書いて浮かべるブログ

繊細でのんびり好きなおいさんのアタマノナカ

遅咲き

・年齢と成功とは、そもそもほとんど無関係

年齢とは、知っての通り「生まれてからの経過時間のこと」だそう。生まれて間もないあいだのものは無限の可能性を持ってるように感じるし、周りからもそういうふうに扱われる。終了するまでの時間が長く感じられるからだろう。まあ、当たり前に感じがちなこと。一般的には。

少なくても今の人の考え方はそんな感じ。商品だって新しいうちは価値があるとされるから、値段も高いし欲しがる人も大勢いる。古くなってくると終わりが近いと感じるから、興味を持たれなくなるし、次の新しいものを手に入れようとしたりする。

聞いたことある話では、不老不死はツライものなのだとか。同じようなことを繰り返しながら、ただ永遠の時間を生きていくだけだから、ということらしい。同じようなことを繰り返さなかったとしても、自分のままで永遠を生きるのは耐え難いことなのだろうか。

大きな変化を起こすために、すべてを一旦終了させる。今まで引きずってきたしがらみを少しでも多く捨てて生まれ変わりたい。そんな欲求があるんだろうな。だから寿命を自ら仕組んでるんだろうし、年老いた人よりも若いものに希望を感じてしまう。年をとってから成功した人の話を聞いて励まされるのは、同じく年をとってしまった人たちが誰かに慰められているような感じがするからだろう。

ふと思うのは、人生の花が開くのが遅かった人が、一生花の咲かない人と同じ生き方をしてきたわけはないだろうってこと。やはり成功する人の生き方は、そうはなりそうにない人とは違ったものだと思う。何かのための努力を重ねていない人ほど、ただなんとなく年齢を重ねてしまっているから、遅咲きの人の話を聞いて励まされてしまうんだろう、私のように。

なんとなく生きるのも悪くはない。でも、何かで成功したりやりきったと感じたい人は、誰かの成功物語を見て嬉しくなったり、まだまだ自分は大丈夫と思ったりはしない。そんな時間があるなら、やることがあるはずだから。

年齢なんて生まれてからの時間を数字で表しただけのもの。何歳でどうなったとかそんなことはどうでもいい。本気で何かをやろうとしてからの時間が大切なわけで、漫然としていた期間を計算に入れちゃいけない。

年なんて、忘れるくらいに意識しないほうがうまく生きられると思う。年齢を書かないといけない書類のために生まれ年くらいはどこかにメモしとかないといけないけど、覚えておいていいことはあんまりない。

年齢を気にして、今さらそんなこと始めるなんてとか人の目を考えなくていいから、いつでも思い立ったときにやり始められる。やり始めたら失敗するのは当然だし、やめたくなったらすぐやめればいい。でも、また始めたくなったら始めること。

なんてことないことなのに、どうして年を気にしてしまうんだろう。考え方を変えようとしても変えられないときには、いくつになっても成功できるという言葉で自分を励まし続けるより、いっそ家具でいうところのアンティークを目指した方がいいのかもしれない。

まあ、ハッタリの家具なんだけど。

作業

・働きアリは余計なことを考えてもいいが、口に出してはいけない

お仕事の場面でよくありがちなことだと思うんだけど、言われるがままにするのってイヤになったりすることってあるでしょ? やってるときはいいんだけど、全体像が見えてくるに従って何でこんなやり方にしたんだろう、と考えてしまうことってあると思う。

最終的にこうしたいんなら他にも方法はあったのに、って感じてしまうようなやり方。そういうのって、作業をする人が何にも考えなくていい仕事、言い換えると他のことを考えながらでもできる仕事なんだと思う。そして、仕事について考えたくない人にとっては最適な仕事ってことになるんだろう。

でも、そういう内容ってほぼ間違いなくコンピュータにやってもらうことができるようになるだろうから、将来的には人がしなくてもよくなる仕事だろう。

かと言って、ここで人のする仕事がなくなるとかネガティブなことを言うつもりはなくて、意外といい面もあるんじゃないかと思ってる。仕事について一生懸命になりたくない人たちを見つければ、コンピュータ(あえてAIとは言わない)にやってもらうことができる仕事が見つかると思うから。

流れ作業的とか、誰がやっても同じといわれる作業を機械的にするのが得意な人のやり方を見れば、コンピュータに任せることも可能になるんじゃないだろうか。

プログラマーとかもそうだと思うけど、いちいち考えないで機械的に仕事を進めていきたい人って、めんどくさいことを簡単にしたい人が多いと思う。その都度変わる出来事に対して、毎回対処法を考えることはしたくない → 多様な出来事に対応するやり方が見つかると楽しい → めんどくさいけど、うまくいくと楽しい。みたいな感じになってるんじゃない?

できれば何もしたくないから、少しでも楽になるようにそもそものインプットやアウトプットまで変えようとしたりする。テンプレートに当てはめるだけで物事が完成するようにとか。

そうすると、楽にできるようになったから、もうあなたは要らないねって感じになってしまったりもする。面倒なことを真剣に無くしてたら、何もしなくてよくはなったけど別の意味で面倒なことになっちゃった、みたいな。

そういう意味では、仕事の全体像を見るまではいいとしても、今やってることは無駄なんじゃないか、ってことは考えない方が良い。というか考えてはいけない。回り道してるように見えても決められた手順通りに進めるのがいい。

最初っから全体像を教えてくれてたら、もっと早く完了してコストも抑えられるんだけどなあ、と感じたときには秘密のノートに書いておくこと。口に出したりしちゃいけないし、やり方を変えようとしてもいけない。そこにはみんなが気づいていないことが含まれているかもしれないんだから。いざというときに、それをビジネスチャンスとして生かしていけるようにね。

ついつい改善しちゃったりしてなかなか賢くはなれないけど、できれば目の前の作業に集中するのがいいと思う。

言語

・言語には脳回路の特性が現れているようだ

思いつくままに話をするとき、その文は考えた順序を表しているらしい。そうだとすると、「◯は△する」っていう文を思いついたとき、◯から△に向かって頭の中に浮かんだということになる。◯は主語、△は述語ってやつ。言語によっては◯が省略されることがあるけど、前提として想定されてるだろうからやっぱり最初に◯が思い浮かんでるんだと思われる。

日本語の場合は「◯が□を△する」って感じになるから、◯→□→△の順番で思い浮ぶってことになるけど、本当にそうだろうか。多分そうではないと思う。インタビューとかを聞いてみるとわかるけど、何か話をしてるときって、大抵は無茶苦茶な順番になってる。「よく行くんですよ、私、そういうときに」とかいうふうに。まあ、普通はそんなもんで、だから書き言葉とか話し言葉とかっていうんだろね。単語単位の問題じゃなくて、文自体が違う。

これは日本語だけの話じゃないと思う。言語によってはその辺が厳しく決められていて、話すときと書くときの差が少なかったり、誰が書いても同じような文章を作るように訓練することもあるようだけど。

なので、英会話だけできればいいとか、学校で何年も勉強してるのに英語が話せないのは教育が悪い、とかいう話はそもそもおかしいと思う。日本語は話せるけど文章にはできない人とか、その逆の人って普通にいるでしょ?

学校で学ぶって、興味があるか、向いてるかを経験するって意味もあると思ってて、マスターするところではないと思う。大人になってちょっとした計算式を見ても意味不明だったり、歴史なんて語呂合わせの西暦しか覚えてなかったりで特に詳しいわけじゃないんだから。

外国語として日本語を学んだことはないから分からないけど、日本語の構文って学習するのかな? どの助詞を使うかがとっさに分かるようになるのは難しそうだけど、日本語の場合並びはどうでも良さそう。並びによって文全体の意味は変わってくるにしても、その場の状況を感じ取れる人とのコミュニケーションはできそうな気がする。

なるほど、と感じた言葉に「外国語を学ぶことは、その言葉を使う人の考え方を学ぶことである」っていうのがある。他の言葉を話す人は言葉が思い浮かぶ順序も違うのかと思ってたけど、そうでもなさそう。日本人にも「私は△する、□を」って話す人が居そうだし、その順序でも伝わるだろうから。

でも、名詞によって形容詞の形を変えたりする言語を使う人たちは、全然違った思考をしてるんだろうな、とは感じる。日本語でも名詞によって使いやすいものとそうでない形容詞があるだろうから、全く違うわけではないだろうけど。

どういったことに気を使うか、これまで気にしてきたのか、そんな歴史が言葉にも現れてるんだろね。そういうのに合わせて、同じ言語でも場所によって変化していく。例えば同じ英語でも、イギリスとアメリカはもちろん、アジアで使われる英語は変わって行ってるようなので。この使い分けいらなくない? とかいう感じで単純になってったり、逆に難しくなったり。国とか人種の個性が言語を変えて行くんだろな。

歩く道

・今すでにある道じゃなくて、自分の道を歩くのもいい

よく言われることだと思うけど、僕らは何かを始めようとしたときにそれが職業につながらないとやる意味がない、と考えることが多い。でも当たり前だけど、そんなことはない。何かをするのに、それがお金にならないといけないとかやる気が起きないとかいうなら、そもそも始めることができない。

最初っからできることって、そのままではお金にならないことなんじゃないかな。赤ちゃんの笑顔が誰かの心を和ませるかもしれないけど、だからといって代わりにお金をもらうわけじゃないでしょ? だいたいお金って、感謝とかの気持ちを表すものだと思うから、いいねって言われるだけで十分だと思うし、何も言われなくても勝手にしてればいいと思う。

あれがないからできないとか、ああならないとダメとか、悪く言えば言い訳することってありがちなこと。資金やコネがないから商売ができないとか。難しいだろうけど、できないわけじゃないと思うし。それって、誰かの真似ができないから成功できないって言ってるのと同じでしょ。

2番目のドジョウを狙いたいならやればいいけど、自分のやり方でやりたいなら成功した人をそのまま真似るのはやめた方がいい。その人になりきって上手くいってもしんどくなりそうだし、第一面白くないでしょ。

何といっても自分には今できることしかできない。今できることをやってるうちに何とかなったらいいな、と思いながら続けていくことしかできない。それなら、今現在できることをしながら工夫しながらやってくしかないんじゃないかな。

そのやり方が上手く行きそうにないなら、別のルートを探すみたいに他の抜け道を見つけたり、場合によっては道を切り開きながら向かっていくしかない。案外それって楽しいような気がする。誰かが作った王道みたいなものが自分にとって歩きやすいとは限らないから。好きなように道を開拓しながら進んでいくのもいいと思う。

個人的に集団行動って嫌いなんだけど、その性質のせいで面倒なことになってしまうこともある。逆に、集団が好きなひとはみんなと同じが好きで安心するみたい。でも周りと違う部分も持ってるだろうから、両極端になるんじゃなくて、両方にフラフラ揺れてる状態でいいんだと思う。

結局目指すところに着きさえすれば、険しい道だって楽な道だって何だっていいでしょ? 空を飛んだり、潜ってみたり、ワープしたっていいし、一旦通り過ぎて大きな回り道をしたっていい。なのに、最短距離でゴールに行けるような方法ばかり教えたり、そうでない人を無能だと決めつけたりする。 他人に対して強制する必要はないけど、せめて自分にだけは、そんなのはやめにしようよ。

価格

・出品するものは、全く価値を感じないものを

お店で売るより、フリマやオークションで売った方が高く売れるように見える。金額的にはそうかもしれない。コメントでのやり取りがなく即決、かつノークレームノーリターン、発送時には自宅まで集荷に来てくれる。そういう状況ならお店で買い取ってもらうよりも高い金額で売ることができるかもしれない。

フリマやオークションにはいろんな人が様々な商品を売買してるから、値引き交渉をされたり商品の状態を確認したり、購入後に問題があったりすることもある。だから、あらかじめ高めの値段をつけてみたり、底値で出品してノークレームで、という条件をつけたりする。

ときには出品手数料や送料を引くと赤字になることさえありえる。でも、断捨離としてとか、要らないけど誰かに使ってもらいたいという、商売とは少し違った感覚でやってる人もいるのでそれはそれでいいのかな。

ただ、お店の価格以下の金額で買おうと値引き交渉をするのはどうなんだろ。梱包して発送まで自分でする出品者に対して、商売としてやってるお店と同じ金額を求めるのは何か違うと感じる。安く手に入れたい気持ちはあるけど、やり過ぎてしまうと出品者から商品を奪うようなもんじゃないかな。

この価格なら譲ってもいいといってるわけで、そうでないなら取引はしない。ただそれだけのことなんじゃないかな。その際に商品が古かったり、汚れてたとしても関係ない。この辺はお店も似たようなものだろうけど、仕事としてやってるお店と一般の個人とは感覚が違うだろうから、人が良すぎると儲けるのは難しいかもね。

個人的に思うのは、コメント不可、配送業者が発送ラベルに箱と梱包材を自宅まで持ってきて回収していくって流れなら出品してもいいか、って感じ。問題があったら取引停止、評価も要らないかな。多少手数料を上げる必要はあるだろうけど、運営側の手間が掛かって儲からないからビジネスモデルが成り立たないかな。

相手が見えない状態での取引は難しいってことと、世の中には悪い人もいるってことが厄介で、この辺が問題なければいいんだけどね。物の価値に上下や大小があるってのもめんどくさい。一個に対して一個の取引とかなんこと交換しても気にならない精神とか、そんな思考だったらまた違うけど。車一台と飴玉一個を交換でもお互い win-win で居られるとか、もしかしたら飴玉がすごく大きいかもしれないし。

いずれにしても、要らないもの同士を交換するならたいした問題にならなそうなのに、価値を感じてるものを出品するからややこしいことになるんだと思う。確か「不要品を出品」とか「要らなくなったものを売ったり買ったり」とか言ってなかったっけ。儲かった感が好きとか、取引に興味がある人にはいいサービスなんだろうけども。

見やすさ

・見やすさにもその時々の相性があるらしい

参考書を見ていて感じた。やっぱり2色刷りだと見やすいと思ったり、2色刷りでもそうでもなかったり。モノクロでフォントが太字になってるくらいで、フォントサイズにもそれほど強弱がない割には不思議と読みやすくて頭に入ってきやすかったり。

小説でも、内容には興味があるのに文字がギッシリ詰まってる気がして読むのが辛いときもあれば、辞書の中でも小さな文字がギッシリ詰まってる割にはなぜか見やすいものもある。

フォントの違いなのかな? と思ったけど、そんなに違いがあるとも思えない。でも、ほんの少しのフォントの違いがたくさん集まって大きな違いになってる可能性はあるだろう。

こういうところは、文字の大きさや余白、フォントを変更できる電子書籍が得意とするところなんだろうけど、本の内容によるのかどう設定しても何か違う感じがしてしまうものもある。電子で読みかけだった本の紙バージョンを見てみると、大変読みやすかったりしたこともあった。

紙の本を読むときには、大きさに厚さや綴じ方、紙の厚みや質による触感だけでなく、紙や接着剤の匂いも感じているからだろうか。

以前は好きな本だったのに、改めてみるとそうでもなかったりすることもあるし、買ったけど読めなくて本棚に置きっぱなしだった本を何気なく開いたらあっという間に理解できた、とか読み終えた、なんてことはよくあることだと思う。

紙の本の全体的なイメージと、その時点での興味が一致しているときに読むと頭の中にスッとインストールされるんだろう。

そういう意味では読みたい、と思ったときにすぐ手に入れて直ちに読み始めるのが一番。まずは図書館や古本をチェックしようとか、ポイントが貯まってからとか、ネットショップの割引セールのときに買おうとか考えていると、安く手に入れることはできたとしても、そのときにはもう頭の中の興味の扉が全開ではないかもしれないので、楽しみの減少は避けられないのでは。

大前提として、レイアウトやフォントなどの要素はとても大切。それらが優れていると、たいして興味のない本でも読ませられてしまう。だけど、値段が高くてミミズが這ったような文字が詰まってて、古くて紙の色が変わって形の崩れた本でも、興味があって読みたい本であれば、それらの一見ネガティブな要素は何の障害にもならない。読める状態であればいいから、少しでも綺麗な中古本を探したりする必要もない。

見やすいかどうかってのは、興味があるかどうかを教えてくれるものでもあるんだろうな。

らしさ

・女性らしさ、男性らしさとか要らない

人の中には男性らしさと女性らしさが同居しているらしい。というより、「らしさ」ってのは勝手につけられたラベルみたいなものなんだろうけど。

身体的に性別を分けようとするのがよくないんだろうし、明確に分けられるわけでもないところが難しい。頭の中と身体が一致してればいいんだろうけど、生きてるうちに両方が混ざるというか、そもそも両方ともあるのが人間なんだろうから、誰に都合がいいのか知らないけど「らしさ」で分けようとするのがそもそもの間違いだと思う。

女の子はピンクとか、男の子は水色とか色に関する決めつけも多いと感じる。個性を大事にとかいうけど、その子と親がそういう考えでいても、周りの対応がなんだか変わったものを見るような態度だったりするんじゃない? 重たいものを持つとか、性別の影響する身体能力で適性を分けるのはアリだけど、精神的なものを性別で分ける必要はないでしょう。手先の器用さにも性別は関係なさそうだし。

まあ、誰もが認める、女性像や男性像になりきったって、長くて100年くらいしか生きられないんだからどうでもいいような気もする。人によっては40年も生きれば、あとは惰性みたいなもんっていう人もいるだろうからね。

嫌いな言葉の一つに「男のくせに細かい」というのがあるんだけど、ただ細かいだけなのに、なぜ「男のくせに」が付いてくるのか。それはこの言葉を使う人の男らしさのイメージに、男は大胆という雰囲気が含まれているからでしょう。でも大胆と雑は紙一重だし、細かいと丁寧もそう、ただそのときの性質を表現しているだけで、身体的な性別とは一切関係ないはず。

どっちかというと細かい人を大胆に、雑な人をお淑やかというように性格のようなものを反対方向へ変えさせるきっかけとして使う言葉なんだろう。ただ、子どもがこういったイメージに合わない場合は、悩みにつながってしまうことがあるので注意。「◯◯らしさっていうのはあるけど、別にそれに合わせなくてもいいよ」とか、広い世界に目を向けさせてあげた方がその子のためになりそう。

いっそのこと両性に変化できたり、性別なしの方が余計な苦労がなくていい気もする。本能との分離がなくなって生きやすくなったりしないかな。でも今のところはそう簡単にもいかないので、どれかの「らしさ」に従ってた方が楽ってことになっちゃうんだろうな。

労働時間

・時間をお金に変えたい人に制限は要らない

自分から動くのならともかく、誰かに決められたように働くのが好きな人っているんだろうか。

中には指示を受けて動くのが生き甲斐という人もいるのかもしれないけど、大抵は仕方なくやっていることが多いんじゃないか。

その仕方なくやってる人たちを守るという名目で、残業時間の規制を強くしようとしてる。あくまでも規制が強くなるだけで、禁止するわけではない。

人を動かす立場の人なら、時間の制限をされるのはたまらないだろうし、働きたい人も時間の制限は受けたくない。そもそも時間で労働の制限をするのは的外れでしょう。

やることをやってくれたら、極端な話1時間だけ働くでもいいし、何時間かけても終わらないなら何時間でも、もしくは0秒の労働でもいい。人を動かす側からしたらそんなもんじゃないだろうか。

でも世の中にはいろんな人がいて、お金のためだけに働く人もいれば、お金はたくさんあるから要らないんだけど働きたいとか、タダでも働くって人もいるようだからさ。効率や成果を求められない仕事も多分必要なんだよね。

周りが働いてるからそうするとか、自分だけ違うのは嫌だとか。学生の中にいるといわれる、人に会いたいから仕事に行くとか。サッパリ理解できないけども、それぞれいろんな理由がある場合もあるだろう。

少し前に話題になった、定年退職後にすることがなくて困るという人たちと同じような心境なのかもしれないな。

生活するのには働く必要がないけど、人と会いたい話したいという人たちにはぜひ接客業についていただきたい。接客などのサービス業は常に人手不足らしいから。もちろん年齢などの制限もどんどん取っ払ってください。

で、労働の成果なんだけど、目に見える形で結果が見える仕事ってそんなにないと思うから、判断するとすれば売り上げとか、有給取得率、態度とかになっちゃう。どうでもいいよね、そんなただのこじつけみたいなの。

ただ人を雇ってたら、そんなこととか気に入った人にお給料多くあげたくなる気持ちはみんなよくわかるんじゃないかな。

売り上げだけっていっても、公平な判断はできないでしょう? だって、お店に物を買いに来る人だって店員さんだけを見て買うかどうか決めてるわけじゃないんだから。

たまたまお店に行ったときにその店員さんがいて、高額商品を買ったら店員さんの評価が上がるとしたら、その評価ってその日のシフトのおかげもあるでしょ。それって最終的には運なんじゃないかな。

まあ、ある仕事に就いて、成果をあげて、評価されて、財産を築いて。ってのも全部運が絡んでる気がするからなんともいえないけど。

それに、その人がそういったことに幸せを感じる人かどうかはわからないけど。それこそ運かもしれない。

そんなこんなで、労働時間で制限をかけるあたりがまあ妥当でしょう、ということなんでしょうけどもね。

マラソン

意外とハッキリと向き不向きはあるもの。

学生のとき、冬になると体育の授業でよく走らされた。5kmくらいだったけど。そもそも体育の授業は嫌いだし、特に走るのは苦手なので、いつも憂鬱だったのを覚えてる。サボってゆっくり走る人とは違って、とにかく走れない。足が疲れて上がらなくなるとかじゃなく、息が苦しくなって走れなくなる。毎回授業で走ってるのに少しも楽になっていかない。これにはまったく困らされた。

それと比べ、100mまでの短距離走は速い方だった。疲れもいっときの間だから、そんなに嫌ではなかったな。それだけに、15〜20kmくらいの競歩(とはいえ、走っても歩いてもOK)をやらされたときには不思議な感覚だった。キツイのに変わりないんだけど、途中から楽になってくる。周りの生徒がダラダラ歩き始めるあたりから楽になってきて走れるようになる。なんだろこれ? って感じだった。

ダラダラしたままゴールする人や途中で居なくなる人も居ただろうから分からないけど、順位はだいたい真ん中あたりだったと思う(それでも真ん中だから、得意なわけでもないところが微妙)。速筋とか遅筋とかあるんだろうけど、要は活動モードに入るのが遅いんだろな。ご先祖さまは多分あまり活動しないでコソコソと命をつないできたんだろう。

すぐにはできないこと、向いてないことって結構ハッキリしてる。(できない AND やりたくない)ことはしなくていい。((できない OR できる)AND(やりたい))こと、つまりやりたいことだけやればいい。 でも、それだけじゃないようだ。認めたくないし実行もしたくないけど、「できないことをすると、向いてることがわかるかも?」って感じる。

おいさんになるまでそれとなく暮らしてきて、今頃こんなこと言ってるんだから困ったもんだって気もするけど、できなかったことと向かい合うことで気づくことがありそうな気がした。案外面白そうなものが眠ってるような雰囲気も感じる。あのときには対応できなかったけど、今ならなんとかできることってあるのかもしれない。成長してきたとはいえないけど変化はしてるかもしれないから、以前にできなかったことに取り組んでみるのもいいなと思った。

春っていい時期なんだっけ。

少しだけあったかくなってきて、花が咲いたりもしてる。まだ日陰は冷たいけど散歩するにもいい気候。 ただ、まだまだ風が強かったり、花粉症ではないはずなんだけど鼻がグズついたり目がモーっとしたりで別にいい季節だとは感じない。なにしろ、まだ寒い。服装だって年末の頃から何にも変わってないわけだし。

これから桜が咲いてきて春っぽくはなって行くんだろうけど、春ってのは気候なんじゃなくて社会的に作られたイメージのことを指すのかもしれない。旅立ちとか何かが始まる季節とか。そう考えると、春の、というか季節のイメージって誰かに作られたものなんだなあ、って感じる。

冬は鍋がいいとか、夏はかき氷とかいうのは気温に関係してるものだけど、春は入学や入社、卒業や異動のシーズンってのは社会が決めてることだし、四季がハッキリしてる日本的なものなのかもしれない。国の気候によってそういった行事の時期が違うっていうのは聞いたことあるので。

人によっては、夏に鍋、冬にかき氷がいいって人もいるんだろうけど、寒さが和らいで温かさを感じるときを春っていうんだろな。って、書いてみると当たり前過ぎてどうでもいいことだった。春分の日とかの節目っぽい名前の休日があるから、そこからなような雰囲気もあるけど、当然日々刻々となあんとなく冬から春に向かってってるわけで、気付いたら春だった。ってのが春なんだ。気が付いたらおっさんだった、っていうのと変わらないもんだな。

単純に気候の話だけをすると、どっちかと言えば梅雨が始まる前までの時期の方が個人的には好きかなあ。日差しは強くなってくるけど日陰は涼しいし。花粉の影響が少なくなる、桜の花が散る頃まではまだまだ新年度が始まるとは感じられないね。

で、いい時期なのかってことなんだけど、多くの花が咲き始めたり、昼が長くなっていくって意味では明るい方向に行ってる感じがして、いい時期なんだと思う。何か新しいことが始まりそうな気もするし。書店なんかに行っても、新しいことを学びましょうみたいなコーナーがあったりするし。そんなのに乗せられて、初めてのことに手を出してみるのもいいかもね。