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のんびりしたい私のアタマノナカ

目標はきまりを守ることではないが

きまりを守ればいい。それだけを考えるのは危険だと思う。

守ってさえいれば他のことはどうしたっていいと考えがちだからだ。

きまりは守るべき枠組みとして大事だが、きまりの前に重要視しなければいけないことがある。

簡単な例を挙げると制限速度。

速度を守っていれば他のことは気にしなくていい、そんな運転をしてしまう人がいたっておかしくない。

制限速度を超えていなければ、停止するまでに後ろの人が驚くような少々強めのブレーキをかけたとしても、気にしない。きまりを守ることばかり大事にしていると、そんな人が増えていっても仕方ないのかもしれない。

周囲と調和したスムーズな運転を追求することで、結果的に燃費は向上するし故障も少なくなり、最終的には車のコンディションを良好に保つことができるという。そうなれば、イライラせずに気分よくいられるというおまけだってついてくる。

でも、実際にはそうはいかない。ドライバーの運転が悪いせいで燃費が悪くなったり故障したりすることが増えるのに、燃費の悪さや故障しやすさは車を作る側のせいにされてしまう。ドライバーは自分を変えようとは少しもしないわけだ。

誰かのせいにすることで、燃費がよく、故障しない車が出来上がる。それをまた何の気遣いもせずに乱暴に操ることで、実燃費が悪いとかここが壊れるといった文句を言って販売側のせいにする。その繰り返しをしていると、車のほうはどんどんいいものになっていく代わりに、人はどんどんダメなやつになっていく。

これは、車に限らない。よいものができると、その分だけ人の能力は低下してしまう。人類全体として進歩していると言われれば、確かにそんな見方もできるが…。

話がズレてしまったが、きまりが守れればいいという考えでは事故の起こらない円滑な道路環境は作れそうにない。それでも、放置するよりはきまりを作ったほうがまだマシという程度のことなのか。いやそれは違う。いくら厳密なきまりを作って守ろうとしても、想定外のことは起こるし、そもそも目標を達成するには何世代にもわたる長い道のりを乗り越えていかなければならない。

昔の人は、今となっては何でもないことで命を落とすこともあった。多くの人がいろんな経験をして、その知識が蓄えられることでより良い方向を目指すことができる。その意味で、きまりを守れない人も役立っていると考えられるのだ。