書いて浮かべるブログ

書きながら考える

のんびりしたい私のアタマノナカ

思い通りになったら奇跡

それはわがまま

アドバイスを聞かない相手に腹を立てたり、関わりを断とうとしたことはないだろうか。

それはただ、わがままなだけである。

自分の意見が通らなかったり、思い通りに相手が動かないことを不満に思っているわけだから。

相手は従順なロボットではないから、言うことを聞いてくれないときもある。それだけじゃなく、歯向かってくるときだってあるはずだ。それと比べれば言うことを聞いてくれないなんて、たいしたことのない問題ではないだろうか。


いろいろとアドバイスを求めてきたくせに、そのアドバイスとはまったく違った行動をしているのを見るとムシャクシャしたりするかもしれない。それが人間というものなのだろう。

だから人の上に立ちたいと思う人がいたりして、社会が成り立っているのだろうから。

でもそういうのは、知的ではないと感じる。


自分は自分

相手がどういう動きをしようが、他人は他人。相手も自分と同じように感じたり考えたりしているのだから、思った通りに動いてくれるわけがない。そういった、少し考えてみれば当たり前のことに気づかずにイライラしてしまうのはなぜなのだろうか。


人は、自分のいうことを聞いてくれるものが好きなのかもしれない。懐いてくる動物とか、手足のように走るクルマとか。ちょっと違うのだろうけど、ぴったりくる服装やグッズとか。


あんまり自分に都合のいい環境にいると、わからず屋な人になってしまうのだろう。

物事はいつもうまく行くとは限らない、自分の意見が通るとも限らない。そんな状態に慣らされながらも、なんとか自分らしく生きている人は、周りの人にも自分にもやさしい人なんじゃないだろうか。


相性のいい人はそんなに居るものじゃない。なのに、ほんの少しすれ違いがあっただけで合わない人だと決めつけてしまう。だいたい、一つでもピッタリくるものがあることだって、奇跡みたいなものなのだから。


適度な距離感

聖人ではないので、誰とでも平等にというのは難しいが、合わない人とも合わないなりに適切な距離を保って付き合えばいいのだと思う。例えばそれが、限りなく心の離れた付き合いだとしても。なにも関係を断ってしまう必要はない。

そもそも、人のことに過剰反応するような暇があるなら、自分のやるべきことをしたほうがいいだろう。

そうしないと、周りの人に振り回されているように感じてしまい、頭の中もそのような考えで勝手に占領されてしまう。相手にはこちらを困らせようとする意図なんて、これっぽっちもないかもしれないのに。