書いて浮かべるブログ

書きながら考える

のんびりしたい私のアタマノナカ

雨女と雨犬

雨に降られやすい人とかってあるのかな。少なくてもお嫁さんはそっち系だと思う。

犬の散歩に出かけた途端に雨が降ってきたり、降ってきたからって帰ると止んだり。低気圧女なのかもしれない。

たいていそういう時に私はついて行ってないのだけれど、この間は一緒だった。確かにもうすぐ降り出しそうって雰囲気はあったけど、出かけてすぐに雨が降り出した。雨に打たれながら、「夕立みたいだからもうすぐ止む」と言うも降り方がだんだん強くなってくる。さすがにびしょ濡れになりそうなので引き返して帰ってみると、少し雨が弱くなってきて止みそうな気配がしたり…。

結局その日は降り続いたので、出かけたから雨ってことはなかったんだけど、一緒に行動するときは雨に降られる確率が高いような気はする。さらに、犬と散歩に行った時に降られて帰ってくることが多い気もするから、雨女と雨犬の組み合わせってのはあるかも。

もしかすると雨を引き寄せる人ってのが存在するのかもしれないけど、単純に雨が降りそうな感じを察知すると外出したくなるってことなのかな。それなら理解できる。

とはいえ、晴れ女・雨男ってのは昔から聞く言葉でもあるので、天気と人の行動との間に何らかの因果関係はありそう。ちゃんと天気予報をチェックして、降りそうにない時間帯を選んでるのに降られちゃうんだもんね。

時間の感じ方

脈拍の基準はだいたい1分間に60〜100回らしい。

1日は24時間なので、1440分。脈拍60の人にとっての1日の脈拍数は60×1440=86400回、脈拍100の人にとっては100×1440=144000回なのでかなりの開きがある。

脈拍が命のワンサイクルとすれば、100回の人は60回の人の約1.67倍活動してるように見える。

そう考えると、年齢なんて当てにならないし、1日の長さの感じ方だって人それぞれなのだろうか。

1日24時間はすべての人に平等に与えられている、といわれる。でも、命のサイクルや1日の感じ方が違えば、平等なわけがない。

地球の自転・公転をもとにして1日・1年を定め、1日から1時間をつくっていったんだろうけれど、それは命の時間とは違う。

相対的には短い時間に感じられても、本人からすれば長い時間に感じられることもある。

年数が過ぎていけば同じように体も老化していくが、それぞれサイクルが違うから歳が同じでも状態まで一緒とは限らない。

過去の自分と比べるならともかく、他の人と比べるのは無意味。

時間を意識しないわけにはいかないが、時間を基準にものごとを考えるのはほどほどにしたほうがいいのかもしれない。

イライラの理由は

昨日はなんだかイライラした。理由はわからない。ちょっとしたことが気になってむかついてた。

どうしてむかついたんだろう? 考えてもわからない。理由を見つけることはできても、特別にイライラする原因とは思えない。

たぶん理由なんてどうでもよくて、イライラした感情を吐き出したかっただけなんだろう。

むかつきの理由を後付けしただけ。適切な言葉を割り当てて、原因にしただけ。

頭で考えても、理由を見つけることはできそうにない。

こんな時はどうしたらいい? イライラが大人しくなるまで待つ?

抑え込むのは難しそうだから、イライラしなくなるまで寝る? 体を動かす?

何かにエネルギーを使い込まないともったいない。エネルギーが有り余ってる可能性もある。

逆に、何かを抑え込んでるのか。

そんな気はしないが、こっちの可能性もある。考えてることの観察はできても、感じてることはよくわからない。これが原因か?

何を考えてるかじゃなくて、何を感じてるかに聞き耳を立ててみるか。

病院嫌い

子どもの頃に病院に行った記憶ってあんまりない。

病院行くの嫌いなんで。でも、ほんとに具合の悪い時は仕方がない。自分だけの問題じゃなくなってくるからね。ただ、病院で何か嫌な目にあった記憶もないから、なぜ嫌いなのかはわからない。

思い返してみると、かかりつけというか、近くにある内科に行った覚えはあるけど、待合室にいる人の数は少ないのにやたら待たされたって記憶がある。これはどの病院に行っても似たようなイメージ。診察を受けて処置されたりして、一旦待合室に戻る。それから会計して薬をもらったりするまで、また待つっていうのに嫌なイメージがついてるのかな。

そもそも、体調悪くなったからすぐに病院って雰囲気で育ってないのもあるかもしれない。ひとまず2、3日は様子見、それでよくなることも多かったから。

医学に頼らないっていうわけじゃなく、なぜか免疫系のことには興味があったので自分で対処できるって思いは強かった。それがつらそうな時に病院に行く。そんな考え。

今はすぐ病院へ連れてくっぽいから、こういうのって古いんだろうな。

自分の体だけでなくて機械とかの扱いでもそう。調子悪そうだからすぐ点検修理ってよりも、その前にどう悪そうなのかをチェックしたい。そうでないと整備士の方と話ができないから。すべてお任せは嫌いなのだ。自分の体に関してならなおさら、いつ頃からどんなふうで症状が続くから診てくださいってのじゃないと診るほうも大変じゃない?

こういうタイプはウザイって思われそうだけど、「なんか変なんです」だけじゃ原因を調べるのに余計な検査が増えるだけ。相手は全知全能の神様じゃないんだからね。少しは自分の感覚も信じてあげないと、あまりに頼りっきりだと万が一の誤診があっても仕方ないと思うよ。

でも、何も問題なくても定期検査はしたほうがいい。たまにはね。

たとえば病院にかかる費用が安くなると利用者が増えるだろうから、最初は全額負担。あとで他の税金から差し引き、もしくは全額返金って形になったら、たいした症状もないのに病院へ行く人って減るんじゃないかな。あとは、体調不良で休むときは診断書を提出なんて決まりもやめちゃえば、ほんとに通院が必要な人にとって利用しやすくなりそう。

ん? まさか病院の利用者が減ると、保険制度や医療ビジネスが崩壊しちゃう? そっか、正直に理想とか効率を追い求めてたら、世の中うまくいかなくなっちゃうよね。

※それにしても、新型コロナワクチン2回接種したからマスク外すとか、やっと孫に会いに行けると考える人たちがいるなんて驚き…。

ロングセラーの参考書

昨夜は暑くて寝苦しかった。熱帯夜というのかな。でもおかげで夜中に少し読書ができて良かったかも。

今朝思ったのは、ただの古い参考書ではなくて、長く販売されている古い参考書もいいかもって話。

たとえば小学生用の算数ドリルで、おはじきとかが扱われてたりするもの。今の子はおはじきを知らないかもしれないし、文章問題で登場する子の名前が古臭かったりする。今でも書店で新品が売られているものだから、iPodのようなものが載っていたりもしてなんだかチグハグさもある。

でも、これはこれでいいんだろうな。おはじきを知らなくても、親やおばあちゃんは知ってるかもしれないし、ネットで検索すればどんなものかもわかる。古く感じる名前だって同じ。昔はこんな名前がはやってたんだなって、家族の話のネタにもなりそうだし、むしろ今に合わせた記述より面白く感じたりするのかも。

古くから販売されてる本の大きなメリットとして考えられるのが、解答のミスが少なくなること。初めから全然ミスのない本はなかなかなく、作られてから長く時間が経っている本は間違いが訂正されている可能性が高い。よくわかってる内容の復習なら問題や解答の間違いにも気づけるけど、そうでない場合の間違いは学習に影響があるだろうし。

それにしても、子ども用のドリルに直接書き込む子なんてそんなにいるのかな。子どもの頃はプリント学習が多くて、ドリルや問題集を使った覚えはない。だから、問題数と価格を考えると子ども用の教材はとても高く感じてしまう。子どもに対応できる文字数を考えた分量ってのもあるんだろうけど、もしかしたらコピー利用されることも考えた価格設定なのかも。今は(昔から?)複数の書籍から良さそうな問題を抜き出してプリントにしたりするのはまずいだろうからね。

そうしたときにも古い参考書が役立ちそう。昔から売られているから安い中古も買えそうだ。ただ、そうした考え方ができるのってせいぜい算数、理科くらいなんだろな。

正解は自分で決める

都合よく考えられるだけで心が楽になる。事実だとか正しさを考えると苦しくなることもある。ほんのちょっとしたことでも、周りに迷惑さえかけなければどんなふうに解釈したっていい。自分で決められる。それが自由。

休日を寝るのに費やしてダラダラ暮らしてしまったとしても、自己嫌悪に陥らなくていい。何もしないを楽しんだと考える。周到に準備して始めた趣味を途中で諦めたっていい。やってみたら続けられないってわかった、良かったと思えばいい。

手に入れたゲームを投げ出したっていいし、やりかけのゲームを放置したとしても、かけたお金や時間の分は楽しんだと考える。もし中古や何かで安く手に入れてたとしたら、その分だけ楽しんでもいい。半分の価格なら半分だけ、200ページの本を1/5の値段で買ったならパラパラと40ページ読んだらOK。気に入って全部読んだらラッキー、得したってこと。定価で新品を手に入れて半分読んだなら、半額で売れれば最高だ。インテリアとして飾るのもいいし、枕や椅子、重しにしたっていい。

身近な人に対してこんなことを口にすると、半端でいい加減なやつと言われるだろうけど、自分で思ってるだけなら問題ない。何かやってみるのに考え込む必要はないし、自分を傷つけるマゾにならなくてもいい。

検討すると正しいことが選べそうな気がする。でも、楽しくはなくなってしまう。どの視点から見ても正しい解答なんてないんだから、自分で勝手に正解にしてしまおう。

国語は大事

今朝思ったのは、まず国語をちゃんと読めないと問題は解けないよねって話。もしかしたら解き方にある程度パターンがありそうな数学よりも、算数のほうが大事かも。

いくら計算の仕方がわかってても、問題の意味がわかってないと間違ってしまう。場合によっては、問題を読んだだけで解き方が一つに定まらないときだってある。そんな時に出題者の意図を読み取って回答する能力が必要なこともあるだろうし。

英語だって、なんとなく意味がわかるだけじゃなく、和訳や英訳をする時に意味が通じるかどうか判断するためには国語がしっかり理解できてないといけない。そうじゃないと、意味がおかしく感じても問題が悪いせいだとか思ってしまったり、問題の意味するところがわかんなかったりすると思うんだよね、たぶん。国語が正確に理解できれば、日本語で書かれた本とかを使って学べるわけで。英語も大事だけど、一番やっとかないといけないのは国語でしょ、って思った。

選択問題をやってるとわかってる気になりがちだけど、国語の問題に自分の言葉で回答するってとっても難しい。記述式の英語問題でもそう。数学とかで解いた答えを選ぶのとはわけが違う。

誰かの言ってることを理解するのも大変だし、自分の考えをまとめるのはもっと難しい。言葉で言う場合にも、言ってるうちに考えがコロコロ変わってしまって、すぐに何を言いたかったのかわからなくなってくる…。

母語が日本語だからって、国語が完璧にできるわけじゃない。普段は感じるままに生きていきたいと考えているけれど、さすがに少しは理性的になりたいと思ってしまった。

たまには行き先を考えない

行き先を考えずに歩く。そうすれば、自然と正しい方向へ導かれる。
(ヘンリー・ディヴィッド・ソロー『孤独の愉しみ方』)

行き先を考えないで歩くとまったく違った方向に進んでしまうから、目標設定は大切。よくそんなふうにいわれる。しかし、行き先にたどり着く道は無数にあるので、最短ルートで行く必要はないといわれることもある。

最短ルートには障害物が多くあって、それを乗り越える前に挫折しがち、といった想像が思い浮かぶ。でもそんなことはないだろう。最短ルートが一番簡単ということだってありうる。だからといって、最短を目指すのがいいといってるわけではない。

たとえば行き先までの経験をレベルで表すと、行き先に着くまでに経験を必要としない、レベル0のまま到着できるところがあるとする。もちろん、レベル0のまんまでたどり着くのは一向に構わない。早々に目的地に着ければ、次の行き先を目指すことができる。

いろんなところに寄り道しながら制限時間いっぱいまで経験をすることだってできる。最初のフィールドで難易度の高い経験を積めることもあるだろうから、もしかするといきなりレベル100に達することだってできるかもしれない。目的地までの時間制限というものがあるかはわからないが。

すごろくみたいなもので3マス戻るとかスタートに戻る、というのがあるが、戻ったおかげで特別なマスで素晴らしい経験ができ、大幅なレベルアップを果たせることもある。現実の世界はすごろくよりも自由で、正反対の方向に進んでいたからといって行き先にたどりつけないとは限らない。巡り巡って一周して、無事到着できるかもしれないのだから。

本当の楽しみが寄り道にあることもある。物語でもなんでも、要約したものだけでよければそもそもほかの部分を作る必要なんてない。だが、実際には主題をより際立たせるために、一見不要と思われる部分が盛り込まれている。そういった部分を寄り道しながら楽しむことで、行き先に着くまでの道のりを充実させることができる。

そんな目線で読書を考えると、速読をしてなんとなく本の内容を理解するくらいなら、じっくりつまみ読みをしたり、精読のタイミングがくるまで積読していたほうがいいのかもしれない。

なにも速読が悪くて精読がいいというわけではなくて、いろんな読み方をしていいということ。行き先を目指すにしても、直行するばかりでなく散策をしてみる。何度も同じ行き先に行くのなら、いつものルートを使わずにさまざまなルートを試してみる。そのときくらいは行き先に向かって歩かないで、行きたい方向や導かれる方向へ行ってみるのはどうだろう。

体は正直

どうも風疹の予防接種をしていない世代らしく、抗体検査が無料でできるという案内が来たので受けてみた。期限が今年度までって書かれてたことも理由の一つ。あまり採血することはないんだけど、よく献血をしてたことはあったし、特に血を見るのが苦手とかじゃない。

数時間経ってからすごくだるくなってきて、そんなの初めてだったから血を抜いたからかな? と思った。でも、どうやら採血で抜くのは大さじ1、2杯分とかのようで大した量ではなさそう。

看護師さんから「よそを向いて他方がいいですよ」と言われたこともあり採血の様子はみていなかったので、ほんとにそんな少ない量だったのかどうかは不明だけど。だるいってことはそれなりに影響のある量なのかな。もしくは心理的なものとか。

これまで大丈夫だったから、今度も大丈夫って頭では思ってても、そうじゃないこともある。そんな予想の面では頭の判断は当てにならないのかも。前回ダメだったから今回もダメだろう、とか。イメージトレーニングって意味でいいように働くこともあるけれど、体に関してはそれだけじゃないってこと。だから何も異常を感じてなくても、定期的な健康診断は大事っていわれるのかな。

かといって、大したことない症状を病気扱いされるのも嫌だから、検査と治療は切り離して考えたいかな。いい評判はもらえそうにないけど、病人じゃないからもう来なくていいですっていう態度の医者の方が親切なのかもしれない。今回行った病院は初めてだったけど、好感が持てそうなのでまた何かあった時にはお世話になりたいと思った。

もう体が頭の思い通りにならない年齢ってこともありそうなので、なんでも思った通りに無理させるんじゃなく、体の様子をうかがいながらやってかないと体を壊しちゃうんだろね。

洗濯から学びほぐし

よく晴れそうだ。こんな日には洗濯物を干したくなる。でも、まったく洗濯するものがないから洗濯物を干すことはできない。まだ洗わなくていいシーツや枕カバーを洗おうかと考えたが、やめにしておこう。

これって、せっかく割引クーポンを持っているのに買うものがないときに似てるな。期限は今日までだし、そのうち使うだろうから買っとこうか、みたいな。でも、必要になったときにはもっと安く売られてたりして。

期限付きのもの、限定という言葉に弱い人もいるだろう。今しか買えない、明日から雨が降るから今しか干せない、どっちも同じような心境が働くのだろうか。だが、洗濯物に関しては生乾きになるぐらいなら洗濯しない方がいいことだってある。残念だけれど、やっぱり今日洗濯するのはやめておくか。

どうして洗濯したくなるのか。それは、汚れてしまったものをきれいにしたいときはもちろん、汗臭さを取り除きたいからだろう。特におじさんの場合は。どちらかというと、太陽の光を浴びて爽やかな感じの匂いになった服を着たいから。繊維の中の微生物などは洗濯したっていなくなったりしないだろうし。

乾燥機能のない洗濯機がしてくれることは、洗濯洗剤や柔軟剤の力を使って浮かせた汚れを水に流し、香りをつけたりしてから、何度かすすいだ後に脱水すること。髪を洗うときにシャンプー・リンスするのと変わらない。簡単にいえば、洗って水をきること。水洗いで汗を落として、仕上げに香り付けをしてるってわけだ。

一旦汗を落とさないといい香りをつけても臭くなってしまう。

守破離じゃないけど、染み付いたものは一度捨てないとダメなのかもしれない。慣れ切った考え方や趣向、言動や食事などの習慣や服装も。unlearnしたからって全部忘れられるわけじゃないから、新たな道に進んでいける。それで洗濯干すのって気持ちいいのかも。

溜まっていく洗濯物が悪臭を放ってしまうまでには晴れてほしい。あー、何か洗う物ないかなあ。

大切な人とのもめごと

大切な人との間にも、もめごとは起こるものだと思います。そんな時、どのように解決していますか?

自分を曲げて我慢したり、相手に我慢を押し付けてもめごとを解消しても根本的な解決にはならないのに、それでいいやと思ってしまいがちではないでしょうか。かといって、話し合いをすればいつも解決するわけでもなく、議論を重ねるたびにお互いの溝が深くなってしまうことだってあることでしょう。

じゃあ、どうしたらいいのか。

言いたいだけ意見を言い合うってのもいいでしょうね。それで関係が崩れるようなら元々縁がなかったってこと、なんて言葉をみたこともありますが、それは違うと思います。縁があれば、何をしても関係が続くわけではないでしょう。

そもそも何も思わなかったことなら言わなくても気になりません。でも、もめごとが起こるときには大抵、相手が自分を大事にしてくれないことへの不満が多いものなので、言いたいことを言わないように抑えてつけるよりも言った方がよさそうです。だから、せめてできるだけ言葉を選びながら言ってしまうことにします。

大事なことは言ってしまったら、すっかり忘れること。忘れることができなくても、ずるずる引き伸ばさず普段通りに話をすること。そうすれば、たとえ言ったことに相手が合わせてくれなくても、言いたかったことのエネルギーを発散できます。

言いたかった言葉のエネルギーが外に出ていくと、少しはスッキリすると思いませんか?

もめごとなんてそんなもの、そう考えてしまうのも一つの手ではないでしょうか。もめごとはいけないと過度に思ってしまうと、何がなんでも言い争いを避けるようになり、いつも仮面を被ったような状態になってしまいます。そうなってしまったら、相手とは関係のない生活にも影響を及ぼしてしまい…。それってなんだかもったいないと思うんですよね。

いくら大切な人とはいえ、その人との関係が人生のすべてではないと思うんです。本人には伝えない形で不満を解消するのもいいですが、相手に直接伝えてしまうという方法も選択肢に入れてみてはどうでしょうか。

考える時間は適切に

朝、明るくなるのが早いと起きるのも早くなってくる。この時期だと5時くらいに目が覚めることもあるのではないだろうか。

二度寝は気持ちいいものだが寝起きのだるさのことを考えると、一度目を覚まして早めの朝食でも取った方がいい。梅雨の時期は曇っていてあまり太陽が出ることがない分、快適な朝の時間を過ごしやすい。朝は1日の中で一番頭の働きがいいらしいから、朝食を食べたあとでひんやりした風を感じながら読書をするのもいいし、眠くなったら目覚ましをセットして少し眠ればしっかり目を覚ますことも可能だろう。二度寝するのはその時でも遅くはない。朝の時間をやりたいことのために使ってみるのはどうだろう。どうしても起きるのが早すぎる場合は、部屋のカーテンを遮光性の高いものに変えてみるのも一つの方法だ。

午後になると頭が疲れてきて、集中しにくくなってきたり気分が滅入ってきたりすることはないだろうか。そうなってしまいそうな雰囲気を感じたら、そこからの時間は頭をリフレッシュするための時間。目標や効率、不満について頭を使うのは休憩して、今この時に満足しよう。お茶でも飲みながら。

疲れた状態で何か頭を使うことを頑張ろうとするのはやめた方がいい。冷静な判断がしづらくなっているので、ミスが出てしまい、面倒なことになってしまうから。もう頭を使って考えることは明日に回して、脳みそには体の制御に徹していただこう。

もし頭で考えなかったらもっと元気でいられるのかもしれない。しかし、人間社会で暮らしている以上、何も考えないで生活するのは難しいだろう。食事のために買い物をするにも文字を見なければいけないし、行き先に合わせて予定やルートを決めたり、電子マネーの残高が足りるかを判断したりといろいろ考えることはある。

好きで元気になれるからいくらでも続けられる、なんて自分の意識を過信してはいけない。そんなことを続けていると、頭の機能がおかしくなって体の制御ができにくくなり、なんだかわからないけどやる気がでないといった状態になることだってある。

精神力の強さと頭を使い過ぎは違う。鍛えることで、意識して長時間考え続けられるわけでもない。必要なときに短時間だけ集中して考えるのがいい使い方だと思う。頭に余計なことをさせすぎないようにうまくコントロールしていく。

考えることはおそらく脳の機能の中心ではなく、一部なのだろうから。

トランスポーター3 アンリミテッド

たいした感想もない、ただの日記のようなもの。

GYAO!で「トランスポーター3 アンリミテッド」を見た。1、2も見たと思うけど、カーアクションムービーって大体おんなじなので、どんなだったか覚えていない。

アウディは特に好みではなかったけど、カッコよく見えてくる。頭髪は控えめでケンカに強く、がっしりとした肉体美、走りも早いし、自転車でのスタントもできる。そんな主人公は日本の映画シーンにはそんなに登場しないんじゃないだろうか。(謙さんくらい?)

この映画はフランス・アメリカ合作らしいけど、海外には歳をとるのが楽しみになるような俳優さんが多いように感じるのは気のせい? カーアクションは当然ありえないことだらけで、映画なんだからいいんじゃないっていう感じの内容。TAXiシリーズが好きだったけど、こっちの方がいいかも。(これって、GYAO!のレビューに書いた方がよかったのかな)

ところで、同じリュック・ベッソンつながりでもレオンはどうも見た覚えがない。うーん、自分でもよくわからないけれど、カーアクションが好きなんだろうか。

たまにDVDのレンタルしにお店に行くことがあるんだけど、コロナ禍でのサブスク移行率はとても高いと思う。おかげでかどうかはわからないが、お店は三密でもなんでもないし。

聞いたところでは、Amazonかどこかが新作を安くして旧作でも人気作は有料ってビジネスモデルをやってるとか。逆転の発想。確かにGYAO!でも有名作は無料で見れるのが少ない気がする。

この映画は? っていわれると、無料だから見たらいいんじゃない、って感じかなあ。

新型コロナワクチン

新型コロナワクチンについてニュースに書かれてるものを見ると、不安だとかハラスメントがあるとか。いろいろ。

打ちたい人は打って、打ちたくない人は打たないでよい、という自己責任な感じのようだか、では国としてなんのために全員分のワクチンを用意するのか。

変異株には対応できないとかなんとかで、もしかすると効果がないかもしれない。それでも本当は全員に強制したい。なぜなら、少しでも安心してもらいたいから(予想)。しかし、強制はできない。

となると、接種されないワクチンが余る。期限もあるだろうから他の国に譲流とかになって、輸送費もかかってくるだろう…。

心配なのは、ワクチン打ったら感染しないし、周りに感染させないと安心しきってる人。(2回目も受けたの? 変異株もあるよ。マスクしてるからって人の集まるところ、用もないのにショッピングモールとかに毎週休みの日に行くのはどうかと思うよ)

数十年後、歴史の資料集のところにカッコ付きで安倍のマスクとか載るのかな。

人をまとめるのは大変。

人間はやっぱり動物

中年になって思うのは、人間は結局、動物的な部分をなくせないということ。そして、動物らしくていいんだということ。

いくら学校で平等や公平について学んでも、年上などの目上の人を敬う気持ちは生きる上で役立つことがあると思うし、人を馬鹿にしてはいけないんだけども、無意識のうちに馬鹿にした態度をとってしまっていることもあるんじゃないかと思う。

法律やルールで差をつけてはいけないと決められていることでも、なんとなく上司は年上の方がうまくいきそうだし、年上の人を部下だと働きづらく感じてしまう気持ちはあるものだろう。

これには自分の歳も関係していて、老人と若者の中間にいるからなのかもしれないけど。それでも、自分の立場を地位や年齢などで判断してない人って少数派なんじゃないかな。これってやっぱり、人も動物だからではないだろうか?

地位や年齢に関係なく同じ口調で話しをしたり、同じ態度で接している人はいる。自分もそうするように心がけている。それでも雰囲気として対応の上下を感じとってしまう人はいるかもしれない。

ビジネス上で使う言葉だって相変わらず重視されていて、実際大事なことだと思う。礼儀にだって動物的な感覚が絡んでいるだろう。

以前からその土地や地位にいる人の発言権が強いのは、事情をよくわかっていることはもちろんだけど、動物の縄張り的な気持ちが働くからでは? そこをルールで対等に扱おうとしても、おそらく無理でしょう。形だけのルールになってしまうのも仕方がないように感じる。そうした中で理想を追い求める人にはつらいこともあるかもしれないし、心と体のバランスも崩してしまいそうだ。

そういう目で見ると、昔の人がしたがっていたルールにも「かしこい」ものがたくさんありそうな気がする。

だいたい、人は動物より偉いと思ってるのが間違いで、その考え方自体が動物的。人から見たものさしで知性が高いと思い込んでるだけなんじゃないか。なんだかんだいっても同じ生き物なんだから、もう少し他の動物の生き方を学んだ方がいいんじゃないかと思った。