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のんびりしたい私のアタマノナカ

決めつけとか


決めつけ、について書こうと思っていた。



ここの周辺では道路の舗装工事をしていて、騒音がかなりしている。普段静かなこともあって、あんまり音に対する耐性はない。いつもうるさければ気にならないのかもしれないが、これでは何かをしようという気持ちさえなくなってしまう。



人や物のことを客観的に見ていき、自分なりに性質をまとめ上げる。そうしたものが頭の中で一段落したら、そこから先はそれを元にして人や物を判断する。だから、頭の中にある性質と違っているものを感じると、「あなたらしくない」とかいうことを言い出したりする。

でも、それはこちら側から見て勝手に判断した性質であって、そのものの自体を表しているわけではない。私から見るとそう見えても、他の人から見るとまた違ったように見えたりするわけだろうから。

それでも、一旦頭の中に作られた物の影響は強く、頭はなかなかその認識を改めようとしてくれない。一度まとめ上げた考えを修正するのは嫌なのだ。決断力が高いとか、決断が早いという人のことを優れているとすることが多いような気がするが、そういった人ほど決めつけてしまいやすいのではないだろうか。

物事を一つの言葉で言い表すのは気持ちがいいし、スッキリする。しかし、そうしてしまうと今度はその言葉にとらわれてしまう。他の目線を持つのが難しくなるのだ。あまり一つのものとして認識しないほうがいい。あの人はこんな人、そんなふうに一言で表せるほど人は簡単なものではない。



周りを見渡してみると、工事は順調に進んでいるようで、今日中には完了しそうだ。しかし、音については少々耐えられない。ラジオの音が聞こえなくて、音量を上げてもやはり聞こえない。これでは気晴らしにもならないではないか…。

工事に携わっているかたは重機の近くで作業をしているわけで、もっと莫大な音量を身近に感じているはず。それを考えるとたいしたことはないのだろうが、作業者のかたは大丈夫なのだろうか。慣れというものがあるのだろうか。



占いが好きな人がたまにいる。そういった人は自意識過剰というか、人に言われたことを自分に当てはめてしまいやすいのだろう。これまで誰かに言われたことのある性質、たとえば「神経質」とか「大雑把」のような性格の一部分を表す言葉に敏感なのである。人はいろんな性質を持っていて、神経質なだけの人はまずいない。なのに、そういうたった一つの性質に偏っていると思い込んでしまっている場合がある。そうすると、雑誌などで占いを見ていてもそこだけが目についてしまうので、占いが当たっているように感じるのである。

なにも、占いを見るのが良くないといっているわけではない。自分の中には、神経質なところも大雑把なところも同居しているし、神経質や大雑把に感じていたところが状況によっては丁寧や大胆に置き換えられるということを信じていないのだろう。


ものには見方がさまざまあって、絶対というものはありえない。そのようにしか見えないことでも他の人が見れば別の解釈が考えられるもの。周りのことだけでなく、自分のことについても決めつけないほうがいい。自分で自分のことを決めつけたせいで、落ち込んでしまいそうなときには特に。



騒音についても、案外なんとかなるものなのかもしれない。やったことのないことを外から判断はできないのだろうから。