったようにどちらを選ぶかは自由だから、好きにしてみたらいい。
ただ、選択肢がない状態に比べれば、いくらか気楽でいられるのではないだろうか。