書いて浮かべるブログ

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本当はのんびりしたい私のアタマノナカ

したいことを長く続けるために

この間の話の逆で、物事を長く続けたいときにはどうしたら?って考えてみる。

たぶんやり方は簡単で、もう少し続けたいって思うところでやめておく。言うのは簡単だけど、実践するのは難しい。興味を持ってて続けたいことはなかなか中断することができないから。

終わりのないことをやってるんならともかく、ある程度終わりが決まってることをしてるなら、中断しながらゆっくり続けていったほうが長く楽しめる。

ゲームをしてて最後が見えてきたときに、終わらせるのが嫌だからそこでプレイを中断するのにちょっと似てるかな?

やめたいことは一生懸命に続ける、続けたいことは中断しながらゆっくり進める。

なんだか逆説的な感じ。

でも、長く続けるっていうのは長い時間続いてるってだけで、濃度としては薄いものかもしれない。そう考えると当たり前のことのようにも思えてくる。

人間関係の「濃く短い」と「薄く長い」は似たようなものかもしれないし、同じ金額を使っての「短期旅行」と「長期旅行」だって大差はないのかも。

もしかするとこういった物事にも、「〇〇保存の法則」みたいなのが成り立ってるのかもね。

いい歳だから〇〇って何に気をつける?

体の健康について、「いい歳だから気をつける」という話を聞いて思った。

いい歳って何歳くらい?ってのはよくわからないから考えない。まあ、中年になるとこれまでの不摂生の影響が出てくるから、体のことを考えた生活をしていかないとねってことでしょう。実際大きな病気にかかるのもこのあたりだし。

体は仕方がないとして、心についてはどうだ。「いい歳になったんだから、子どもみたいな考えかたをするな」ってことだろうか。確かに頭の中も相応に老けてくるもの。でも、それは体の老化に比べるとホントに人それぞれ。前に本で読んだ博士か教授だかの人が、「歳をとっても意識は子どものころと何も変わらない」というようなことを書いていたのが印象的で、頭の中と体とはかなり違うらしい。

見た目が老人になっていくのは、どうやら生き物である限り仕方ない。とはいっても、頭の中までいわゆる老人らしくなる必要はない。もちろん、老人らしくなりたいならそれも良いと思うよ。案外そのほうが生きやすいかもしれないし。

で、改めて「いい歳だから気をつける」ってのは何だろうって考えてみると、常識的には年相応の生活と考え方をして、周りに合わせて生きていきなさい、ということでしょう。

そんなのはわかってる。ただそれじゃ、歳を重ねるごとに塞ぎ込んでいくだけ。だから、別の解釈をすることにした。「いい歳だから(周りに影響されすぎず、自分らしく生きられるように)気をつける」って考えてみる。

常識がおかしいとか言うつもりはない。頭の中で考えてるだけでほかの人に害はないんだから、いいよね。

iOSの低電力モードをフル活用

バッテリーの劣化を防ぐためにも、iPhoneの低電力モードをずっと有効にしていたい。そう考えて調べてみると、ショートカットアプリのオートメーションが使えることがわかったので、早速設定。

いい感じ。…でも、少し問題があることに気づく。

自分で低電力モードを解除しても再度設定されてしまう。つまり低電力モードを解除するにはオートメーションをオフにするしかない。それと、撮影した写真がiCloudにアップロードされない。これは私的に困る。あとは、オートメーションが動く度に通知がくるのも変な感じ。スクリーンタイムのところで消すこともできるようだけど、再起動で設定が元に戻ったりとかであまりスマートじゃないらしい…。

少し考えてオートメーションを変更。「Wi-Fiに接続したとき」「Wi-Fiから切断したとき」とかもやってみたけど、今のところ一番しっくりきてるのは「電源に接続したとき」に「低電力モードをオフに変更」と「電源から接続解除されたとき」に「低電力モードをオンに変更」

こうしておけば、充電中に写真がアップロードされるので使い勝手がいいし、低電力モードを解除した状態て使うこともできる。

オートメーションが動いたときの通知も、充電するときにくるだけなのでそれほど気にならない。

うまいこと設定すれば、とっても便利に使えそうなオートメーション。iOSに搭載される前はアプリを買って使ってたなあ。近頃はヘルスケアに体重を記入するくらいにしか使ってないけど。

生き延びるための戦略

早川いくをさんの「天才(ワル)すぎる生き物図鑑」を見てて思ったこと。

見た目のかわいい動物が凶暴だったり、虫たちが相手をコントロールしたり。和田ラジヲさん、花小金井正幸さんの絵も相まって、ちょっと怖い。

でもこういうのってやり方は違ってても、人間の世界でもよくあること。言葉で相手をコントロールしたり、身につけたり持っていたりするもので自分を表現することで、少しでも有利に生きようとする。

見方によっては、耳あたりのよい音楽や詩歌、ワクワクする小説や映画、面白いゲームなんかも相手をコントロールする、一種の洗脳になるんだろうし。

ただ、そういったことになるのは自分たちの生き残りがかかっていて、すべての生き物が何の問題もなく生き続けられる方法が今のところ見つかっていないから。少なくても、これまでの歴史の中でそんな仕組みは実現していない。

相手を傷つけるわけじゃなく、喜ばせながら気づかれないように、うまくやり遂げるだけまだマシなのかもね。

iOS15で初代Apple Watchは動作する?

iOS15がきましたね。いつもだったらすぐにアップデートするんだけど、今回はちょっと慎重に。

私が使ってるのはiPhone Xなので、そろそろアップしないほうがいいって状況も考えられるし、設定からアップデートを確認すると、iOS14.8で「最新です」と表示されてるから。

iOS15の案内が下にオプションみたいに表示されていることからも、これまでのようにすべての人に推奨ってわけでもないようなので。

まあ、iPhoneの世代ごとに使える新機能に差が出ちゃってるからね。

新機能より気になったのが、WatchOS4.3.2のApple Watchが使えるのかってこと。私はいまだに初代を便利に使ってるので、これは大事な問題。

いくらサイトを探しても、iOSとWatchOSとの関係について記載がないのでAppleに電話してみると、オペレーターの方の話ではiOSを15にしても問題なく動作するとのこと。よかった。

ただ、今回の新機能が使えそうなものかよくわからないので、そのあたりをチェックしてからアップデートしようと思ってる。

やめたいことをやめる方法

やめられないけどやめたほうがいいと感じることってたまにある。そんなことをやめたいときにどうするか。人によるとは思うけど、私の場合を一応書いてみようと。

まず、やっちゃいけないのは見えないところにしまったり隠したり、なかったことにしてしまうこと。

ゲームのしすぎやマンガの読みすぎをやめたいなら、ゲーム機やマンガを目にとまらないところに隠すとか。ゲーム機やマンガを売りに出したり、アプリを削除したり。

こういうのでやめられたとしても、嫌な気分になってしまうし、そもそも無理矢理なので何かきっかけがあるとまた元に戻りやすい。なので、こうした方法はやめておく。

じゃあどうするかっていうと反対の方向で、好きなだけやる。このときに適度にやるなんて安楽な方法ではダメで、少々嫌になるくらい義務感を持って打ち込むこと。

そうするとそのうち満足して、やめてもいっかって思う時がくる。ただ、運が悪ければ病気になる(笑)かもなので、そのあたりのさじ加減には注意。

一言でいってしまえば、飽きるまでやるってことなのかな。理性だけでコントロールしようとしてもなかなか難しい、私は。
※当然のことだけど、薬物などの明らかに心や体を害するものには近づかないようにね

ずっと使っているもの

ずっと使ってるものってある? そう聞かれて、ちょっと考えてみたけど思いつかない。

文房具や工具、服とかは着れる間使い続けるから持ってるにしても、好きで使い続けてるものってせいぜい5年以内のものなんじゃないかなあ。それだってよく考えないと思いつかないや。今はクルマも足として仕方なく持ってるんだし。MacBookApple Watchくらい?

そうわかったら、なんだか悲しいような気分になった。

かといって、ものを長く使わないですぐ捨ててしまうわけではないよ。近頃は古本かゲームくらいしか買わないし。

思い出してみると、学生のとき好きだったオーディオコンポ、MSX2とかPC98もいつの間にかなくなってた。別に壊れて手放したわけじゃない。確かだんだん使わなくなって、ほとんどは不燃ごみの日に出したんだった。今だったら引き取り手も見つかりそうだけど、当時はリサイクル店なんて近くになかったし、今みたいにフリマで個人間取引をすることもなかった。誰かに譲るっていう相手もいなかったな。

どっちにしても後悔はしてない。自分的には縁があって使うことになって、縁がなくなったら爽やかにお別れするっていうような。ただそうしてきただけなんだけど。

もしかしたら、ものとの付き合い方がうまくないんかもね。

手間をかけないコミュニケーション

SNSなどで、「いいね」とか「見たよ」ってコメントする代わりに『お気に入りし直す』って方法を知った。

確かにお気に入りをし直すと通知がきて、リアクションのあったことがわかる。さらにその人のアカウント名は一番上にくるから、気づいてほしいって感覚はなんとなく伝わってくる。

はじめは操作ミスでお気に入りを解除してしまい、再度お気に入りしたのかと思っていた。

闇雲にいいねするのは嫌だしコメントするほどの話題はない、かといって無視するのも気が引ける。そういったときに有効なコミュニケーション(?)方法だなと感じた。

はっきりいってしまえば、そんなこと気にしてない人もいるし、私のように「なんでお気に入りし直すんだろ?」って思う人だっているだろう。

でも理由がわかったあとは、なんてきめ細やかな気遣いのできる人なんだ、って思える。

昔書いてた年賀状なんかもそう。私は早々にやめてしまったけれど、ゆるいつながりでも大事にしていたいって人は送り返しをしていたはず。

デジタルの時代になっても、そうした心遣いは続いている。相手に届くスピードが速くなった分だけ、もっと繊細で面倒なものになっているかもしれない。

ただ、まずは身近な人たちとの関係を大事にしていかなきゃね。それでも余った時間があるならそのときに、よく知らない、会ったこともない人と付き合いを進めるくらいでちょうどいい。

そんな意味でも、お気に入りのし直しは時間もかからなくて反応できる、案外うまいやり方だなと思う。(実はそんな意図のまったくない、ただの押し間違いだったりして…)

読書や音楽鑑賞もほどほどに

読書は良いことのように思われているが、実はそうでもないらしい。

知識としてインストールするだけではダメだということだろう。それでアウトプットが大切という情報をよく見かけるが、インプットすることだけを考えている人にとってアウトプットするのは難しいと思われる。

インプットが得意、好きな人は洗脳されるのを望んでいるようにも感じるから。

音楽も同じようなものかもしれない。インプットだけしているのはある意味、洗脳されているようなものではないのか。

音楽を聴くのが好きな人はアウトプットをしたいとは思っていないだろう。できることといえば、せいぜいカラオケで歌ったり曲のコピーをする程度で何かを生み出すわけではない。

そもそも、評価するだけというのはとても簡単なことだ。

お酒やタバコが体に良くないと言われるけれど、読書や音楽鑑賞、映画鑑賞などにも同じような害があると感じる。

頭をコントロールされないよう、ほどほどに付き合っていきたい。

やれるという感覚

予想というものはあまり当てにならないようだ。
できると思ったのにできなかったり、できないと思ってたのに案外できてしまったり。
経験や考えかたは人それぞれなので、どっちになるかは人によっていろんなタイプがあると思う。

よくサイトなどで見かける、老人が後悔していることによると、もっと頑張ればよかったとか、あんなに働かないでよかった、といった言葉があげられていたりする。

それまで頑張ってこなかった人からすると、やってみたらできることはあっただろう。逆に、すごく頑張ってきた人からすると、もっと休めばよかったと感じるのかもしれない。

人はそれまでの経験をもとにしか考えられないということ。まだやれるかなんて、周りだけじゃなくて本人にもわからない。

気持ちだけが先走って体を壊すこともある。とはいえ、それがきっかけで新しいステージが開けることもあるので、無理をし過ぎないのがいいことだとも言い切れない。

特にスポーツでよく実践されている感覚の、イメージトレーニングが有効に働くのは精神的なものが大切だから。いくら身体的に恵まれていても、精神が健全でなければその能力を発揮するのは難しい。当然、精神論だけで体を引っ張っていくにも限界がある。

英語を学ぶときにも、まず外国語に対する苦手感を取り除くのが大事という話を聞いたことがある。同じように、学生のころ運悪く数学に苦手感を持ってしまった人は、大人になってからも数字を見ただけで吐き気がしてしまうかもしれない。

だからといって、精神的なものが一番大事ということでもないのが厄介なところ。スポーツにも勉強にも、体で覚えた方が手っ取り早いことがある。たとえば、基本的なフォームを身につける練習や算数の九九など。そうしたものは、どうしてそんなことをするのかを考え過ぎてしまうよりも、体に覚え込ませたほうがいいのではないだろうか。

やれるかどうかはやる前に考えるものじゃなく、実際にやってみないとわからない。前回ダメだったから今回もダメというのは間違いだし、前回できたから今回も絶対にできるわけでもない。やってみて、ダメだったらそのときに対処する、そのくらいの気持ちで取り組んでいくのがいいのだろう。ただ、それを実行するのが癖になるまで意識的に行っていくことが大変なのだが…。

とらぬ狸の皮算用

ニュースでよく言われる、未来に借金を残してはいけないという言葉。年金問題などにも使われてる。

未来の借金っていうのは、将来をあてにしているから起こることで、そもそもありもしないお金を現在に回して使ってるってこと。年金の場合は、老人に投資しているようなものかな。

事業を拡大するために企業がお金を集めて投資するように、もともとないものを国が使っているようなイメージか。よくないことなのかもしれないが、そうするしかなかったのだろう。

税金だってそう、過去から未来の税収を予想して、入ってくるはずのお金の使い道を計画していく。近頃は聞かなくなったけれど、子どもが出世払いで何かを買ってもらうのと同じような発想やね。でも、出世払いが誰にでもできるわけじゃないのと同じく、そんなものは当てにならない。ただ、今をうまく動かすためには…。

集めた年金を次の月に老人へ渡す。毎月その繰り返しをしていければ問題にならなかったのかもしれないけど、人数的にも規模的にもそうはいかなかった。その間に少子化が進んでお金が足りなくなる。

税金も当てにならない。儲かってるときにたくさん集める。悪い言い方をすると何処ぞのヤ◯ザと同じように思えてしまうけど、必要なときに国民にサービスを提供してくれるのだから仕方がない。

入ってきたものだけを使って、なければ我慢する。そんな家計の節約のような運用ができたらいいのだけれど。そう簡単にはいかないんだろうね。

目標はきまりを守ることではないが

きまりを守ればいい。それだけを考えるのは危険だと思う。

守ってさえいれば他のことはどうしたっていいと考えがちだからだ。

きまりは守るべき枠組みとして大事だが、きまりの前に重要視しなければいけないことがある。

簡単な例を挙げると制限速度。

速度を守っていれば他のことは気にしなくていい、そんな運転をしてしまう人がいたっておかしくない。

制限速度を超えていなければ、停止するまでに後ろの人が驚くような少々強めのブレーキをかけたとしても、気にしない。きまりを守ることばかり大事にしていると、そんな人が増えていっても仕方ないのかもしれない。

周囲と調和したスムーズな運転を追求することで、結果的に燃費は向上するし故障も少なくなり、最終的には車のコンディションを良好に保つことができるという。そうなれば、イライラせずに気分よくいられるというおまけだってついてくる。

でも、実際にはそうはいかない。ドライバーの運転が悪いせいで燃費が悪くなったり故障したりすることが増えるのに、燃費の悪さや故障しやすさは車を作る側のせいにされてしまう。ドライバーは自分を変えようとは少しもしないわけだ。

誰かのせいにすることで、燃費がよく、故障しない車が出来上がる。それをまた何の気遣いもせずに乱暴に操ることで、実燃費が悪いとかここが壊れるといった文句を言って販売側のせいにする。その繰り返しをしていると、車のほうはどんどんいいものになっていく代わりに、人はどんどんダメなやつになっていく。

これは、車に限らない。よいものができると、その分だけ人の能力は低下してしまう。人類全体として進歩していると言われれば、確かにそんな見方もできるが…。

話がズレてしまったが、きまりが守れればいいという考えでは事故の起こらない円滑な道路環境は作れそうにない。それでも、放置するよりはきまりを作ったほうがまだマシという程度のことなのか。いやそれは違う。いくら厳密なきまりを作って守ろうとしても、想定外のことは起こるし、そもそも目標を達成するには何世代にもわたる長い道のりを乗り越えていかなければならない。

昔の人は、今となっては何でもないことで命を落とすこともあった。多くの人がいろんな経験をして、その知識が蓄えられることでより良い方向を目指すことができる。その意味で、きまりを守れない人も役立っていると考えられるのだ。

違和感のある言葉

よく見かけるけれど、何となく違和感のある言葉たちがある。免れる、あらがう、おこがましい…などなど。

担当を免れる、先輩にあがらう、おこがましいのですが、といった表現を日常生活で使うのは、何だか大袈裟に感じてしまう。「私が言うのもおこがましいのですが…」というセリフを使う営業マンからものを買ったことはないし、もっと普通に「私が言うのも何ですが」程度で十分。私がたいしたことない客だからかもしれないが。

こういったのはおそらく世代の違いなんだろう。個人的には、逃れる、逆らう、恐縮などのほうが馴染み深く感じる。最近だと、数学講師&パフォーマーの池田洋介さんの本がとても読みやすかった。そんなふうに、同年代の方が書いた文章を読みやすく感じるのは、こうした感覚があるからなのかもしれない。

ただ、そういった言葉たちを使わないわけではない。いまだにビジネス用語の本には丁寧すぎるほどの言葉が載っているし、ふさわしい場面はあるだろう。あえて普段の生活で使ってみるのも面白そうだ。

頭の柔らかさ

同じことをしてるとボケるって聞いたことあるけど、なんでだろ。

違うことをすると頭が柔らかくなるという話を聞く。それにしても、頭が柔らかいってなんだろね?

一つのことに慣れると固くなるってことなのかな。熟練することとの違いは?

いろんなことに対応できる状態、それが頭が柔らかいってことなのかも。

同じ系統のことをやったり覚えたりしてるとよくないのか、それとも同じ考え方をしているとよくないのか。

はたまた同じ生活をしているのがよくないのか。

でも、まったく違う考え方をするのも、いつも不規則な暮らしをするのも難しい。頭も体も、いつも同じパターンで活動したがるものだと思うし。

変えてばっかりだと、その人らしさも薄くなりそう。

望ましいといわれるポジティブ思考や体にいい食習慣、それに適度な運動。こういうのも同じことをするって中に含まれるのかな。

何となく、食事や運動は健全な肉体を保ってくれそうだし、ポジティブ思考も脳に良さそうな気はする。

とすれば、同じことをするのが悪いんじゃなくて、体と頭の使い方が間違ってると、よくない方向へ進んでいってしまうってことなのかな。

じゃあ、ボケというか頭がぼんやりと鈍ったようになるときは考え方が間違っているということで、頭が固いってのは考え方が悪いってことなの?

答えの出ないことを考え続けたりしないで、正しく考えることができたら頭の中がスッキリした状態でいられるのかも。

逆に、間違った考え方をするくらいなら、いっそのこと何も考えないほうが頭にはよかったりするのかな。

もしそうだとしたら、何もしないほうが余計なことをするよりもいいんだとしたら、何だか面白いやね。

オリンピックが無観客ってどうなの?

オリンピックは、東京などの4都県で無観客となることが決まった。

そんなにスポーツには興味がないけれど、オリンピックに向けてさまざまな計画が進行している中では、このギリギリの時期まで決定することができなかったんだろう。すでに先行してお金が流れているようなので、延期や中止になるより何としてでも開催したいということか。

オリンピックにそれほど関心がない私でも、その場で観戦するのと画面で見るのとの違いくらいはわかる。今の技術では、いくらキレイで大きな画面と臨場感あふれる音声を用意しても実際に会場にいるのには到底かなわない。観戦したくてチケットを購入している人にとってはもちろん、観客がいなければ選手だって非常にがっかりだろう。

言い過ぎかもしれないが観客がいないのなら、それぞれの選手がリモートで競い合うリモートオリンピックでもいいんじゃない? だって、選手同士の感染だって考えられるわけで。

検査してるからOKってことなら、人数を制限したうえで、検査でOKの人のみ観戦できるようにしてくれ、って思う人もいるでしょう。むしろ緊急事態宣言の発令に関係なく、全競技会場で無観客か人数制限して開催、このどちらかに統一したほうがいいんじゃないの?

当然、経済に大きな影響もある。コロナ禍になって飲食店はダメージを受け続けてるし、観光業界だって。でもこれは、まあ仕方ないのかな。コロナ禍で大きく売上を伸ばした業界もあるそうだから、世の中の流れというか。大変だけど、同じやり方でずっと安泰ってのはありえないってこと、変わっていくものってことなんだろう…。

それにしても、観戦と感染の読みが同じなのって何とかならないのかな。スポーツ感染(スポーツ中に感染)でも意味が通じそうだし。聞いただけじゃ、わかりづらいじゃん。