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忠告とアドバイスから思うこと

忠告とアドバイスについて思うところがあったので、書いておく。


大辞林によると、

【忠告】心を込めて、過ちや欠点などを直すように言うこと。

【アドバイス】助言すること。勧告。忠告。

と書かれてあるので、忠告=アドバイスなのだろう。

しかし、私だけなのかもしれないが、忠告の方がアドバイスよりもキツい感じがする。

そんなことはないだろうか。


次に、助言について調べてみると、

【助言】役に立ちそうな言葉をかけること。

となっているので、忠告よりは少しだけ柔らかい。

だた、わからないのが、助言の語釈にもアドバイスが含まれているということ。

つまり大辞林的には、助言=アドバイスでもあるというのだ。

ちなみに、【勧告】は、あることをするように説きすすめること。となっている。

アドバイスのほうから見ると、アドバイス=助言=勧告=忠告なのだが、左から右に向かうに従ってキツさが増しているように思える。


「◯◯にアドバイスをする」という表現はよく使われると思うが、助言する、勧告する、忠告する、などはどうだろうか。

自分としては軽いアドバイス(助言)をしたつもりなのに、相手から「忠告ありがとうございます!」なんて言われたら、なんだか説教をしてしまったような感覚になったりしてしまわないだろうか。


大辞林に限らず、語釈の堂々巡りについては、国語辞典にありがちなことだと思うので、あまりとやかくいっても仕方のないことだとは思う。

それに、人によって言葉の解釈は異なるものなのだろうから、うまく伝わらないことなんてよくあることではないだろうか。

実際、アドバイス=忠告と捉えている人もいるのだろうし、言葉を使ったコミュニケーションは難しいものだと感じる。


もしかしたら、これは言葉だけではないのでは?

人のしぐさを解釈する部分でも個人差があるのなら、おかしなことになってしまうだろう。

例をあげると、多くの人が「怒られた」と感じる状況で「褒められた」と感じる人がいてもおかしくはない。

怒られれば怒られるほど嬉しくなってしまうわけで、ある意味そっち系の人と同じなのだろうが。


認知行動療法だって、変なというか、普通とされる大多数の感覚を無視して行えば、ちょっと珍しい、不思議な感覚を持った人が作られてしまう可能性がある。

そういう部分があるのだとすれば、一般的な環境で育った人が天才的で特殊な人になるなんてことは、まずありえないのだろう。

いくら遺伝的に天才だったとしても、一般的な環境に適応し続けるなら、「なんか違うなー」と感じながらも周りと同じ感覚を持つようになっていくか、ズレに耐えられなくなって狂ってしまうのかもしれないな、と思った。