書いて浮かべるブログ

のんびり好きなおいさんのアタマノナカ

まだ使えてる初代AppleWatch

AutoSleepアプリを使って睡眠中のログを取るようになってから、AppleWatchの充電を入浴前にするようなサイクルになってるんだけど、数日前に半日ほどで突然バッテリーが赤いところまで減ってしまって驚いた。いつもは1日持つのにと思いながらも、いいかげんそろそろ買い替えないといけないかな、なんて考えたり。
ずいぶん再起動してないことに気付き、試してみる。どうやら当たりだったようで、その後の駆動時間は元に戻ってたけれど、AppleWatchのバッテリーがおかしくなってきたのかもしれないので、Appleサポートに問い合わせてみることに。

オペレータの方の指示に従ってiOS診断をする。以前、塗装の剥がれやマイクの動作について相談したときには案内されなかったけど、Watchでも診断できるようになったんだな。診断自体は1分もかからずに終了。診断結果をパーセンテージでみることはできないようで、バッテリー容量はだいたい90%くらい。とても良い状態らしい。ハードウェアの他の部分にも異常はなく(マイクは診断対象外)、まだまだ使えるとのこと。

確かに、久しぶりに再起動をした後はいつもと同じように丸一日の利用が可能になってたから、ハードに問題はなかったんだろう。それにしても、このAppleWacthは2015年の発売日近くに買ったから、もう丸4年使ってる。時計なんだからこれくらいの年数使えるのは普通だろうけど、ガジェットとしてはホントに優秀だと思う。WatchOSのバージョンアップに伴って動作はもっさりとしてしまったくらいで、時計・通知・アクティビティの記録という基本機能を使う分には問題ない。着け心地が未知数だったシリコンバンドについても、多少の黄ばみが見られる程度でバンドを止める部分の金属が外れる様子もないし、金属を差し込む穴にも亀裂などはなくしっかりしている。

どうしても技術の進歩にしたがってWatch本体は年々バージョンアップをしないといけないんだろうけど、バンドにはその必要がないからこれくらいの耐久性を持ってるのかな。実際、現行のシリーズ4でも同じバンドが採用されてるし。

今使ってるのが壊れたからってすぐに現行モデルが購入できるわけじゃないけど、まだ使えそうとなるとちょっと微妙な心境になってしまった。ちなみに、今でも初代AppleWathはバッテリー交換や画面割れを含むすべての修理ができるようだ。ただいくら今使ってるWatchに愛着があったとしても、修理費用を考えたら新しいモデルを買っちゃうよねって気はするんだけども。

ひとまず終わりまで

机の前に座って作業をしていたときのこと。

ずっと続けていると、行き詰まってきた。煮詰まったとでもいったらよいのだろうか。休憩を挟んだりしながら続けてみる。やはりうまく進まない。時間ばかりが過ぎていく。

ダメだこりゃ。これ以上は時間の無駄だと感じて、違うことを始めてみる。その間も頭の中ではさっきの作業のことが気がかりではある。気分転換して完全に忘れられるといいのだが、私の頭はそう簡単に忘れてくれそうにない。こんなことより単語の一つでも暗記してくれたらいいのに。

30分〜1時間ほどして再び机に向かうことにする。今度は家族が掃除機をかけ始めたりして騒がしい。部屋のドアを閉め、音楽を流して防衛開始。不思議と今度はスムーズに進む。一体何が違うんだろう?

さっきと変わったことといえば、「なんとかちゃんと終わらせなきゃ」と思ってたのを「もう適当でいいや」と思ったことと、静かだった部屋に掃除機の音と音楽を鳴らしたこと。この二つが効いているのだろうか。長めの休憩で頭の疲れが取れたのかもしれないが。

適当でいいとはいわないが、完璧にしようとすると終わらせるのが難しくなるんだろう。終わるためのハードルが高くなるわけだから、そりゃそうだ。一通り終わらせよう、というくらいでちょうどいい。一旦終わって時間があるなら、もう一回見直せばいい。

趣味でも仕事でもそうだろう。向かっている先が正しいかもわからないのに、少しつまづいたところで止まってじっとしていたら最後まで行き着かない。もしかしたら、つまずいた場所には行かなくてよかったのかもしれないのだから。途中に尋ねる相手がいるならともかく、そうでないならひとまず終わりまで行ってみる。それなら間違ってたとしても、もう一度最初から始める時間が残されている。

たったひとつを成功させるより、失敗するかもしれないものを何度も繰り返すほうがやりやすい。失敗作はたくさんできてしまうけれど、ひとつも完成しないのでは話にならない。

いろんなことに手を出すけど続かない、そんな人は失敗を怖がっているんじゃないだろうか。どこかで効いた言葉だが、やめない限りは挫折はない。のんびりと一生続けてもいいんだから、簡単に挫折なんてしなくていい。今はうまく行かないことでも、興味があるならしつこく続けていったらいい。周りにどう思われようが関係ない。

他の人に対してもだが、自分の失敗にも寛大になるほうがいいなと感じた。

広めたい人

LINE Payのキャンペーンについて聞いた話より。

知ってる人がたくさんの人に無料で1000円を送金してるらしい。もらった人が1000円分もらえるんだけど、何人からもらっても、もらえるのは1000円だけ。だから、相互に一回送り合えば終わりで十分だと思うんだけど、たくさんの人に送りたくなるのはどういう心境なんだろう?

たぶん、キャンペーンを知らない人に知ってほしい、お得感のお裾分けをしたいんだろな。
だとすると、キャンペーン開催側としてはいいお客さん。放っておいても勝手にユーザーを増やしてくれる。2人のユーザーが相互に送り合うだけでも銀行口座登録や本人確認をする人が増えるから、それだけでも十分。さらにうまくいけば、お裾分けをしたがる人がねずみ講式に利用者を増やしてくれるかもしれない、という。

小さい字で書かれている説明を見てみると、10人に送ってツイートすると追加キャンペーンとして100万円分にチャレンジというのがあるようだ。じゃあ、そのためにたくさん送ってるのかな? とも思えるけど、もっと多くに送ってる気がするし。「広めたい人」っているのね、と感じた。おそらく、そういう人が広告業界などでは必要とされるんだろう。

でも、このことをあの人に伝えたいっていう気持ちは、さすがに私にもある。幼い頃だけでなくて、今でも。広めたい人はそういう人なのかもしれない。それに、誰かの役に立ちたいという気持ちがあるのかも。

自分だけが知っているという状態も、まあまあ楽しい事態ではある。ただ、そのままではもっと面白い展開はありそうにない。知ってることを他の誰かに伝えると、人によって違った反応をする。特に自分と違った感性を持つ人に伝えれば。その結果、自分の思考が刺激を受けることが考えられる。こんなふうに思う人もいるのか、っていう感じに。広めたい人は、そんなような外部からの刺激が欲しい状態、外向的になっている時期の人のことなのかもしれないな。人の頭の中は一つに定まったりしてないから、内向的に頭の中だけで考えていても案外いろんな刺激を得られるものだとは思うのだけれど。

私の中にも、「広めたい人」は存在する。しかし、LINE Payのキャンペーンに対しては反応がなかった。それは送金をしないといけないような友だちがいない、ということも大きな原因であると思う。このような機会を利用して、みなさんにもキャッシュレスの便利さを味わってみて欲しい。

散歩道に子猫

朝に散歩をしていると、道路色の子猫がミャーと2匹。

親はエサを探しているのか、シャーっていう気配はない。

近寄るも驚く様子はなく、誰かに連れて行かれそな感じ。

子どもの頃より子犬子猫を連れ帰るような子でなかったし、今もそう。気には留めずにその場を去る。

幼い子でも連れようものなら、厄介ごとになったのだろうか。

夕方再び歩いてみると、あたりまえのように子猫は居ない。

親猫が連れ帰ったか、どこぞの誰かに迎えられたか。

相手が鳥でなければいいが。

敏感なのもほどほどに

ときおり近くの建物の給水ポンプ音がする。いつ音がするのかは決まってないけど、一定時間経つと収まるのでそれほど気にはならない。もしそれが、ずーっと鳴っているような音だったらどうだろう。

仕方なく野宿をするときに自販機のそばで眠るくらいならどうってことはないけど、毎日冷蔵庫の横で寝るのは勘弁してほしい。我ながら結構神経質なんだなと思う。人の耳は注意してる音がよく聞こえるらしく、それぞれの音量通り均等に聞こえるわけじゃない。てことは、いつもある音は聞こえてても気にならなくなるってことか。気にしているから余計に気になるってだけなんだろうけれど。

そんなことを考えていたら、昔使ってたイコライザーのことを思い出した。アナログのレバーが付いてるやつで、いじれる周波数も決まってるもの。いろいろ触って遊んでみたけど、部屋自体の音響特性がフラットなわけじゃないし、「これだ!」と思った補正値が見つかったとしても、時間が経って耳が慣れてしまうとどれも同じように感じ始めてしまう。確か、当時遊びに行ってたレコード屋さんの在庫か何かで、知り合いの店員さんから安く譲ってもらったんだったかな。でも、測定器じゃなく耳で調整してたことと、耳が慣れてしまうことでだんだん使わなくなっていった。いまだに音楽を聴くときは音質調整をしないのは、そんなことが関係してるのかもしれないな。

先月くらいの早朝に、キレイな鳥のさえずりで目が覚めたとき、あたりがシーンと静まりかえっていて、キーンって耳鳴りしそうな感じのときがあった。無音なわけではないんだろうけど、普段聞こえる生活音がしない時間帯だからか印象に残る静けさだった。

騒がしいところに良すぎるのも体に良くないが、静かな環境に慣れすぎるのもよくないことなのだろう。たまにいつもより静かな状態を作ることができれば、それで十分なのかもしれない。

そういえば、前に使っていた単品コンポのダブルカセットデッキは、電源プラグを差しただけでかすかにブーンというトランスの音が聞こえてたから、寝る前にはコンセントから外していた。いまでもその手の唸り音のようなものは苦手で、なるべく水槽のポンプ音みたいに年中つけておくもののそばには近づかないようにしている。

誰にでもこれは嫌いってものがあると思う。しかし、嫌いだからといって避けてばかりいると、いつまでたっても気になってしまうばかり。結局のところ、気にならないようにしていくためには、あるのが当然の環境に居続けるのがいいのだろう。逆療法とはなってしまうが、嫌なものをチマチマと取り除いていくよりは手っ取り早い解決法なのではないだろうか。

言葉は口にするのが前提

あらためていうまでもないんだろうけど、言葉は音から生まれたんだろう。
そして、声を発した本人が居なくても残せるように文字が生まれた。

文字を残していない動物でも言葉は操っているかもしれない。
私だって、犬が怒っているときの唸り声や構ってほしいときに出す声ぐらいは理解しているし。

言葉の数が増えてきて、覚えておくのが大変になったり、何度も同じことを口に出すのが面倒になったから、どうにかして残しておこうってことで文字が生まれたのかな。もしそうだとすると、犬なんかの動物はまだそこまでめんどくさくないのかも。

ともかく、文字は音から生まれたらしい。生まれて間もないときから言葉を習得していくにしても、まずは音を聞くことから始まっていく。声を出そうにもアー、オー、ウーくらいの音にしかならないだろう。人真似を繰り返しながら音が声になっていき、話ができるようになっていく。読み書きを覚えるのはそのあとだ。

大人になってしまった人の場合、音から入っていくのは難しいといわれていて、まず文法を学ぶのがよいとされているらしい。話すよりも読むことから始めるってわけ。どうやら、幼い頃とは脳の働きが違うからとかいう話。
脳内が変わってるってのはあるんだろうけど、大人になるまでに聞いて学ぶよりも読んで覚えるほうを重視してるってのが関係あるんじゃないかとも思う。言葉を聞いて学ぶ力を使ってないうちに機能が衰えてしまったとか。

別に、目で見て覚えて読むほうを大事にするのが悪いっていうわけじゃないけど、言葉が口にしたり聞いたりすることから生まれたってことは知っといたほうがいい。読み書きだけを考えていたら理解できない、一見不思議に見えるきまりがあったりするものだから。読んだり書いたりするときには問題ない規則が、口にすると話しづらいとか、聞き取りにくいなどの理由で例外として不規則になっていたりすることがあるので。

日本語の漢字でも、同じ漢字なのに前後関係によっては濁点がついたり付かなかったりする。「学習机」の読みが「がくしゅうづくえ」になっちゃったり。こんなのも口に出して読むから起きることで、それが自然になってる人は黙読してるときでも濁点を付けて読んでるでしょ?
人が言葉を口にする限りはこんなことはなくならないと思う。だから、なんでこうなるんだろ? っていうきまりがあったときには、発音規則を読み込むのもいいけど口に出して読み上げてみるといいんじゃないかな。そうしてれば、音が濁ったりするわけが実感できると思う。

声に出して話すことがなくなっていったら、例外のない文法ができたりして覚えやすくなるかもしれないけど、そんなことになったら読むことはできるけど話そうとすると話しづらい、声に出して読むことが難しい言葉になっちゃうかもしれない。文章の表す意味はどっちも同じなんだけどね。

認めるということ

才能を認められた人というのは多くの場合、努力してきたことや苦労したことが高く評価されているのだろう。

世間に認められた人たちは、どうやら若いころからすでにその才能が完成しているようだ。しかし、たとえ早いうちからその分野の人に認められたとしても、一般の人たちに認められるまでには時間が掛かる。一般の人たちというのは、私のように流行りものに飛びつくような人のことで、物事の本質を見抜く能力は持ち合わせていない。だからといって、そのような人たちのことをバカにしてはならない。世の中には圧倒的に一般の人たちが多く、その人たちに認められなければ世間に認められたとはいえないのだから。

写真のような絵を描いた人をすごいと思っても、トレースして描いたとなると「な〜んだ」と感じてしまったり。写真を加工して絵のようにすることもできるのに、手で描いたとなると尊敬したり。
ソフトウェアによる加工では表現できないことがあるし、見比べてみると全然違うのだろうけど、それを見る目のある人がそれほどたくさんいるとは思えない。あの人は有名人に見出された人だとか、過去に大変な苦労をしてきた、などという周辺知識をもとに判断するくらいしかできない一般人のほうがはるかに多いことだろう。

そして、はじめから恵まれた環境にある人はなぜだかあまり評価しない。すごいのが当然だと思ってしまうから、そうでないときの風当たりがものすごい。
つまり、一般の人はその人の作った内容を見ているのではなくて、信用に値する人がその人を賛賞したときや、相手を認めたくなるくらいに頑張っていると感じたときに、突然その人のことを持ち上げる。同時にそれまで作り上げてきたものにも一気にスポットライトが照らされていく。

作品自体には単体でも価値があるのだろうけれど、誰それの作ったものという前書きが付くことで本当に認められるというわけだ。
だから、世間に認められるためにはそれなりの下積み期間が求められる。急に出てきて成功すると、一発屋扱いされてしまったり、運がよかったとかいうふうに扱われてしまう。いくら才能がある人であっても、多くの人々に認めてもらうためにはなんらかの仕掛けを用意しておく必要があるということなのだろう。


それにしても、他人に対しての評価は厳しいのに、自分のこととなると聞き流すだけで覚えるとか、いくら食べても太らないとか、そんな甘い言葉に簡単に心を許してしまうのはいかがなものだろう? と思うのだが。

YouTuber上等

わが子には苦労なく穏やかでいてほしい。そう思うのは親の常なんだろな。

不自由のないように育てていくとどうなるかって想像のつくことだと思うけど、ついつい先回りして危険を回避してしまったり、楽ができるように自分の持っているものを与えてしまったりする。

当然子どもは危険感知能力が身につかないし、ほしいものを手に入れるには自分を高めていく必要があるということが理解できない。RPGに例えると、装備が最強でお金はMAX、でもレベルは1の状態で始まるわけだから、うまくいけばそのままゲームをクリアできるかもしれないけど、ストーリー後半で装備とお金を盗まれたりしたらレベル1のままでは近くの敵と戦えなくて、もう始めからやり直すしかないような状態。それって結構ヤバいんでない?

経験がすべて遺伝子に刻まれるように人間が進化すれば、そういう親の育てかたも問題ないってなるんだろうけど。そうではない今の状況では経験値は子ども自身にためていってもらうしかないもんね。親は子どもが経験を積めることには手を出さない。それだけでもできればまだマシなんだろけども。

子どものためを思うなら、過干渉は避けること。これって動物たちもごく普通にやってることなのに。遺伝子には書かれていても、人間だからできないのかもしれないな。変に先のことを考えたりできるから。

こんなこと思ったのは、相変わらず子どもになってほしい職業が公務員だって記事を見たから。YouTuberがそれなりに人気だけどおすすめしないようなことが書かれてた。別にいいんでないって気もするけど? 好きにしてする苦労は苦労じゃないし、安定のためにしたくもないことをさせたりしたら、恨まれるのは親だよ? 子どもが幸せになるなら恨まれてもいいけど、幸せになれるかなんてわからないでしょ? 罵られたりすることもあるだろうし、もしかしたらそれがきっかけで殺されてしまうかもしれないじゃん。

残念ながら、どうやら人ってものは平坦な人生を幸せとは感じないようにできているらしい。谷があるから山がある。悲しいことがあるから嬉しいことを感じて、苦労して掴む成功に価値を感じる。相対的なものしか理解できない生き物みたい。子どもにいくら幸せと思われる環境を準備しても、それが平穏で当たり前になっていれば幸福とは思えない。せっかく親が用意したものもたいして意味がないということだ。意図して貧乏になるわけじゃないけど、貧乏からお金に不自由ない生活を勝ち取った人の方が幸福を感じるんじゃないかな。

ま、とにかく、YouTuberでもなんでもいいけど、あの職業についたらカッコ良く見られそうとかいう人の目を気にした希望じゃなくて、ただただやりたいからっていう理由からつきたい職業がある子なら、応援してあげればいいんじゃない? って思ったよ。だって、その子が老後まで無事でいるかなんてわからないし、ちゃんと成人するかどうかですらわからないんだからさ。

常識について2

前回の記事で「常識を忘れてもいい」と書きましたが、「そうは言ってもねえ…」という言葉が頭に浮かんだかたもいることでしょう。

「…」の後に続く言葉とは具体的にどのようなものでしょう?
「常識に従っていないと良くないことが起こる」のような言葉でしょうか。

あなたがそう感じるのであれば、おそらく良くないことが起こる可能性が高いのでしょう。

「何それ? わけのわからないことをいう人だな」そう思いましたか?
確かに、今のあなたの思考回路では常識を忘れることはできません。だからこそ、常識に従うしかないと考えているのです。

常識というものは、ある集団の中で物事を円滑に進めるためにあると言いました。つまり、集団に属している状態の人は少なからずその集まりの常識に従っているということです。
その集まりの常識に従っている状態の人が、集まりの中に居ながら常識を忘れることはできない。そうですよね? 常識に従っていないとすれば、もうその集団には居ないわけですから。

なので、常識を忘れるためにはどうすればいいかというと、いま属している集団を抜け出せばいいということになります。集団の外に居れば常識に従った行動をする必要がないからです。
しかし、多くの場合みなさんはどこかの集団への所属をメインにしていて、その常識に左右されています。仕事を終えて家に帰ったときに家庭での役割に切り替えることはできても、頭の中を仕事モードから家庭モードへとすっかり切り替えてしまうことはなかなか難しいものです。

どうすればメイン集団から抜け出すことができるのでしょうか。
一つ言えるのは意識して別の集団を選択しても、結局は同じような集まりを選んでしまう可能性が高いということ。参考に例をあげると、心理的にしたくないことだとは思いますが、できれば正反対に位置する嫌な集団にメインで属してみるのが良いでしょう。そうすることで、これまでメインとしてきた常識とは違ったものを知ることができるようになります。別の集団に属するのが煩わしいなら、別の視野を与えてくれるものに接するだけでも効果があるのではないでしょうか。
でも、そのままだとまた別の常識に囚われてしまうでしょうから、いつまでたっても問題は解決しませんよね?

ですから、ただ一つの常識を持つのをやめるようにします。
点のように一つだった常識から、正反対の常識を取り入れることで線のように、次にそれらと対称の線を加えるようにして四角形へ。そういったことを繰り返してだんだんと円に近づいていくように。多くの違った集団に触れることでそれぞれの常識をまた違った視点から眺めることができるようになっていきます。
ひとつの視野のままでも経験値を積み上げることはできますが、さまざまな視野を持つことができればより多くの経験値を一度に手にすることができるでしょう。

そうすることで、一つの常識に偏ることがなくなっていきます。あなたは本当に常識を外れるのが悪いと考えているのでしょうか。もしかしたら、常識を外れるのは悪いことだ。そう決めつけていただけかもしれないのです。
同じ建物を見るにしても、見る場所が変わると見えかたも変わります。みんなが見ている場所からの眺めが唯一の正解とは限らないのです。

別の場所からいま居る場所を眺めることで、これまでの常識を忘れられます。さらに、複数の視点を常に切り替えていればたった一つの常識にどっぷり浸かってしまうことがなくなります。
肝心なのは、一つのところに留まるのは好ましくないということなのです。

常識について

常識ある大人でいることは大切なことでしょう。

しかし、常識は知っているだけでいいのではないでしょうか。

誰かを従わせるために口を酸っぱくして言う必要もないでしょうし、常識を逸脱しないように心の中で呪文のように唱える必要もありません。
自分を洗脳するには口に出して言うのがいいという話を聞いたことがありますから、よほど心に刻みたいこと以外を口にするのはやめたほうがいいかもしれませんね。

常識というものは、物事を円滑に進めるためにあるのでしょう?

常識外れな奴らばかりが集まってしまうと、とにかくそいつらとの調整に多くの時間を取られてしまいます。その結果、行動さえすれば良い物事でさえ、まったく前に進まなくなってしまう。そのようなことにならないように定められた暗黙の了解、それが常識なのだと思います。

でもそれは、ただのルール。どんなときでも必ず守らないといけないようなものではありません。
なのに、いつでもどこでもどんなときにでも守らないといけないもののように感じている人が多いような気がしてなりません。

学校の先生から出される宿題をするということも、仕事先の上司から課せられるノルマをこなすというのも常識ではあるでしょう。しかしそれは、何があっても絶対にやり遂げないといけないというほどのものではないのです。
確かにそれなりの努力はしなければなりません。みなさん全員が簡単に常識を無視した行動を始めると、世の中がうまく回らなくなってしまい、おかしなことになってしまうからです。だから、普段は常識に従った行動をすることを求められてしまいます。

周りの人たちとしては世の中を機能させるためという建前のもと、本当のところは自分だけが常識を守るのは嫌なので、嫌がらせのように他の人にも強制してくるというだけのことなのです。
こんなことは今さら言わなくても、ご存知のことだと思いますけれども。

大切なことは、もうどうしようもないと感じたときにひとまず「常識を忘れてもいい」ということです。

なんとかして常識の範囲内に収まっておこうとしたために自分自身を押さえつけ続けてしまい、最終的には非常識なことにつながるような出来事が多くなっているように思われます。

追い詰められた状態で常識内の行動のことを考えてもまともな結論は得られません。そんなときには一旦、常識のことを横に置いてみてください。視界から外すと表現してもいいでしょう。
そのようにして、落ち着いてからもう一度考えてみるのです。誰かの決めた常識なんて、所詮ちっぽけなものでしかないのです。常識に合わせようなんてことは思わずに、冷静に自分の頭で考えてみてください。
きっと最適な考えが思い浮かぶことでしょう。

やりたいもいろいろ

やりたいことの範囲って色々だな。

絵を描きたいなら、紙に書くでもタブレットに描くでもおんなじように感じるのに。
紙には描きたいけど、鉛筆がいいとか。水彩が好きとか。

音楽を演奏したいにしても、アコースティックギターは好きだけど、似たような音を操れるシンセサイザーは興味ないとか。

それって、絵を描きたいとか音楽の演奏をしたいっていうよりも、鉛筆やアコギなどの道具を使いたいのでは? と感じてしまう。まあ、そういった道具を使いつつやりたいってことなんだろうけどさ。

私も含めて、本人は気づいていないことが多そうだけど、やりたいことの根っこがわかれば見当外れの方向へ進むことは少ないんじゃないかなあ。

たとえば何か文字を書くときに、紙の手帳を使うとアイディアが出るって話があるけど、どっちかっていうと私はデジタルのほうがいい。一つの道具で複数のことをこなせるものになぜだか惹かれてしまう。
ということは、私の場合は「コンピュータみたいな電子機器を使ってやることなら何でもいい」というのが根っこにあるんだろう、とか。

こんな感じに根っこが見えれば、少なくても「人と話すのが好き → 接客業」とか、「コンピュータが好き → IT産業」みたいなことにはならないと思う。
どこの業界でも人と話すことはあるだろうし、いまどきコンピュータを使わないなんてありえないから。

絵を描くのが好きだったら画家や漫画家になれるってわけでもないし、演奏が得意だからミュージシャンになれるわけでもないでしょ?
でも、そんなふうに考えてしまいがちなのかもしれないね。

音楽の演奏をするときに、楽譜を見ながらとか耳コピして演奏するのは楽しいでしょ? それが絵を描くことになると、なんか違う…って感じるらしい。
写真をタブレットに表示して、ペンでなぞったりアレンジしたり。色が塗れたりして個性も出せる。なのに、そんな趣味って演奏に比べるとあんまり聞かない。どうしてだろ?

音楽はともかく、絵については一から描けないとっていう偏見があるのかな。

ほとんどの人がそうだと思うけど、お仕事だってみんなそう。文章を書くときでも誰かのものを真似して書いたようなものばかり。建物や機械の設計をするといっても、一からじゃなくて以前の計画を参考にしたり、いまある図面を修正するわけで。そこまでの才能は求められない。

そんなわけで、今やってることの中にもやりたいことは含まれているんじゃない?
これからやるといいことは、できるだけそこの部分が大きくなるような工夫をしていくってことなんだと思うよ。

こっそりよくみてる

あの部屋に行ったら遊んでくれるかも。

丸くなってグッスリ寝てるように見えたのに、隣の部屋へ向かおうとするとサッと頭を上げてこっちを見ていた。

「そろそろ遊びますか?」とでも言いそうな目をしてる。

まだすることがあるから遊ばないよ。一息つくまでもう少し寝てなさい。

フン! たまに溜息をついてるようなときもあるし、思わず本気で寝てしまったようで隣の部屋へ行っても気がつかないときもある。

「遊ぶんですね!」タイミングがあったときには一緒に隣の部屋に行く。

それにしても、自由に遊べるようにおもちゃを置いてるのに、なぜだか勝手に遊んだりはしない。

遊ぶときには、いつも「ボール投げて!」っていう素振りで待ち構えてる。

変なの。こんなものなのかなあ。一人で遊べる子もいるはずだと思うんだけど。

本を借りてきた

嫁さんが見てみたいというので、感情類語辞典を借りてきた。

少し前には性格類語辞典も借りてきたのだけど、ありがちな内容とかいう感想で不評だった。私は詳しくみていないが、確かによくあるタイプの解説で改めて読むまでもないように感じた。

そのときでさえ数十分は読んでいたのだけれど、今回の感情類語辞典は私の元に戻ってくるのがさらに早かった。おそらく数分しか見ていないと思う。

彼女の口から出てきたのは、「これって漫画のキャラ設定に使う本なの?」「こんなことも考えないで描いてるの?」「私のほうがこういうの得意だよ」という批判的な言葉だった。つまり、もう読む必要がないということだ。せっかく借りてきたのにと思ったが、多分彼女はこの程度の内容なら本を参照するまでもなく人物設定ができるのだろう。そういえば昔、同人誌のようなものに関わっていたという話を聞いたことがあるような気がする、と思い出した。

キャラクターやストーリーを作るときには、私の知らない定番のようなものがあるのだろうけど、そんなことを言うんだったら何かの物語を構想して聞かせてほしいなあ。あんなことを口にするくらいだから、案外いいものができたりして。



感情類語辞典を借りるときに、地域の図書館にリクエストしていた本が入ってきたというので一緒に借りてきた。

結構前にリクエストした本だったからもう入らないのかと思ってたんだけど、どこかの図書館から借りてくることができたらしい。蔵書印を見てみるとそこの図書館のものになっている。日付を確認すると今月。ということは新規に購入したということのようだ。

図書館が蔵書を増やすときのプロセスはよくわからないけど、もしかしたら中古の本なのかもしれない。奥付けによると11年前に発行、2008年発行の初版だ。カバーがラミネートされているのでよく見えないけど、ハードカバーの変色具合に天と地、小口がしっかり研磨されてる様子を見る限りどこかの書店か倉庫に眠っていた本なんだと思う。中古の本でないならば(中古だろうがなんだろうが、問題はありません)。

これまでにもいろんな本をリクエストしているのだけれど、その多くは新刊だったり県内の図書館にある本だったので比較的早く借りることができていた。今回の本はリクエストから2ヶ月以上経過していたから、そろそろ「取り寄せできませんでした」と言われる頃だと思っていただけに、本当にありがたい。

質が良いのも考えもの

メガネのコーティングが剥がれてきた。

どうでもいいことだが、私の頭は禿げていない。父方の祖父がツルツルだったからそろそろかと思っているのだが、まだ大丈夫なようだ。個人的にヘアースタイルなんてどうでもいいし、髪を洗うのは面倒。しかも学生の頃から結構な白髪混じりの剛毛&天然パーマだ。ヘルメットを被ったときに目の前を神がチラチラするのも嫌なので、なくなるなら徹底的に無くなって欲しいものである。坊主頭にするのもいいが、手入れをしたいとは思わないので、やはり生えないほうが助かる。そんなことを思っているから禿げないのかもしれないが。欲しい人からは無くなり、欲しがらない人には与えられる。人生うまくはいかないものだ。


それはさておき、以前から気にはなっていたのだけど、もう古いしレンズの交換をするしかないからどうでもいいや、と考えていた。このメガネは学生のときから掛けているから、もう20年以上。いくら数本のメガネを使い分けているとはいえ長く使いすぎ。

コーティングが剥がれた部分をよく見てみると、剥がれた部分は光を反射している。今のようにブルーライトをカットするレンズなんてなかったから、反射防止とレンズを保護するためのコーティングなのだろう。爪で擦ってみるとコーティングが少し剥げた。中途半端に剥げていると視界にバラツキがあって気持ち悪いので、剥げるところは剥がしてみるとずいぶん見やすくなった。これならまだまだ使えるぞ。近頃の安いメガネについてくるレンズは何年かすると知らないうちにコーティングのムラができてしまうが、このレンズは違った。さすがは◯コ◯といったところか。しかし、メガネにファッション的な意味も求められる今の時代にこの性能はオーバースペックなのかもしれない。そういえば、前に使っていた同社のハードコンタクトレンズも普通のメンテナンスだけで10年使えたのだから素晴らしかったな。

とりあえず、コーティングの剥がれたメガネはバイクに乗るときと室内で使うとき用に残しておこう。今どきのメガネは華奢なものが多く、メガネを掛けたままヘルメットを被るのをためらってしまうから。


大抵の道具は以前に比べて寿命が短くなっている。買い替えサイクルが早くなっているからだ。それはそれで問題ない。あまりにも長く使える道具は人にとっても迷惑なときもある。ずっと同じものを使い続けるということは持ち主が変わる機会をなくしてしまうだろうから。ただ、そのまま作れば長寿命の製品を作ることができるものを、製造工程を変更してまで短寿命にすることはない。

このメガネもいい加減役目を終えたはず。レンズだけを変えて使い続けるなんて往生際の悪いことをせずに、気軽に使える安いレンズ付きメガネでも買いに行こうかな。

決めつけとか


決めつけ、について書こうと思っていた。



ここの周辺では道路の舗装工事をしていて、騒音がかなりしている。普段静かなこともあって、あんまり音に対する耐性はない。いつもうるさければ気にならないのかもしれないが、これでは何かをしようという気持ちさえなくなってしまう。



人や物のことを客観的に見ていき、自分なりに性質をまとめ上げる。そうしたものが頭の中で一段落したら、そこから先はそれを元にして人や物を判断する。だから、頭の中にある性質と違っているものを感じると、「あなたらしくない」とかいうことを言い出したりする。

でも、それはこちら側から見て勝手に判断した性質であって、そのものの自体を表しているわけではない。私から見るとそう見えても、他の人から見るとまた違ったように見えたりするわけだろうから。

それでも、一旦頭の中に作られた物の影響は強く、頭はなかなかその認識を改めようとしてくれない。一度まとめ上げた考えを修正するのは嫌なのだ。決断力が高いとか、決断が早いという人のことを優れているとすることが多いような気がするが、そういった人ほど決めつけてしまいやすいのではないだろうか。

物事を一つの言葉で言い表すのは気持ちがいいし、スッキリする。しかし、そうしてしまうと今度はその言葉にとらわれてしまう。他の目線を持つのが難しくなるのだ。あまり一つのものとして認識しないほうがいい。あの人はこんな人、そんなふうに一言で表せるほど人は簡単なものではない。



周りを見渡してみると、工事は順調に進んでいるようで、今日中には完了しそうだ。しかし、音については少々耐えられない。ラジオの音が聞こえなくて、音量を上げてもやはり聞こえない。これでは気晴らしにもならないではないか…。

工事に携わっているかたは重機の近くで作業をしているわけで、もっと莫大な音量を身近に感じているはず。それを考えるとたいしたことはないのだろうが、作業者のかたは大丈夫なのだろうか。慣れというものがあるのだろうか。



占いが好きな人がたまにいる。そういった人は自意識過剰というか、人に言われたことを自分に当てはめてしまいやすいのだろう。これまで誰かに言われたことのある性質、たとえば「神経質」とか「大雑把」のような性格の一部分を表す言葉に敏感なのである。人はいろんな性質を持っていて、神経質なだけの人はまずいない。なのに、そういうたった一つの性質に偏っていると思い込んでしまっている場合がある。そうすると、雑誌などで占いを見ていてもそこだけが目についてしまうので、占いが当たっているように感じるのである。

なにも、占いを見るのが良くないといっているわけではない。自分の中には、神経質なところも大雑把なところも同居しているし、神経質や大雑把に感じていたところが状況によっては丁寧や大胆に置き換えられるということを信じていないのだろう。


ものには見方がさまざまあって、絶対というものはありえない。そのようにしか見えないことでも他の人が見れば別の解釈が考えられるもの。周りのことだけでなく、自分のことについても決めつけないほうがいい。自分で自分のことを決めつけたせいで、落ち込んでしまいそうなときには特に。



騒音についても、案外なんとかなるものなのかもしれない。やったことのないことを外から判断はできないのだろうから。