書いて浮かべるブログ

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のんびり好きなおいさんのアタマノナカ

予想

自分で勝手に予想しない。

どうしてかというと、頭で考えてわかることは自分の想像を超えないから。

いつも通りの解決法をとることになるだけだ。

考えてみてほしい。これまでに、自分が予想した通りになったことがあっただろうか?

案外無いのに気付くだろう。

つまり、予想をしたところでその通りになるとは限らない。

おそらくどちらにせよ、未来は変わらない。

それなら、先のことを気にするのは無駄ではないか。

頭で考えても、出てくるものは過去に経験したことくらい。

だからときには、思い付いたことにゆだねてみるといい。

とはいえ、最初から考えることを放棄してはダメだ。

一度は考えておかないと、いろんな罠にかかる可能性がある。

考えた後で、最後は思い付きにまかせる。

そうしておけば、後悔はない…ハズだ。

あるといいもの

久しぶりに棚から紙の国語辞典を取り出して思ったこと。

「ん? 最近使ってないし、手放していい頃かも」

普段は同じ国語辞典のアプリを使ってるので、内容としては役立っている。でも、紙の辞書自体を使っているわけではないのでキレイだし、ちょっとしたお小遣いになるような気もする。

こういうときに思わずページをめくってしまうとアウトだ。躊躇せずに素早く手放してしまう方がスッキリするだろう。


いつもの悪い癖だが、ここで中身を見始めるとしばらく手放すことはできなくなる。

「一覧性がよい」というらしいが、紙の辞書は他の項目まで目に入ってくる。だから、調べたかった言葉の他にも一つか二つ余計に調べてしまう。これはさすがにアプリでは得られない体験だ。

逆にいうと、ちょっと疑問に思って開くものではないということか。意味のわからない言葉だけを調べたいときには、アプリ版を使うべし。

こうして物は減らずにどんどん増えていくわけだ。別に嫌なわけではないが。


所詮はあったらいいものなので、処分はどうしてもしないといけないときでよい。

実際、本も音楽もない状態で暮らしていても、それらに飢えるほどではなかった。私にとってはそういうものだったのか、とそのとき初めて知った。

しかし、あるとないとでは大違い。私を豊かにしてくれるのには違いない。

「あるといいもの」というものは「なくてもいいもの」かもしれない。だからといって、「なくていいもの」ではないのである。

数日前、夜の寝苦しさが急におさまったかと思ったら、秋の虫が鳴きはじめた。

この辺りでよく聞くのはコオロギの音色。

彼らには暑さが和らいだことがわかるらしい。

日陰にいる虫たちは、朝日が昇って明るくなっても鳴き続けている。


9月に入って気になったこと、それはツクツクボウシの声をほとんど聞いていないことだ。

まだ夏の終わりに気がついていないのかもしれない。

完全に秋らしくなってくるにはもう少し時間がかかる。例年通りであれば、これからやってくる台風シーズンを乗り切るまでは過ごしやすい気候にはならないだろう。


ところで、この季節になると秋生まれの私の頭の中に変化が訪れるのか、何かを変えたくなってくるようだ。

クルマを買い換えてみたり、新しい趣味をはじめたり。転職や引越しの計画もこの時期に動きはじめている。

できれば何も変えずにのんびりしていたいのだけれど…。木から葉が落ちていくように、余計なものを手放す頃合いなのかもしれないな。

私も虫たちと同じように、無意識にタイミングを察知しているのだろうか。

退屈

月末の仕事を済ませた次の日、ものすごく退屈を感じた。

退屈を感じるのは何も珍しいことではないが、やりたいことを始めてもあまり面白いとは感じない。


『精選版 日本国語大辞典』で「退屈」を調べてみる。

たい‐くつ【退屈】
〘名〙 (形動)
①くたびれて気力がおとろえること。いやになること。また、そのさま。

②何もする事がなくて、暇をもてあますこと。無聊(ぶりょう)で困ること。また、そのさま。つれづれ。

③なすべき事をしないこと。年貢納入、契約履行などの義務を怠ること。緩怠。

④畏縮すること。おそれしりぞくこと。不安になること。

⑤困りはてること。閉口すること。また、そのさま。

⑥仏語。修行の苦しさ、むずかしさに、さとりを求める本志をおろそかにして、精進努力の心を失うこと。

「退いて、屈む」と書けるくらいだし、私はそんな状態を感じたのだろう。

三省堂国語辞典 第七版』には、②の語釈と「〔ねむくなるほど〕つまらないようす。」としか載っていない。

これらの状態は、周りから見ている分にはどれも同じに見える。


それにしても明確な意味を説明できないのに、自分の感情として「退屈」という言葉が突然思い出されるのはいかがなものか。もしかすると、そんなことを感じる場所自体が混乱しているのかもしれない。

いずれにせよ、こんなときにはとりあえず嫌になるほど眠るに限る(苦笑)。やけになって大きな決断をしたりはしないことだ。

やはりiPadにキーボードは要らない

iPad用の外付けキーボードを検討

iPad用にキーボードを購入しようと考えていた。それで、候補を絞り込んで買ってみようとしたときに、気づいたことがある。それは、iOSの文字変換はどうやらMacOSのライブ変換とは違うものだということだ。

iOSの設定項目を見てみてもライブ変換の文字は見当たらないし、文字を入力したときの変換効率はライブ変換と全然違う。しかもネット上の画像を見てみると、変換候補をタップして選択する形で、Macのように使い勝手はよくはなさそう。

うーむ。これでは外付けキーボードを導入しても、結局Macで文字入力することになりそうである。

iPadOSにMacのライブ変換のような日本語入力システムが搭載されて、キーボードで変換候補の選択ができるようになるのを待つことにしようか。

iPadはノートPCの代わりではない

もともと私はiPadに何かの周辺機器をつけるのは反対なのに、どうして外付けのキーボードを利用することができるだろうか。

外付けキーボードが嫌なのは、iPadをノートPCに近づけようとしているところ。それがいいという人もいるみたいだが、私は嫌だ。そもそもiPadはPCではないし、同じにしてほしくはない。いい加減、既存のPCに近づけようとするのはやめて、タブレットの可能性を追求し続けてもらいたい。実際のところ、PCに似せないと売れないのかもしれないが、それでは一時期iPadをまったく新しいコンピュータと再定義していたことも嘘になる。ここにきてマウスが使えるようにするのも、新たなコンピュータをつくれなかったと告白しているようなものだろう。

まあ、一番よくないのはiPadをPCの代わりにしようとしているユーザーなのだが。

iPadを既存の概念で使おうとする人たち

だいたい、文章を打つときにソフトウェアキーボードが邪魔だから、キーボードを外付けにするっていう人がいるが、それならどうして ”タイプライターモード” のような、一行に集中して書くことができるエディタを愛用する人がいるのか。こんなのは使い方次第だし、慣れだと思う。文字を入力する分には、今入力している行だけが見えれば問題はない。全体を見渡すのなんて、すべてを入力してからでいい。

そんなのは今までの環境と違うことを受け入れられない人が言う意見で、その意見を聞き入れてiPadの売り上げを上げようとするのはいかがなものか。こんなことでは、iPadOSにも期待はできない。

キーボード一体型でノートPCより軽いものがほしいなら、SurfaceのようなPCを買えばいい。それが最良の選択だと思う。わざわざiPadを買ってきてキーボード一体型のケースをつけて、さらにペンが本体にくっつくからいいと言っているような人は一体何がしたいのだろう。

何もかもを望むと、いびつになる

そうした人は、ライトウェイトスポーツカーにハイパワーエンジンを載せようとするような人種の方々だろうか。軽さを正義としてつくられてバランスのとれたものに、重いものを取り付けてこれまでの努力すべてを台無しにしようとする。その人にはそれが最良と感じられるのだろうが、そんなことをした時点で本来の魅力は失われてしまう。困ったことに、その手の人は大多数で裕福なのである…。

そういった人こそ、ぜひともSurfaceを使っていただきたいと思う。それが幸せになるための最良の選択肢だ。もしくは、将来MacBookがもっと薄くて軽くなるはずだから、そのときまでおとなしくしていてもらいたい。

今回の結論

と言うことで、外付けキーボードの購入はやめにした。それよりも、iPadOSにライブ変換が搭載されることを強く望む。そうすれば、ソフトウェアキーボードの使い勝手がさらによくなる。現にMacの文字入力はライブ変換のおかげで非常に快適。変換候補を選ぶことはほぼ無い。

問題発見型と問題解決型

問題が起こる前提で何かを始めるのに向いているか、起きている問題を解決するのが向いているか。

私はたぶん、問題を解決するのに向いているし、実際のところ得意なほうだと思っている。

このタイプの人の困ったところは、問題が起きないと何もしないところ。さらに問題が起きないような仕組みをつくることを最優先しがちだから、どんどん何にもしなくなっていく。暇に耐えることができるので、たとえすることがなくなったとしても苦ではない。

逆に、何かを達成するためならどんな問題が起こっても気にしないタイプの人もいる。この手の人は退屈を嫌う傾向にあるので、起きていた問題がなくなって安定した状態が訪れると自ら問題を起こしたがる。いや、さらに高度な目標を掲げて前進しようとする。

どちらのタイプがいいわけでもないし、多くの人がどちらかに偏っていてお互いの性質を必要としているというのがホントのところだろう。2つのタイプが双方の弱点を補い合っているからこそ、様々な分野での進歩があるのだと思う。


この話とは別に、好き嫌いという要素もある。得意でも嫌いだったり、苦手なのに好きだったりするからややこしい。

例えば、問題解決が得意なのに嫌いな場合にはどうしたらいいのか。問題を解決するのをやめる、もしくは問題を解決するのが好きになるのどちらを選んだらいいのだろう。

「得意」と「好き」は人の中での担当が違うといわれている。「得意」は頭の担当で「好き」は心が担当というように。こうした葛藤がある場合、まずは頭のいうことを聞いて「得意」を続けることが多い。何日か何年かはわからないが、ある程度の期間嫌いな気持ちを抑えながら得意なことができるだろう。しかし、そのうち心の反撃を受けることになり、得意なことはできなくなっていくというのが通例だ。

じゃあ、どうしたらよかったのか。「得意」を「好き」に変えられないのなら、得意でない好きなことを得意にしていくほかはないだろう。そうしていく中で、好きなことが得意になるかもしれないし、「得意」だけど「嫌い」だったことがそれほど嫌いではなくなる可能性もある。確かなことは、得意なことを嫌いなままで我慢しながらやり続けるのはやめたほうがいいということだ。

嫌いだと口にしていた得意なことが嫌いでなくなるのは何となくかっこ悪いと思うかもしれないが、好きだと思っていたことでも実際にやってみると外から見ていたより好きではなくなることもある。一つのことの専門家になろうとしなくてもいい、心のまま好きなことに手を出してみると考えが変わることもあると思う。


話がそれてしまったが、問題の発見と解決の両方が得意という人はそれほどいない。周りにいる人たちによって自分の役割が変わることもあるだろう。

そんなふうに考えてみると、私が問題解決型だと思っていたのは間違いなのかもしれない。ただ、問題を見つけるのが得意な人が周りにいただけなのではないか。問題解決のスペシャリストのような人の近くへ行けば、私のほうが問題発見型になるという可能性もあるだろう。

これまでの環境でそういう特性を持っていたというだけで、自分の性質を見極めるというのは自分自身に対する偏見なのかもしれない。

自分が得意と思っていることが本当は嫌いなら、人間関係だけにとどまらない周りの環境をガラッと変えてみるのもいいだろう。そうすれば、自分でも気づかなかった新たな一面が顔を見せてくれるかもしれない、そう感じた。

「様」や「さん」で敬意を示す

「〜様」という言葉について、ふと思った。

日本語はいろんなものに「様」をつけることができる。「お客様」や「お得意様」にはじまり、「お父様」、「お友達様」などなど。「先生様」は変だし言い過ぎだと感じるけど、気持ちが伝わらないわけではないだろう。

逆にいくら丁寧な言葉を使っているつもりでも、「様」がないだけで失礼な感じになってしまうこともある。例えば、「お客のご注文は以上でよろしいでしょうか?」みたいに「お客様」が「お客」になっただけで、他の丁寧な言葉が打ち消されてしまう。

もしかすると、「様」さえつけていれば、それほど失礼にはならないということなのだろうか。

それが「お客様の注文はこれで終わり?」だったとしても、「様」がついているだけでだいぶ印象が違ってくる。

自分の側に「様」がついていれば、まずはOKなのだろう。

相手のことを気遣っているという言いかたもできるけど、それだけ自分を持ち上げて欲しいという気持ちが強いのではないだろうか。

そういった気持ちをうまく使えば、良好なコミュニケーションをとることができるかもしれない。

家族に話しかけるときでも名前を省略するのではなく、「◯◯さん、どっか行こう」というふうに「さん」付けにしてみるとか、年下の人と話すときに「さん」付けが難しいなら「お前さん」でもいい。これは結構、変に思われるかもしれないが。

とはいえ、人に話しかけるときに敬意を表す「様」、「さん」などを使っていれば、他の言葉が多少おかしくても悪く思われることはないと思う。

ケンカのときに使ってみるのも良さそうだ。「◯◯さんがそんなこと言うのが悪い」だけでも少しはマシで、「〇〇様が〜」とか「お前さんが〜」となると争うのが馬鹿らしくなってくるのではないだろうか。

そう考えると、これは無駄な戦いを防ぐための日本人の知恵なのだろう。狭いところに密集して暮らすために、周りの人に気を使うのは仕方がなかった。しかし、そんなことばかり考えてたら精神がまいってしまう。だから、ほどほどに気を使って相手にも悪い思いをさせないためにどうするかを経験的に身につけた。それが「様」や「さん」を使って敬意を示すことだったのかもしれない。

それにしても、どうして人の名前を呼び捨ててしまうのだろう。それはやはり、敬意を持っていないからというのもあるだろうし、呼び捨てをしているから敬意を感じなくなるということも考えられる。

もし人間関係に悩んでいる人がいたら、まずは余計なもめごとを呼び寄せないために、いつも「様」や「さん」などをつけることからはじめてみてはどうだろうか。

ピッタリくるもの

すごく好きなものってある?

考えてみたけど、ずっと好きで持ってるものとか、ずっと好みの音楽や作家なんていないことに気がついた。

他の人のことはわからないけど。

そのときだけお気に入りのものはあったとしても、長く続いてる好みなんてない。続いてたとしても、せいぜい5年間くらいかな。

好みの映画も特にない。映画を見たときはそれなりに面白かったと思ってるはずなんだけど、数年経過したときに人に語れるほどのお気に入りではない。

だから、昔持ってたものを見ても「ああ、これ好きだったなあ」と思うくらいで、ある程度の年月が過ぎたらほぼ間違いなく処分可能。どうしても捨てられなかったものなんてないと思う。

これって、さみしいことなのかも。ものだけじゃなくて思い出でも、あの思い出は絶対に忘れたくないって言うのも思い当たらない。もしかしたら、記憶喪失や認知症なのかもしれない。

当時好きだったものは今でも嫌いじゃないけど、ちょっとした思い出が蘇ってくる程度で大した感慨は生じてこない。

よく言えば、過去を忘れて前へ進んでいる、というように考えることができるのだろうが。やっぱり、これは人として問題があるんじゃないかとすら考えてしまう。

過去に引きずられない分、前を向きやすいという話もある。しかし、過去の積み重ねがその人の人生だろうから、過去がそれほど思い出せないというのはいかがなものか。

ということは、例えば今の私のクローンが作れたとしてもそれは今の私ではない。おそらく遺伝子に記憶は含まれていないからだ。そして、そのクローンは見た目が似ているけれど、今の私ではないだろう。

ん? この話の流れでいうと、私が私かどうかを見極めるための要素は「記憶」ということになる。ならば、私の記憶さえ完全に移行されれば、見た目や体の性質はどうでもいいということになるのか。

性格が脳の回路のクセだとすると、記憶は脳の回路と同じようなものではないのか。そうなると、記憶を完全移行した脳は、私とほぼ同じものなのでは?

なんて話はどうでもいいのだけれど、本当に心の底から好きな物語が思い浮かばないというのは案外寂しいものだな。

それなりの量の作品に触れてきたと思っていたけど、大した量ではなかったのだろう。少なくてもプロフィールに書けるようなものは一つもない。ぴったりとくるものが見つかっていないというのは悲しいものだと感じた。

作業中に少々騒がしくしてみる

静かな環境に慣れすぎると、ちょっとでも騒がしいところでストレスを感じてしまうらしい。

受験を控えている学生などはなるべく騒がしい環境でも集中できるように、あまり静かな環境での勉強をするのは良くないのだとか。それで居間で勉強するのが流行ったりしたのかな。家族がいる居間で集中して宿題ができるようになれたら、それなりに集中力がついてるといえるだろうから。まあ私は受験を控えているわけでもないし、資格試験を受ける予定もないので関係ないのだけれども。

ってことで、試しに私もやってみた。

居間ではないけど、机に座って作業をするときにカフェミュージックを流す。加えて、フランス語会話の音声も一緒に再生。その状態でパソコン作業を始めてみる。それほど集中力が必要とされる作業をしてみたわけではないけども、PCを使い始めるとミュージックも音声も気にならなくなる。それも、気にならなくなってくるではなくて、いきなり気にならない。うむ。もともとデスクワークをしているので、これくらいの作業をするくらいの集中力はあるということなのか、とりあえずそういうことにしておこう。

ある程度の時間続けてみた。途中に休憩を挟みながら5、6時間といったところか。それでも別に作業に影響はなさそうだ。聞いていたのが耳心地のいいカフェミュージックとフランス語の音声だったからかもしれない。

やってみて気がついたのは、パソコンの作業をほんの少し中断したときに音楽と音声がそれなりにちゃんと聞こえてきたこと。これなら、聞こうと思って再生し始めるよりも多くの音声会話を聞けそうだと思った。デメリットといえば、音声と音楽を再生しているタブレットなどのバッテリーを余計に消費することくらいか。あとは、家族が近くにやって来たときに何やってんだコイツ、と思われそうなこと。意外とこれが一番ヤバいかも。

逆に、メリットとしては眠気がくるのが遅くなったような気がすること。静かな部屋の中で作業をしていると、落ち着いてしまうのかどうしても眠くなっていたのだけれど、それがマシになったような気がする。適度な雑音(フランス語音声+カフェミュージックが適度かは不明だが)が眠気を抑えてくれたのかもしれない。

静かでないと集中なんてできないと思っていたけど、そうでもないというのが実感できた。脳は聞きたいことにしか耳を傾けないっていうけど、ホントにそうなんだなあ。いい感じでノイズにフィルタをかけてくれるってことか。これってカクテルパーティー効果っていうらしくて、前にも聞いたことがあったようだ。

ただ、複雑な作業をする場合や音楽と音声の組み合わせによってはまったく集中できないかもしれないので、また今度試してみたいと思う。

ゆっくり適応していこう

むかーし、子どもの頃とかに「言いわけをするな」って注意されたことはありますか。

私自身は要領の良いほうだったので、そうした言葉を聞かされることは少なかったと思うのだけれど。そういうのって大人になってもあるんだと思った。目上の人や上司などにいわれるっていう場面が思い浮かぶ人もいると思う。

社会に出るというか、先輩の言うことはなんでも聞くっていうのが今よりさらに当たり前な雰囲気だったから、特にみんな何も考えないで言う通りにしてたんだと思う。

これって今考えると、思考停止ってやつじゃないかな。

確かに当時は目上の人の言うことを守ってればずっと安心できる世の中だったんだろうから、上司の言うことを疑うなんてことはしなくてよかっただろう。でも今はどんなに地位のある人が言ってることでも疑ってかからないといけないような不安定な状況になってる。そして最終的に何か困ったことになっても、それは自己責任だとか言われる。

だから、適応障害ってやつは社会の変化に合わせて起きるようになったことで、今の若い人たちがゆとりだからとか根性がないとかいう問題ではないはず。

以前は上司の言うことに「そんなわけない」と思いながらも思考停止して、みんながやってるマニュアル通りにしていればよかった。どっちかというと、今のほうがややこしくなってるように感じる。ある相手の場合は昔ながらの思考停止の対応、また別の相手の場合には逆に言いたいことをそのままぶつけないとキレられる。

どうしたらいいんだろ?って的確に雰囲気を読めない人が適応できなくなってしまう。これでは相手の考えてることを想像しようとする動物的な人よりも、脳みそを使って学習した高学歴というか論理的なタイプの人のほうが辛いかもしれない。

まあ、世の中をなんとなくでも知っている大人たちが、本当のところをうまく伝えてないから適応するのが難しくなっちゃうんだろうけど、教えるほうも真面目過ぎたり世渡りの仕方を教えたがらないお偉いさんたちの意向なのかもしれないね。

もしくは、人を使う側の嫌がらせとか。

学習してきたことがそのまま仕事の役に立たないのは当然なんだけど、高学歴の人に対して教えてもいない仕事を押し付けて、「そんなことも知らないの?」みたいなことをいう輩もいるって聞いたことがある。それって、ただの嫌がらせでしょ。どこかで学んだことがどこの職場でも通用するんなら、人の入れ替えが簡単にできるからそれはそれで大歓迎なんだけど、実際はどこの職場でも細かいところでの仕事の仕方に違いがあって、最初は教えてもらうしかないんだから。

おじさんたちには変な嫌がらせをして若者の出鼻をくじかないようにしてもらいたいものだ。

モードチェンジ

描き始めないと何を描きたいかはわからない、というようなことを画家のピカソさんが言ってたらしい。

あれを描こう、と考えてから描くんじゃなくて、まず描き始める。描いているうちに描きたいものが浮かんできて、何が描きたかったかわかってくる。そんな感じなんだろか。

こんな話って他でも聞いたことがある。

やりたくなくても、やってみると面白くなってくることもある。とりあえず散歩を始めると、気分転換になって運動にもなる。そんな雰囲気かな。

仕事をするのが嫌でも、放置してたら終わらない。でも、やり始めたらそのうち終わるし、たまに楽しくなったりもするもんだ。

本を読むのだって勉強をするのだって、面倒に感じるときもあるけど、やり始めたら面白くなってくるときがある。ノッテくるというべきか。

それにしても絵を描くときに何も考えないで、描き始めたら何かが描けるっていうのは、やっぱり凡人にはできない芸当でしょう。初めからそんなのができるとは思えない。たくさんの蓄積があるから、何もしてないときに思い付くってやつなのかもしれない。もし凡人でもそんなことができるとしたら、人はただの受信機のようなものってことになっちゃうでしょ。待ってたら何かがひらめいて実現するみたいな。

でも、一般人にも当てはまりそうなこともあるね。

どっかの一流企業や学校に属していたら、だんだんその組織に相応しい人間になっていくという感じの。ある意味洗脳みたいな。そんなのはあるかも。だから自分をダメなやつだって思ってると、ほんとにどうしようもないやつになっちゃうわけで。

何かをするときに頭の切り替えをするのが難しい人は、勉強や作業をするのに専用のスペースが必要になったりする。普通は周りの環境しだいってことなんだと思う。どこにいても作業に影響が出ないっていう人は本物なんだろうけど、それにしてもある程度の環境整備は要る気がする。

何かをやり始めると、そのことに合わせたモードになるんだろな。だから、絵を描き始めるまでは何を描きたいかがわからないってわけか。常にどれかのモードに切り替えてるから、全体の動作モードを俯瞰しながら何かをするってのが難しいのかもしれない。そう考えると、始めるまでわからないってのは当たり前に思えてくる。それに、どれかのモードへ完全に切り替えられないとパフォーマンスも期待できないってことなんだろう。

「健全な精神は健全な身体に宿る」より

 必要条件ではないようなので、健全な身体には、健全な精神が宿っていることがあるくらいの意味だろうか。逆に健全でない精神の場合は、身体が健全な場合とそうでない場合が考えられる。
 しかし、健全な身体というのが健康のために食事のコントロールをしていたり、身体を鍛えるという意味だとすると、そもそも健全な身体を作るためには健全な精神が必要なんじゃないか。精神と身体の関係でいうと、身体が主で精神が従のように感じられるが、鍛え上げられた身体は放っておいても作られるものではないだろうから、やはりまずは健全な精神が必要だろう。
 それとも、オカルトのような話になってしまうが、精神でも身体でもない魂のようなものがさらに上位にあるといいたいのか。その流れでいくと、最初に魂が健全でなければならない。精神でも身体でもない何かが核にあり、それが健全であれば身体、精神の順に健全となる可能性があるといいたいのだろうか。

 もとより身体と精神には相関関係があり、どちらが上というようなことはないと思われる。
 先ほど話したように、身体と精神を客観的に見ているような何かがあるのかもしれない。それは魂のようなものなのか、精神の中にあるいくつかの意識のことなのかはわからない。それよりも、どうやら経験的に意識は統一された一つのものではないようだから、どこか一つの意識を自分自身だと思ったりせずにまんべんなく複数の意識に注目することが求められるのだろう。それなのにどれかをメインにして他のものを抑えようとしてしまうことが、病につながっていくのかもしれない。
 そう考えると自分自身などというものは、頭の中に思い浮かぶことを眺めているだけの調整役のようなものということもできる。精神の状態を調整するように、身体の状態を整えていく。座り過ぎていて身体がこわばってる気がする。食べ過ぎなのかお腹が重い感じがする、などの思い。自分にできることは、そんなものたちをコントロールすることくらいなのではないか。心身相関についても、関係があるというよりも心と身体は同じものだと考えたほうがしっくりくる。例えば、気分がすぐれないときに体を動かして行動を始めたら気分が変わった、という経験をしたことがあるだろう。
 そうしたことから、「健全な精神は健全な身体に宿る」という言葉が表していることは、心と身体のどちらのいうことを聞くかといえば身体のほうの声を聞いてみなさい、と言っているように受け取れた。

深く考えても真剣には考えない

一生懸命に、真剣にやらないとできないこともあるようだけど、気軽に、なんとなくやってみるほうがすんなりできるような気がする。

考えごとを真剣にしていても、なかなか答えが出てこないってことがあると思う。それは、真剣に考えるってのが空想しているのと変わらないからなんじゃないだろか。

真剣っていうのは、頭で考えることでなくて、行動することなんだろう。真剣に行動するとか。

深く考えるとはいうけど、深く行動するっていうのは、なんか変でしょ。

辞書を見てみると、真剣という言葉の語義には、「物事を一生懸命にするさま」と書かれてた。

真剣に考えるっていうのをやめて、深く考える。

でも、深く考えるのってあんまりしないほうがいいかも。

どうしようかなって、考える。ずっと時間をかけて深く考えてると、無理やりに答えを見つけようとしたり、やめたほうがいいような気がしてくるから。

おそらく、真剣にするのは行動で、真剣に考えちゃいけない。

夏休みの宿題を始めるときだって、真剣に考えてたらいつまでたっても始められないけど、とりあえず毎日少しずつやってれば一通り終わらせられる。たぶん、よくわかんないところも空白もあるだろけどね。

じっくり深く考えるのが苦手で、まずやってみよう!って人がいるけど、もしかしたらそんな人のほうが理にかなってるってことなのかな。

少しずつでもやってればそのうち終わる、「案ずるより産むが易し」みたいなもの。

こんなにできるかわからない、それでもしないといけないなら、まず真剣に行動してやってみる。

最初にできないって言っておいたら、終わらなくても「だからできないって言ったじゃん」って言い訳できるし。

できる分だけを真剣やってたら、案外終わっちゃうかもしれないし。

ただ、やり始めたからって、何がなんでも終わらせようとはしないように。真剣に考えちゃうと、寝る時間を削ってまでやっちゃうから。そんなことしてたら続けられないし、終わるものも終わらなくなっちゃう。

ベストなパフォーマンスが出せる状態で、真剣に取り組むだけ。できなくてもともと。

自分を痛めつけてまでするのは逆効果。そんなことしちゃったら、毎回辛い状況が待ち受けてる。

真剣にやってるとだんだんできるようになるから、はじめの負荷を増やして一気にできるようにしようなんて考えちゃダメ。そんなのは、目標達成重視型の頭が考えそうなこと。

目標なんて忘れて、真剣に行動するだけでいいんだよ。

役立たなくても不要ではない

数学書を眺めていると、よくわからないところがあった。わからないとはいっても日本語で書かれている本なので、何度も読んでいればなんとなくイメージくらいはつかめてくる。まあ、これは日本語で書かれているから、読んでいれば理解できるというのは納得がいく。

それと比べて、外国語の文法書なんかは言葉についての解説が書かれているわけだから、これも読んでいればなんとなく理解はできてくる。ただ、言語ははっきり説明できることだけで成り立ってはいないので、わかるというよりも慣れて覚えるという感じになる。

数学の場合、定義が日本語で書かれているから、日本語が理解できれば言おうとしていることがわかる可能性はある。それは日本語を話している人の話を聞くようなものだから、よくよく聞いていれば大まかなことくらいはわかるだろう。そういう意味では、数学を理解するためには日本語がちゃんとわからないといけない。

外国語の文法書も、日本語で書かれているわけだから日本語がわかる必要はある。数学と違うのは、なんらかの定理が理解できるわけではなく、言葉についての理解が深まるということ。外国語で書かれたものを読み解くのとはまったく違うことだ。文法書を読んである言語を理解することは、外国語について理解するということで外国語に堪能になることではない。

だが、現実には理解することより使えることが重要視されている。仕組みは知らなくても使えればいい、というふうに考えている人が多いのではないか。


クルマの運転でもそうだろう。どうしてクルマが動くのか、そんなことは知らなくていい。でも、ちゃんと動かせるようにはなってくれ。そんな感じだから、マニュアルトランスミッションの車は難しいとかいう話になってしまう。

どんな人でも高度な技術が使えるというのは素晴らしいことだ。ただ、技術を使いこなす能力だけを評価しがちな傾向はどうかと感じる。どんな技術でも、何にもわからない人に使わせるには注意が求められるのではないだろうか。それに、なんらかの技術を使うほうの人たちだけでなく、つくりだす側の人材も必要だろう。

もともと、一人でなんでもできる人なんてそう簡単にはいない。多くの人の、「これならできる」を組み合わせて様々なことに対応していくのが社会というものではないだろうか。

外国語や数学に話を戻してみる。外国語でコミュニケーションがとれて、数学を使った計算に長けていればオーケー、というのはどうだろうか。おそらく、コミュニケーションがとれるだけでも、計算が早いだけでもたいして役には立たない。

でも、そういう人材が要らないわけではなく、必要とされる。誰かの「できる」は、他の人の「できる」と組み合わせて使うものだと思うからだ。


人の個性を大切にしているように見せかけながら、これを選ばないと損をするよ、というメッセージが発せられていることもある。みんなが選びたがる職業を志したり、ベストセラーを買いたくなるのはそういう心境からだろう。しかし、たとえ損をしたとしても、その人にとってちょうどいい状況があるのではないだろうか。

人は一人ひとりみんな少しずつ異なっている。似ている部分が多かったとしても同じ人間ではなく、意見が合わないからといって関係がない人というわけではないはずだ。

これをやっていると人から重宝されるとか、優秀だと思われるということはあるだろう。評価をされないよりされたほうが気分がいいのも確かだが、それでは自分を見失ってしまい、誰かの役に立つだけの人間になってしまう。そうなってしまうと、当然自分の役には立たない。

詰まる所、これが一番大事とか、これをしなければならない、というようなものがあるとは思えないのですよ。

必要とする人に届くように

たまたま独和辞典を眺めていたら、その辞書は制作期間24年でようやく発行されたということを知った。

これは前書きに書かれていた言葉なんだけど、24年間で完成したわけじゃなくて一旦まとめることができたので、一度発行して辞書の内容を世に問うというようなことが書かれてる。長い年月が経っているので、出版社との関係や編纂者たちの年齢なども出版のきっかけとなったのかもしれない。

ちなみにこの辞書は古本屋で安く手に入れたもので、改訂版などではなく、2003年に初版で初めて発行されたもの。辞典をつくるのは大変な仕事だと思われるが、本当に長い時間がかかるんだなと感じた。他の本たちと違ってすべてのページを読まれることはないだろうし、かといって辞書を引く人みんなにとって不要なページはないわけで、なんだかとても尊い仕事だと思った。

しかも、この辞書はいま現在絶版になってしまっていて、中古でしか手に入らない。インターネットの情報を見る限りでは評価が低いわけではないのだけれど、絶版ということは単純に売れなかったのかもしれない。この出版社には他の独和辞典がないので、残念なことにこれまでの資産が生かされることもないのだろう。

改訂して復活させようにも、2006年の正書法に対応したものではないから手間がかかるということなのだろうか。でも、他の出版社からは2000年発行の独和辞典がまだ現役で売られてたりもするわけだから、出版側としては改訂するほどのメリットがないと考えているんだろう。

そういえば、その出版社が昨年発売したドイツ文法の本は装丁の変更はしたけど中身は同じだということだった。約20年ぶりに新装版となった本の内容が同じというのはそれだけ完成された本なのかもしれないが、出版社の考える需要と供給の関係が伺えるような気がする。

いま出版されている辞書はデジタルのデータだけでできているだろうから、一度完成させてしまえば改訂時の手間は昔に比べて少なく済むだろう。データフォーマットなどの問題で過去の資産が生かせないのだとすると、ただただもったいないの一言である。

今回挙げた絶版辞書は、文学研究者が携わったことが特徴ということであり、巻末にはドイツの歌や聖人についての記載がされている。見出し語75000語の学習辞典でサイズに装丁、価格もごく普通。もしかしたら、こんな部分が他の辞典に対する競争力を削いでしまったのかもしれない。

見た目が普通の学習辞典だから、学習者が買っていってしまったのだろう。しかし、内容としては文法に詳しいわけでもなく、文字の色や大きさにそれほど工夫があるようにも見えない。どちらかというと通好みだと感じる。辞書を届けるべき相手にちゃんと届かなかったのではないだろうか。

もし、再びこの辞典が発売されることがあるとしたら、そのときにはしかるべき人の目に止まるような装丁と価格設定をしてほしいものだ(「◯◯◯独和中辞典」のように名前を変えてしまうのもいいかもしれない)。