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認めるということ

才能を認められた人というのは多くの場合、努力してきたことや苦労したことが高く評価されているのだろう。

世間に認められた人たちは、どうやら若いころからすでにその才能が完成しているようだ。しかし、たとえ早いうちからその分野の人に認められたとしても、一般の人たちに認められるまでには時間が掛かる。一般の人たちというのは、私のように流行りものに飛びつくような人のことで、物事の本質を見抜く能力は持ち合わせていない。だからといって、そのような人たちのことをバカにしてはならない。世の中には圧倒的に一般の人たちが多く、その人たちに認められなければ世間に認められたとはいえないのだから。

写真のような絵を描いた人をすごいと思っても、トレースして描いたとなると「な〜んだ」と感じてしまったり。写真を加工して絵のようにすることもできるのに、手で描いたとなると尊敬したり。
ソフトウェアによる加工では表現できないことがあるし、見比べてみると全然違うのだろうけど、それを見る目のある人がそれほどたくさんいるとは思えない。あの人は有名人に見出された人だとか、過去に大変な苦労をしてきた、などという周辺知識をもとに判断するくらいしかできない一般人のほうがはるかに多いことだろう。

そして、はじめから恵まれた環境にある人はなぜだかあまり評価しない。すごいのが当然だと思ってしまうから、そうでないときの風当たりがものすごい。
つまり、一般の人はその人の作った内容を見ているのではなくて、信用に値する人がその人を賛賞したときや、相手を認めたくなるくらいに頑張っていると感じたときに、突然その人のことを持ち上げる。同時にそれまで作り上げてきたものにも一気にスポットライトが照らされていく。

作品自体には単体でも価値があるのだろうけれど、誰それの作ったものという前書きが付くことで本当に認められるというわけだ。
だから、世間に認められるためにはそれなりの下積み期間が求められる。急に出てきて成功すると、一発屋扱いされてしまったり、運がよかったとかいうふうに扱われてしまう。いくら才能がある人であっても、多くの人々に認めてもらうためにはなんらかの仕掛けを用意しておく必要があるということなのだろう。


それにしても、他人に対しての評価は厳しいのに、自分のこととなると聞き流すだけで覚えるとか、いくら食べても太らないとか、そんな甘い言葉に簡単に心を許してしまうのはいかがなものだろう? と思うのだが。