いずれはなくなる
誰かに壊されたり、自分で壊してしまったものってあると思う。
なおせないほどに壊れてしまったら、もう元には戻らない。やり場のない怒りが込み上げてくることもある。
でも、よく言われる言葉にあるように、形あるものはいずれなくなってしまう。
だから、そんなことは気にしないほうがいいのだけど、どうしても気になってしまうものだ。
そんなときには一体、どうしたらいいのだろう。
大事にしていたのか
手に入るものについては、また同じものを手に入れたらいいが、もう手に入らないものに執着しすぎるのはやめたほうがいいと思う。
それがあるときからずっと大切にしていたのならいいのだけれど、なくなってから大切だったのに気付くなんて場合は疑わしい。
なくなってしまったものは、良いものだったと過大評価しがちなもの。まだそれがあるときに、あまり大切にしていなかったのなら、なくなったことで大切なものに格上げされたようなものだ。
なおすよりも新しく
同じものでなくても、なにかを手に入れれば感情が治まることもある。
周りから見ると薄情なヤツだといわれるかもしれないが、そんなのは知ったことじゃない。これまであったものがなくなった、ということから少しずつ目をそらしたっていいじゃないか。
なくなったって、また手に入れたらいいのだ。代わりに自分を満たしてくれるようなものを。
同じものが手に入らないのは、命くらいのもの。なくなった命は元には戻らない。
しかし、命もまた必ずなくなってしまうもの。そのため、世代交代をしながら生き残っていけるようになっている。壊れかけたものをなおすより、新しく作り出したほうがいいということなのだろう。
消去と書き込みを繰り返す
どうして、何かがなくなってしまうと空虚な気持ちになるのだろう。
頭の中のそれに占有されていた部分が、新しい情報でアップデートされなくなるからだろうか。
からっぽになったところができると、自然と何かで埋めようとする。脳内でも、なくしたところには何かを入れようとする力が働くのだろう。
データが更新されなくなると、使われない部分の消去が始まってくる。忘れないように何度も思い返していれば消されづらいが、外からの刺激はもう入って来ないので徐々にデータの書き換えが行われてしまう。終わってしまったことが美しい思い出になるのは、そういう仕組みなのかもしれない。