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のんびりしたい私のアタマノナカ

みんなと同じ

みんなと同じは良いことだろうか。

この島にはそんな人が多いらしい。みんなと同じなら赤信号を渡ることはもちろん、どんなことをしても気にならないようだ。多数決=正しい、ということになっているのかもしれない。

多数決に従わないと不利益が起こるなら、みんなと同じが安心なのは仕方がない。みんなと違うと生きていけなくなってしまうのだろうから。外の世界に接することが少ないほど、そういう思いは強くなる。

自分の考えを信じていても平静でいられない人は周りに合わせているしかない。中途半端に我を張っていてもどこかで無理が出てきてしまい、周りの普通から影響を受けてしまう。そうすると、安心してはいられなくなる。

そもそも合わない人と一緒にいる必要なんてないから、壁をつくって抵抗するくらいなら一人で居られるようにしたらいい。一人では生きられないって? 甘ったれたことを言うもんじゃない。一人でも生きられるようになるか、周りに合わせて自分を抑えるか、まずはどちらか決めるべきだ。両方を許してくれるほどの才能があるのは生まれたばかりの赤ちゃんか、誰からも憎まれないような魅力に溢れた人くらいだろう。

しかし、無理して一人で生きようとするくらいなら、周りに合わせたほうがいいのかもしれない。多数決に従った生きかたにはモデルケースが用意されているからだ。いくら生きかたが多様化しているとはいえ、多くの人に合わせていれば自分で悩まなくて済む。そんな何も考えなくていい生活を望んでいるのならだが。

自分の頭で考えて行動するなら、悩み苦しむのは仕方のないことだろう。誰かの真似ばかりをしていたら、結局他人に合わせるのと変わらないのだから。考えた挙句の結論が誰かと同じになることもある。それでも自分で考えた末のものなら、気持ちを抑え込むことなく納得できる。

失敗しなければ成功もない、とよくいわれる。周りに従い続けていれば、何も新しいことは起きないが与えられたものだけで満足はできない。周りの説得を聞いたとしても、納得できるまでやってみること。そうしていないと面白いことなんて見つけられない。満足も納得だってできるわけがない。

だけど、満足も納得もなく、面白いことなんてないけれど、安心できる生活がしたいというときはみんなと同じにすればいい。別に悪いことではない。そういう時期のこともあるのだろうし、つまらないことに耐性があるのだろう。けれども、面白いことを見つけたいなら、みんなと同じはやめたほうがいい。似た感性の人に合わせるのもいいが、自分のセンサーを研ぎ澄ませることで誰かに合わせる必要がなくなるからだ。

好きなようにしていて似たような人に出会うのと、好きなようにしている人に合わせるのとは、まったく違うことなのである。