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のんびりしたい私のアタマノナカ

「わからない」をどうするか

わからないことに出会ったときの対応は、人によって違う。

まず一つ目は、見なかったことにしたり、触れないように避けてみたり。
理解できないことほど、逃げるように離れたり自分と同じ意見の人たちと固まってしまいやすいもの。ときには仲間を集めてわからないことを排除しようとしたりもする。

よくやってしまいがちな対応だけど、これをやってしまうと余計にわからないことが気になってそこにばかり目がいくようになってしまう。

まったくの無視が出来れば良いのだけれど、なかなか意識から消してしまうことは難しい。そんなことができるのは修行を積んだ聖人のような人だけだろう。実際にそんな人がいるならの話だが。

もう一つの対応は、わからないことを理解しようとすること。
わからないことというのは自分の思考回路にない発想なのだから、怖いと感じてしまいやすい。でもそれは、他のほとんどのことと同じようにわかってしまえば大したこともない。それに、理解することで自分に合った対処法を考えることもできる。

どちらを選ぶかは自由だ。わからないことを理解するのはときに大変な労力を要するし、時間もかかる。わかるまでの長い間、もやもやした不安定な状態を続けることにもなる。今のようにインターネットで検索をかければ手っ取り早くそれなりの答えが手に入る時代に、そういった状態に耐えることができる人は少なくなっているだろうから。

じっくりと考える時間もなく、0か1のようにデジタルな感覚を求める私たちには、わからないことから目を背けて逃げ回るのもそれなりに楽しいかもしれない。誰かが用意してくれた解答を記憶してわかったつもりになりながら、本当の部分では会得していない道具を使いながら暮らしていくのもアリだろう。

数学の公式一つを心の底から理解するというようなことは、この時代には求められていない。計算機のように問題から答えを導き出していく。求められているのは結果だけ、計算機にやりがいは求められていないのだ。

本来の学問とは、どこかの天才が見つけ出したものを追体験して、ごく稀に新たな発見が生まれるというようなものだったのだろう。しかし、今はほとんどの人にそのような学問は必要なく、学問の成果を使えるようになれれば十分。それも、他の人より結果を導く能力に長けていることを証明するためだけに学問が利用されている。それなら、競争をさせることができればなんの競技でもいいではないか。極端なことをいえば、50m走の速い順に社会的地位を与える、というのでも社会が認めるものならなんでも良い。

けれども、なんらかの教育を受けている私たちは、わからないことへの対策を教わってきているはずだ。一から教えてもらわなくても自分の力で考えることができる。もしかすると、その答えは正解ではないかもしれないが、自分の頭で自分なりの答えを考えることが大切なのだ。それができないと、いつまでたっても誰かの考えの言いなりになってしまう。

まあ、さっきもいったようにどちらを選ぶかは自由だから、好きにしてみたらいい。
ただ、選択肢がない状態に比べれば、いくらか気楽でいられるのではないだろうか。