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新元号

・「令和」の「令」と「和」、「reiwa」が頭を巡ってる

元号というものは必要なのだろうか、西暦を併用している状態で元号を変えることに意味があるのだろうか。

個人的には、元号はあってもいいんじゃないかな、そう思っている。

元号って?

MacOS搭載の『スーパー大辞林』より抜粋すると、

「年に付ける呼び名で、日本では645年の「大化」がはじめとされる。古くは天災・事変・祥瑞・即位などによって改めたが,明治以後一世一元とされた。現在は1979年(昭和54)制定の元号法により皇位の継承があった場合に限り元号を改めると規定されている」

ということのようだ。

元はといえば、何かよくないことがあったときに、新たな気持ちで仕切り直しをするという意味も含まれていたのだろう。

人は言葉に影響される

普段、元号を見ることがないという人もいるだろうが、毎日目にする人もいる。文字であればその見た目や漢字が意味するもの、音であっても私たちはその響きの影響を知らないうちに受けている。

明るく華やかなイメージのものをよく目にしていると、明るい気分になり、暗くて恐ろしいイメージのものを目にしていると暗い気分になってしまうのと同じ。私たちは、自分に付けられた名前が持っているイメージからも影響を受けている。そういった言葉の効果を利用したのが、験担ぎのようなものだろう。

元号を定めることの是非ではなく、よく目にするものを変えるということに意味があると思うのだ。

与えられる言葉

このように、人の気持ちに影響を与える言葉を周りから受け取っている。自分で選べるものであれば、いいイメージを感じるものを周りに置いておくことが可能だが、与えられるものについては選びようがない。

だから、与える言葉を定める人たちは、言葉が持っている力をよくわかっているからこそ、慎重に名前を決定しようとする。でも、ほとんどの人はあまりそのようなことを意識してはいないだろう。

今回の元号についても、現代の感覚で見た、文字自体が持つイメージと将来向かいたい方向を熟考して選ばれたものであるはず。

元号「令和」は何かを変える?

その元号を、西暦に換算するのが厄介という理由でなるべく使わないようにしようとするのなら、元号が持っている効果は低減してしまう。

「令和」という元号が、今後の向かいたい方向を定めたものならば、できるだけ元号が人の目や耳に届くような形にするのがいい。その文字と音が持つイメージが、人々に影響を与えるはずだから。

逆に、元号ってあるにはあるけど、書類にあるのは西暦だけだし、って状況になるなら、近いうちに元号はさらに意味をなさなくなってしまうと思う。