書いて浮かべるブログ

書きながら考える

のんびりしたい私のアタマノナカ

自分で思うよりも自由

自分が感じて決めている感覚よりも自由らしい→私。

う〜む。そうは思えないのですが…社会の中の人としてって感覚が大きくなってるのは確かだなー、とは感じます。

こういう感覚は、大きくても半分までにしとかないと。疲れるし。

自分的には自由でないと思ってる。
でも、自由だと思っても良い。
もっと自由になっても良い。

「へへっ、こう見えても、私はすんごく自由で気ままなんだぜー」思うのも自由。

少なくても、そう思うだけでも、気持ちがラクになる。気がする。

自由にしていいんだから、ムリもしなくていい。

自分のイメージを、職業や、やってることで決めてしまうのはやめよう。

誰が何と言おうと、「私は冒険家だー」とか思ってたっていいんでない?

何か一つの型にはめようとするのは、あんまり良くない気がするのです。
生きてるってのに変わりはないし、どんどん変わって行ってもいいんだからね。

人間ってば、ほとんど動物

長沼 毅さんの「考えすぎる脳、楽をしたい遺伝子」を読んだ。

人間には、動物的な部分が残ってるんでなくて、動物に頭がオマケで付いてるだけって感じがした。

そう考えると、世の中の納得いかない事柄が逆に自然に見えてきた。
人って、頭で生きるんじゃなく、動物として、生きることメインで考えたら良かったんだー、って感じ。

頭が体を統制してるって考えずに、頭を暴走させないようにする。
頭にはバグがあるようなので。

頭で考えることは、脳としては正しく、問題ないことなんだけど、動物としてはまた違った考えを持っていて、その辺にズレがあるんだろう。

頭だけで考えずに、体の、動物としての気持ちを感じて、大事にして、暮らして行くといいのかな。

でも、どうやらこの問題は人の永遠のテーマであるらしく、まだ解決には至っていない模様。

脳が大きくなり過ぎて、影響力も大きくなり過ぎちゃったのかなー。

他の長沼さんの本も読んでみたいと思う。

あれ? 分厚い?

iPhoneをつまんだとき、思った。

私はケースを使っていないので、本体そのままの姿である。

慣れというものは恐ろしい…。
いや、素晴らしいのか?

つい数年前まで薄くて折れそうと思っていたMacBook Airでさえも普通に感じさせてしまう。

今の感覚では、もうすでにiPhone7も厚いし、重い。

ても、この間下取りに出したiPhone6は薄い感じがしてたから、もしかしたら材質や塗装による肌触りや、厚さと重さのバランスによるものなのかもしれない。

確かに、iPhone6と比べると、6s、7ともに厚みの割に重たいのだ。
となると、3D Touchの搭載が原因なのかな。アルミが7000系になり、塗装が変わったことも関係していそう。

それに硬い気もする…。
あ、6で曲がる問題があって、硬い7000系に材質変更したんだった。

ちなみに、iPhone6の厚さは6.9mmでiPad Air2と同じだったのが、6s、7になってからは7.1mm
この違いが気になったのかもしれないね。

私のいいところ?

ついこのあいだ、嫁さんとの会話の中で出てきた、

「あなたの何もしないところが、いいところ」

ってことば。

へ? おかしいんでない?
それはいいとこじゃないでしょ?

いいところか? どこが?

わからない…。

Googleさんに聞いてみる、「いいところ 何もしない」

ほう、意外に効果がある模様。
「あえて」、「バカンス」、「精神の回復」・・・

長期に休暇を取ったりしなくても、ちょこちょこ何もしない(=精神を休める)ことができさえすれば、効果アリというような記事が出てくる。
ありがとう、Googleさん。詳しくは見てないけど、大体わかったよ。

確かに、頭ばかり使うのをほんの少し休んだだけでも、ほんわか穏やかになれた気がしたから。久しぶりに。

hontoにある、オススメのブックツリーを辿っていたら、面白そうな本があったので読んでみた。

絵本を読むと「天職」が見つかる

絵本を読むと「天職」が見つかる

この手のサッと読めそうな本は、電子書籍がありがたい。どこでも読めるし、かさばらないので。

ペース配分を考えてみる

人生の、生活の。

左から始まるとして、簡単に文字で書くと、

「/」「-」「__」「VV」「U」

のように、いろんなペースがあるけど、それらの組み合わせは人それぞれ。

私的には「/」の逆、バックスラッシュ的なのが多いかなー。
できることは、さっさと片付ける。

社会人としては、「-」な感じに出来るといいんだけど。

ま、そんなこと言ってても仕方ない。
そのときの調子にあわせて、途中で疲れ切ったりせずにゴールへ向かえるよう、リソースをうまく配分していくしかないわな。

電子書籍ビューア

たまにはMac版のKindleも使ってみようと思い、立ち上げてみると、メールアドレスとパスワードを入れてください、と言われたので入力。

認証できなかったらしく、画像にある文字を入力してください、とのこと。
なんとか見づらい画像の中の文字を入力してもダメ。結局使えなかった。

なぜに? 何が違うの⁉︎ となって、5、6回やってもダメ。こりゃ、ダメだ…。

アプリのアップデートがあるのかな? と思い、App Storeを覗いてみるも、App Storeには無い。よって、ダウンロードできない。

んならと、Amazonサイトからダウンロードしてみたら、サインインできた。やったー。
App Storeにも入れとけよー。

でも、アプリの起動はできたものの、本のダウンロードがなかなか進まず…。遅すぎる! 読む時間なくなったじゃんか!

自分へのイメージと気持ちのズレ

「人生を半分降りる」を書店で手にとってみるか、と思いつつ、そんな話を嫁としてたら、

「もう半分以上降りてるんじゃない?」とか、
「そろそろ自分が普通でないのに気づいたら?」とか言われた…。

そうなのか? 知らなかった。
いや、たまに言われるが、しっくり来てなかった。いや、今も来ていない。

そもそも、少なくても自分のことを普通(多数派)と思ってて、ホントに普通な人なんていないんじゃないか?
それに、私は人生を降りていない。降りそうになっててもなんとかなってるはず。

ただ、それを望んでるかと聞かれれば、ほぼ全く望んでいない自分がいる…。

結構、他の人と同じように生きようとしつつ暮らしている、それに満足しているフリはしているが、ホントのところはそれを望んでいない。
それどころか、乗っかってる道自体、間違ってるようにも感じられる。

…これは、半分降りるってことにも興味あるけど、良かれと思って乗っかっている人生が間違っている可能性も否めないなー。

合間合間に考えてた

ネットを色々見ててしっくりきたことば。

・やる気は無理に出すものではなく、自然に湧いて出るもの

・やる気が出ないのは、したいことでないから

ってやつ。悪く言えば耳当たりの良い、甘いことば。

どこかのサイトから引用させてもらおうと思ったけど、原典がどこかわからなかったのでナシ。

ホントそうだよね。というか、そうなんだろうねー。

私たちは、やる気の出ることが収入につながらないとダメ、みたいに思ってしまいがちで、それが不幸の始まりでもあると思う。

周りの人たちのことばでなく、自分の気持ちを聞くことを心がける。
それが、たとえ立派でなかったり、正しいことでなくても。

どうにかして、自分がやる気の出る方向を向き、そのことをする時間を少しずつでも増やしていく、これが人生ってやつなのかなぁ。

頭の部分、いわゆる顕在意識はほんの数パーセントって話もある。
そういうのが、したくもないのにやりたいことだと思い込まされてしまう原因なのかもしれないね。

可哀想な無意識…。どんだけ抑え込んで(いわゆる真面目ってやつ?)生きてきたんだろ。

こんな本があった「考えすぎる脳、楽をしたい遺伝子」
書評を見ただけ。近々読んでみる。

もっと遺伝子(無意識、体かな?)のいうことを聞いて、気持ちよく生きたいものだ。

考えすぎる脳、楽をしたい遺伝子

考えすぎる脳、楽をしたい遺伝子

好きに生きていたい

好きなことをやるようにしていきたい。
みんなもぜひ。

あなたの好きなことは、私がイヤイヤやってることかもしれないし、
私の好きなことは、あなたがイヤイヤやってることかもしれない。

イヤなことはしたくない。
そのためなら、貧しくなっても世間的には不幸でも構わない。

こんな考えはおかしい人のすることなのだろうか。
そんなことはないと思うんだけど。

今だけでもイヤなのに、この先ずっとしたくないことをするなんて、
人や会社の言いつけを守っていかないといけないなんて、いつまで生きられるのかわからないのに。
耐えられない!

少しは気分がマシになったかな。
あー明日も仕事。どうしようもなくなるまでのらりくらりとやってやるさ。
にっちもさっちも行かなくなったら、晴れてサヨナラすればいい。

それまでは下手に動かず、曖昧に、適当に過ごしてやろう。
こちらから動くことはないさ。

まあ、どうなるかわからないけど、そのときはそのとき。
なるようになるだろうからさ。

そうだ、前にお気に入りに入れてた「人生を半分降りる」でも読んでみようかな。
哲学の「哲」の字には縁があるので。

人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ (ちくま文庫)

人生を「半分」降りる―哲学的生き方のすすめ (ちくま文庫)

ちゃんとやってるのにしんどいとき

間違ってないはずなのに楽しくない、面白くない、続けるのがしんどい。

こういうときに気をつけてみたいことは、正しいってだけでやってない? ってこと。

正しいことって、いや、正しいとされてることって、自分の気持ちと合ってる? とか考えにくい。
正しいことだから気持ち的にも問題ない、って思ってしまうのだろか。性善説的な。

やろうとすることについても、他の人からしても立派にうつりそうなことをしがち。
やりたくないのに世間体を気にした、カッコ良さげなことをしようとしてみたり。

そうしてると、正しくて、カッコいいことをしてるはずなのに、何だかやる気が出ない…。
そんなことが起こってきそう。

なりたい自分を目指して、今できもしないことをするのは意味のあることだと思うけど、なりたくもない自分を目指すってことは、意味がないどころか害がありそう。

なかなか自分でも気づかなかったんだけど、この辺の整合を取っていくことが、元気に過ごしてくってことにも繋がるんじゃないかなぁ。

あとね、なーんかイライラして頭が重いってときは、意外に結構、寝不足のせいだったりする。

とにかく余計なことする前に寝てしまう。そうすると、目が覚めたときには正常な感じに戻ってたりするもんだよ。

堅パン食べた

前にも食べたことはあるけど、堅パンを食べてみた。
胚芽入りっての。これは初めて。

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健康はアゴから。確かにそんな気はする。

が、堅い。というかイメージとしては、硬い。
おんなじか。

飲み物に浸して食べると食べやすいらしいが、そのままいただく。

前歯と犬歯で。奥歯はなぜか使わず。無意識に詰め物をかばってるのかも。

味は結構甘め。そう言うと「非常食だから」と嫁の声。
結果的にそうなわけで、もともと非常食じゃないんでしょ?

犬たちに小さく割ってあげると、カリカリ・・・。
普段はフードもあんまり噛まない下の子がしっかりとカリカリしてる!
「こいつは手強い。噛まないとダメだ」と感じたんだろか。

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しかも、食べたあとにはちょうだいアピール。
美味しかったかな?

いずれにしても、無理をしない方が良さそうです。

ちなみに、イチゴ味とホウレン草味もあるのだとか。
試してみたい。

脳は本来、マルチタスクでないと思うよ

こないだ聞いた、マルチタスクが脳を破壊?って話。

コンピュータには完全なマルチタスクはできそうだけど、それで大きな効果を上げることは難しいんじゃないだろうか。

脳内部のことまでわからないけど、日常レベルで考えると、あれもこれもそれもは同時にできない。たぶん、多くの場合。

でも、あれもこれもそれもを別々に絡めながら、影響し合いながら解決へ向かう。ってことはみんな普通にやってるんじゃないかな。

逆にいうと、人がやってるそういうことをコンピュータができるのか? よく知らない。

人には、完全に平行なマルチタスクはできそうにないけど、相互に影響を与えながらモノゴトを進めていくことで、時には全く自分も想像もしないやり方で解決したり、予想しなかったことが生まれたりする可能性があると思う。

そんな能力、可能性もスゴいんじゃない?

ま、やり手の方々が言ってるマルチタスクってのは、詰まるところ、そういう能力のことを言ってるんだろうけど。

確かに完全平行で互いに影響しないマルチタスクは、考えただけでも大変そうだし、脳を破壊するのかもしれないね。

そういうタスクをしたいときには、素直に人を増やしましょう。

シンプルに。普通にって?

シンプルにする。仕事の現場でも言われていることらしい。

例えば、プログラミング。

・シンプルなコードを心がける

正直さっぱりわからない。

シンプルに考える?

人によって違うんじゃないの?

シンプルじゃなく、標準的なものを使って、何かの真似をしなさいってことかな。

・普通に考えたら、こうでしょ?

普通って? 人によって違うでしょ?
ヤバい癖が出てきた…。

じゃなくて、「標準的に」でしょ?

わかってきた! 要は、

・シンプル、普通 → 標準的

って置き換えればいいわけね。そしたら、

・シンプルなコードを心がける → 標準的なコードを心がける

・普通に考えたら、こうでしょ? → 標準的に考えたら、こうでしょ?

なんかわかる気がする。

でも、なんか違う気もする。

言葉の意味が統一して共有されてないと、全く伝わらない。 「シンプル」って言葉自体が「標準的」っていう意味でも使われてるのかも。

調べてみた。

ひょうじゅん[標準] ③ふつうは これである、という理由で、一つの目安となるもの

三省堂国語辞典 第七版 より

ありゃ、そもそも「普通 = 標準」なんだ。私の認識違い。

でも、これで伝わるのかなぁ。

そういうフリも使える

フリだけでもいいから、しておく。納得してなくても。
意外と大事らしい。

世間体を重視する場で、特に。

・叱られたり、失敗したら → 落ち込んだフリ

・褒められたら → 喜んだフリ

喜んだり、嬉しいフリはしなくて良さそうだけど、落ち込んだフリのようなマイナスのフリは対人関係での対立を防ぐかも。

・怒られる → 平然としたり、嬉しいフリ → 反省してないと思われ、また怒られる

・怒られる → 反省したフリ(もちろん、一旦、心も反省) → 相手も周りも満足(納得)

じゃないかな。

話はちゃんと聞く。フリもする。でも、譲れないとこは譲らない。

フリはしても、自分まで相手の考えで染めてしまう必要はない。
本心ではね。

そうしてると、「何回言ってもわからんやっちゃなー」言われるけど、わかってる人はわかってる。相手も。

行動を見てるから。

言葉は体裁的なときもある。一応、円滑に進めるために。

でも、フリしてるってのは忘れちゃダメだよ?

もちろん怒ります

ほどほどに親しい人から言われやすい「怒ったりするの?」

そりゃ、怒るよ。人間だもん。

そうは見えないのかな?

単に想像できないだけだろ。

てことは、普段よっぽど用心深く対応してるってことか。
変なとこを見せないように。お互いに。

そのおかげか、家では怒ってるときの方が多いような気もする。
これは良くない。

逆にした方がいいのかな。
あえて。

素のままだと疲れなさそうだし。

そう言えば、嫁さんもそう言われる言ってたなー。
同類やね。