書いて浮かべるブログ

のんびり好きなおいさんのアタマノナカ

テキストは多く要らない

授業独自のプリント

あんまり思い出せないけど、学生のときって授業でどのくらい教科書や参考書を使っていたんだろう?

メインの教科書はともかくとして、参考書を見ることって授業中にそんなにあったっけ?

覚えているのは、教師が作った手書きの小テストやどこかの問題集を切り貼りして作られたプリントくらい。それって今でもやってるんだろうけど、教育の現場で使う分には問題ないんだろうか。

まあ、そんなことはどうでもいい。

気になったのは教材として用意させられた参考書や問題集を、授業で使ったり宿題としてするように言われたかってこと。

ほとんど言われた覚えがない。

指定の参考書や問題集だったのに、その利用は生徒の自主性に任せる的な運用だったように思う。

そんなものかもしれないが。


教師を想定した教科書

普通、教科書っていうのは教師ありきで作られているものだから、教科書だけあっても学習はできない。問題がなかったり、あっても答えがついてなかったり。

しかし、近頃の参考書の中には独習ができるようなものも存在する。

そういったテキストを使っている場合、学校指定の教科書や参考書、独自のプリントは必要なのか?

何も教師が要らないなんてことを言ってるわけじゃないけど、優秀なテキストを使えば教えるための教材づくりなどに手を取られなくていいんじゃないかと思っただけ。

教科書に答えをつけないのは、生徒が自分で問題を解く機会を奪ってしまうから?

本当にそうだろうか。知りたいことを学ぼうとしているなら、ちょっと考えて分からないからって最初から答えを見てしまうものだろうか。

だとしたら、生徒の学習意欲を育てるのが本来の教師の役割なんじゃないだろうか。


一つのテキストを使い倒す

例えば、数学のテキストの問題と同じページに答えが書かれていたとしたら、一度答えが目についたら覚えてしまうかもしれない。でも、数字を少し変えて何度も解いてみるとか、答えから問題を逆算するような学習を繰り返していたら、答えを見てしまってもそれほど問題にはならないだろう。

よく練られた問題の値を変えながら何度も解くことで、問題集が不要になったりするかもしれない。

だって問題集なんて、「答えの一部をカッコで囲って、その中を空白にしただけ」な場合がよくあるだろうから。

教科書と参考書、問題集を一つにしたようなテキストを何度も繰り返していれば、おそらく必要な力はついてくるはず。なのに、たった一度解いただけの問題集を手放して、また別の問題集に手を出そうとしたりする。

恵まれているからだろうか。


問題集を一回しか解かないなんて…

どの問題集を手に入れても、書かれていることはそれほど変わらないことがある。

英語のテキストなら、代名詞を変えてみたり目的語や時制を変えてみたり、日本語から英訳をしてみたりと何度でも学習できる。

だけど、そうすることが少ないのは、豊かだからなのかもしれないね。業界的にはいい傾向なんだろうけども。