書いて浮かべるブログ

書きながら考える

のんびりしたい私のアタマノナカ

役立たなくても不要ではない

数学書を眺めていると、よくわからないところがあった。わからないとはいっても日本語で書かれている本なので、何度も読んでいればなんとなくイメージくらいはつかめてくる。まあ、これは日本語で書かれているから、読んでいれば理解できるというのは納得がいく。

それと比べて、外国語の文法書なんかは言葉についての解説が書かれているわけだから、これも読んでいればなんとなく理解はできてくる。ただ、言語ははっきり説明できることだけで成り立ってはいないので、わかるというよりも慣れて覚えるという感じになる。

数学の場合、定義が日本語で書かれているから、日本語が理解できれば言おうとしていることがわかる可能性はある。それは日本語を話している人の話を聞くようなものだから、よくよく聞いていれば大まかなことくらいはわかるだろう。そういう意味では、数学を理解するためには日本語がちゃんとわからないといけない。

外国語の文法書も、日本語で書かれているわけだから日本語がわかる必要はある。数学と違うのは、なんらかの定理が理解できるわけではなく、言葉についての理解が深まるということ。外国語で書かれたものを読み解くのとはまったく違うことだ。文法書を読んである言語を理解することは、外国語について理解するということで外国語に堪能になることではない。

だが、現実には理解することより使えることが重要視されている。仕組みは知らなくても使えればいい、というふうに考えている人が多いのではないか。


クルマの運転でもそうだろう。どうしてクルマが動くのか、そんなことは知らなくていい。でも、ちゃんと動かせるようにはなってくれ。そんな感じだから、マニュアルトランスミッションの車は難しいとかいう話になってしまう。

どんな人でも高度な技術が使えるというのは素晴らしいことだ。ただ、技術を使いこなす能力だけを評価しがちな傾向はどうかと感じる。どんな技術でも、何にもわからない人に使わせるには注意が求められるのではないだろうか。それに、なんらかの技術を使うほうの人たちだけでなく、つくりだす側の人材も必要だろう。

もともと、一人でなんでもできる人なんてそう簡単にはいない。多くの人の、「これならできる」を組み合わせて様々なことに対応していくのが社会というものではないだろうか。

外国語や数学に話を戻してみる。外国語でコミュニケーションがとれて、数学を使った計算に長けていればオーケー、というのはどうだろうか。おそらく、コミュニケーションがとれるだけでも、計算が早いだけでもたいして役には立たない。

でも、そういう人材が要らないわけではなく、必要とされる。誰かの「できる」は、他の人の「できる」と組み合わせて使うものだと思うからだ。


人の個性を大切にしているように見せかけながら、これを選ばないと損をするよ、というメッセージが発せられていることもある。みんなが選びたがる職業を志したり、ベストセラーを買いたくなるのはそういう心境からだろう。しかし、たとえ損をしたとしても、その人にとってちょうどいい状況があるのではないだろうか。

人は一人ひとりみんな少しずつ異なっている。似ている部分が多かったとしても同じ人間ではなく、意見が合わないからといって関係がない人というわけではないはずだ。

これをやっていると人から重宝されるとか、優秀だと思われるということはあるだろう。評価をされないよりされたほうが気分がいいのも確かだが、それでは自分を見失ってしまい、誰かの役に立つだけの人間になってしまう。そうなってしまうと、当然自分の役には立たない。

詰まる所、これが一番大事とか、これをしなければならない、というようなものがあるとは思えないのですよ。