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のんびりしたい私のアタマノナカ

運動会のお弁当

運動会について聞いた話。

運動会をお昼で終わるようにしたから、お弁当を食べることがなくなったのだとか。

子どものころ、親が運動会を見に来るときもあれば来ないときもあった。見には来なくても、昼ごはんの時間に合わせて弁当を持ってきてくれて一緒に食べていたから、弁当を食べるのは普通のことだと思っていた。そのあと、だいたい15時くらいには終わってたかな。

そんな思い出のある人からすると、運動会がお昼で終わるというのは寂しく感じてしまうらしい。逆にお弁当の準備をしなくていいから、昼で終わったほうがいいという人もいるらしく、どっちもどっちといったところか。まあ、いまどきはお弁当の準備といっても早朝からつくってくれるわけではなく、弁当を買ってくるだけらしいのだが。

しかし、お弁当を一緒に食べるだけなら、運動会が終わった後に勝手に食べたらいいのではないかと感じる。運動場にいるのが良くないのなら、どこかの公園なんかに出掛けて行って、家族で弁当を食べたらいいだけのことではないのか。友だちの家族と食べたいとしても同様だろう。

それに、運動会自体についても好きなように変えていったらいいと思う。運動が得意な子には楽しいイベントでも、そうでない子にとっては本番だけでなく、練習をしているときからつらいものだ。そんな子に合わせて競技をつくってみたり、赤白青とかの組に合わせて競い合わせるのが嫌なら、もっと楽しいと思えるシステムを考えてみたり。

私にいわせれば、そもそも運動会という名前が良くない。なんでもいいからやりたくなるようなイベントを考えてみてはどうだろうか。そんなことを思いつかない、考えたくないような人材は学校に要らないのでは? とも感じてしまう。

子どもに勉強させるためにご褒美で釣ろうとするだけの親や、学習する楽しさを教えられないような先生しかいないのかもしれないが。

確かに、勉強さえできるようになれば手段なんてどうでもいいのかもしれない。しかし、そのまま大人になって、勉強をさせられる環境がなくなってしまったときにその人はどうなってしまうのだろう。

ご褒美を見せつけられなければ、もう勉強はしない。学習する楽しさを知らず、攻略法だけを駆使して仕事をこなしていく。したいことなんて何もないし、お金にならないようなことはしない。それでも構わないが、それこそ人間ではなく、コンピュータと同じになってしまう。

したいけど今はできないことに取り組んで、できるようになっていく楽しさを知らなければ自信なんて生まれはしないだろう。運動会のように、面白くもないけどしないといけないことを無難にやるくらいなら、しなくてもいい。みんなで楽しめそうなことを企画して、先生や保護者がサポートしていく。全員が納得するイベントなんてありえない。それならバラバラにやるなりなんなりすればいい。そんな、少しでもみんなが面白いと思えるようなものを協力してつくりだす場が学校なのではないだろうか。

個人的にはみんなで楽しくってのは嫌いだし、いまどき勉強は家でもできるので、学校もイベントもなくなっていいとは思いますけれど。