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のんびりしたい私のアタマノナカ

良すぎると記憶に残らない

不思議に感じたことがある。それは「面白かった、良かったものほど覚えていない」ということ。

面白かった映画や本というのは、面白かったと覚えているわけだから見終わったときにそう感じたのは間違いのないことだろう。それでは何が面白かったのか、と聞かれると意外に答えられないような気がする。全体的に面白かった、それは確実だと思うのだが。

いろんな謎が入り組んだ物語があったとしよう。たいていの場合、謎は最後に解決して終わりとなる。映画なら時間、本ならページ数などの問題でそれがうまくいかなかったとしても、何作かの続編が発表されてすべての謎が氷解することがほとんどだ。逆に、疑問が残されたまま物語が終わりを迎えたままになると、駄作という評価が下されてしまいがちだ。

しかし、疑問残されたままというのは頭にとって案外気になることらしく、大きく膨らんだ謎がラストで一気に解決する作品と比べるとなかなか頭から離れないことがある。簡単にいうと、ツッコミどころが満載なのである。こういった作品は、同じ作品を見た人たちと感想の共有がしやすく、話題にするのにピッタリだ。あのシーンはどういう意味なんだろう? とか、あそこをもう少し細かく描いて欲しかったなど、話のネタにもなりそうだ。要するに、頭が働き始めるための素材になるのである。

そういう意味では、映像にできないといわれた原作を映画化などという触れ込みのついた作品があまりパッとしないのは仕方のないことなのかもしれない。その原因については、原作を読んだひと各人が描いていたイメージをたった一つの映像にしてしまうからだといわれる。どこの誰が見ても自分のイメージ通りだと感じるような映像なんておそらく存在しないから、たとえ誰かに絶賛されたとしても他の誰かには酷評されてしまうのが関の山だろう。

同じように、登場人物の性格についても違和感のない無難な人は記憶に残りづらいのかもしれない。だいたいのキャラクターパターンは決まっているように感じるし、個性的なキャラの人たちが集まって物語を作り上げる。商売として考えると、それぞれのキャラグッズが売れるように満遍なくファンがつくようことも考えておかなければならない。そして、見終わったときに視聴者をスッキリさせ過ぎない程度のモヤモヤした雰囲気は残しておく。記憶に残り、ずっと忘れないものというのはそんな巧妙な構成でつくられているのかもしれない。

それにしても、名作といわれる作品ならまだしも、そうでもないものが記憶に残ってしまってるのは、私の感覚が作者の気持ちに近いものを持っていたからなのだろうか。インターネットを使っても似たような感覚の人を見つけることができなければ、その作品が世の中に出回ったこと自体まぐれだったということかもしれない。詳細に作り込まれたものなら人の心に刻まれるとは限らないのである。