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のんびりしたい私のアタマノナカ

単語帳の例文たち

1冊300ページの小説があるとして、1ページに15行あるとする。そうすると300ページで4500行になるね。1行に単語が1つだけ含まれた例文がある場合、4500語収録の単語帳の例文を読めばだいたい小説一冊分くらいの分量になるわけだ。

1冊に約1500語くらい載っているとして、単語帳3冊の例文を読むと1冊分に相当する計算になる。意外と思ったより多い。格言集なんかに比べると文章の数は多いんじゃないかな。

意図的に単語を並び替えでもしない限り、明確なストーリーはない。かなり頑張って編集すれば一応流れのあるお話が作れたりするんじゃないか、なんて思ったりもする。もしくは、もともと物語が用意されていて、それを単語の重要度順なんかに並び替えてたりするんじゃないか! なんていかにもありえなさそうなことを想像したりもする。そうした文章の組み合わせ方にルールを持たせてるのがAI小説だったりするんだろうけども。

それにしても結構な数の文章が載ってる。でもこの例文を活用してる人は多いのかな? 単語と意味が並んでるだけでも覚えられるし。例文なんて読むのが好きでなけりゃ見ない気もする。もちろん、例文を用意しているのは単語を覚えるためだから読むが吉。例文に触れることで、文章の中で出会った単語を覚えていく。そんな理想的な流れにできるから。ちょっと違うかもしれないけど。あながち間違いでもないでしょ。

いっそのこと例文だけ読んでいく、文章を読むのに慣れるまで。単語帳はそんなふうに使うといいかもしれない。できたら、特につながりのない例文たちになんらかの関連性を感じて、全体としてイメージができるような、そんな一冊の本として感じられるような読み方をすると楽しめるんじゃないか。なんて、そんな使い方してる人いないよな。普通は、覚えてしまえばもう要なしだろうからね。

レベル上げが嫌いでした

ずっと嫌いだったRPGのレベル上げ。なぜか最近、それほど嫌でなくなってる。少し古いRPGをプレイしていて、フィールドをウロウロしながら戦闘を繰り返してるときに気がついた。今どきのRPGと違って、ゲームバランスがストーリー重視になっていないから適度なレベル上げは必要。そのウロウロしながらレベル上げってのが昔は大嫌いだった。ストーリーを進めたい、先を知りたいって気持ちが強かったんだろね。

それが今では、作業的に同じパターンの戦いを繰り返してもそれほど苦でなくなってた。瀕死になりながらも、なんとかボスキャラを倒していくのが好きだったのに。といっても難易度ノーマルでのお話で、ハードモードなんかをクリアするような腕はない。キャラクターの動きを味わいながら、敵のHPを削っていく楽しみを知ったのかな。

そうするといいことに、ゲームをスムーズに進められるようになった。適切なレベル上げをするのが習慣になっている人には当たり前のことなんだろうけどさ。以前から、手に入る装備を一通り揃えてから進める程度のことはしていたけど、現れる敵を楽に倒せるくらいまでレベルをあげるのは面倒だったので。それがレベル上げだけでちょっと満足するようになったのは進歩(?)なのだろうか。一つレベルが上がったらセーブして、今日のところはひとまず終わり、明日もまだレベル上げかなあ。なんて感じのプレイでも不満がない。もしかすると極端な話、物語なんてもうなくてもよかったりして(笑)

だって、どんな不幸なことがあって壊滅的状況になったとしても、最後にはそれなりにハッピーエンドになるでしょ。っていう安心感があるから。ちょっと気を抜くと全滅してしまうような、そんな戦闘が楽勝になるまで作業的にレベル上げするのもいいんじゃない? なんて。レベル上げの面白さを知らなかったのは私なんだけどさ。でも新しめのRPGはなんとなく戦闘が優しめになってるように感じるから、レベル上げが好きでない人って多いんじゃないのかな。

同じようなことを繰り返して経験を積んでいると能力がアップするって、案外基本なのかも。近頃ではおろそかにされていることかもしれないね。

つながりのない文章

何が面白いのかわからない。興味があるのかもわからない。でも例文(短文)を読むのが面白く感じる。これは一体どうしたことなんだろう。

長文を読もうとしてもめんどくささが勝る。とはいえ、一旦読み始めれば読めないことはない。ずっと積読状態にあった本でも、手に取って読み始めれば興味が出てきて一気に読み終えてしまうこともある。でももし、手に取らなければ積読のままだっただろう。たまたま何かのきっかけで手に取っただけ。まあそもそも興味があるから持ってるわけで、全く開きたくない本ならとっくに処分してるはずだし。

短い文章は空き時間にサクッと読める。寝る前のちょっとした時間にでも。読むというより見るに近い。ちょっとした文脈はあるものの、大掛かりなストーリーはないからどこで読み終えてもいい。こんな気軽さが心地いいんだろうか。

物語のない、独立した例文のようなものってどんなふうに作り出されてるのかな。参考書だったら、過去問から採集するとかしてる関係で出典が書かれてたりするけれど。

格言集とか、詩集なんかも似たようなものかな。そういうものは一度読んでも飽きづらく、何度か読める。そこが良い点。悪い点は良い点の裏返しで、手放しにくくなるところ。一回読んで終わり、そんな本の方がスパッと手放せる気がする。そういう意味ではストーリーのある本を処分する前に、目に留まった文章を抜き出しておくと個人的に興味深い短文集になるのかな。

ん? 今思ったけど、これって読書とは言わないんじゃない? 適当なページを開いてみて、「最近、ガソリンの値段が上がってきた」とか「フレッドはいま(一時的に)東京に住んでいる」とかいう文章に目が留まったからって、それを読書というだろうか。その短文が一体なんの役に立つだろう。特に前後関係のない文章がたくさん身の回りにある、そんな状態がなぜか好きなだけ。我ながら変な趣味だなって感じた…。

競うことも大切

ゆっくりより早く、少なくより多く。効率よく種類をこなすのが優れたことなのか。

自分のペースでやるのではなく、周りから取り残されないようについていくのがそんなに得なのか。

そんなように、作られているかのように思える。社会がそういうふうに育てているのか、教育のせいなのか。

生き物は元々そういうものなのか。どうして一人では生きられないのか。

そもそも人は一つの細胞からできていない。ほかの生き物との距離的な境界はあるにしても、周りとの関係の中で生きているわけで。競うことが当たり前なのか。

あえてほかと違う方法を選ぶのは馬鹿なのか。それでは滅びてしまうのか。それとも、破滅に向かってしまうような 気がするだけなのか。

なぜに見た目や地位に弱いのか。それらで優位に立てるのなら、どうして競争を好まない人がいるのか。

なんらかの形で戦わなければ征服される。それなら秀でたことで戦いたい人ばかりでもいいんじゃないか。

こそこそ逃げて生き延びてきた、とにかく運がよかった。そんな人はそれほど多いのか。

要領悪くダラダラと過ごせずに頑張りすぎてしまうのは、よく見られたい、自分の方がうまくやれるってことを示したいからじゃないのか。

結局のところ、争いたかったり穏やかでいたかったり。コロコロと感情は変化する。それに戦うといっても傷つけ合うことはない。ルールを決めて競えばいい。

ずっと平穏でいるのは難しい。ある程度は気持ちの揺れが必要だ。感情がないと生命力が落ちるような気もする。それが人らしさってやつなんだろうな。

口に出して読む

音読っていつからしなくなったんだっけ? 確か小学生の頃は国語の文章を席順に読まされてたのを覚えてる。中学生になってもそうだったかな。古文や漢文も音読してた気がする。

英語の授業は中高と音読させられてた気もするが、発声重視じゃなかったからかスムーズに読めなくてあまりいい思い出はない。今だって音声を真似しながら音読してみるだけなんで、たま〜にSiriやGoogleさんがちゃんと認識してくれる程度。実用に耐えるとは思えない。

でも、なぜか口に出して読んでいるとなんだか気分が良くなってくる。これってなんなんだろ? やっぱり言葉は音ありきだからってことなんだろか。暗記の必要はないけれど、音読すると楽しい。当然、黙読より時間はかかる。誰かに聞かせて会話をするわけでもない。名文でなくても、喋っててなんとなくいい気分になってくる。

そういえば、歌でもそういうのがあるな。何度も歌って慣れてくると、気分がよくなるものがある。ただ、歌はメロディにのせて歌うものだからか、文章の方がその時の感情によっていろんな表現になるような気もする。別に意味がわからなくてもいい、口に出すのが心地いい。実はあまり文章の内容には関係なく、ただ口を動かすことで得られる快感なのかも。

誰かに話しかけるわけでもない、いやできれば誰にも聞いてほしくない。独り言のような口の運動。晴天の日に外を散歩して気分が良くなるのと同じような、なんとなく口に馴染む文章を声に出してみるって面白いなと思った。不思議だけど。

認識の違い

詳しい話を聞いたら、文句言われたと受け取られたり。おかしくなって笑ったら、バカにされたと受け取られたり。

人によって解釈は違うもの。となると、こんな態度をとられたのはこう言ったからかな? なんてことを気にし過ぎるのはムダなこと。ちゃんと相手を思いやる気持ちは大事だけど、相手がどう受け取るかを知ることはできない。ただこちらで勝手に推測できるだけ。

いくら相手にわかりやすく説明したつもりでも、全くわかってもらえないこともある。これ以上わかりやすい解説はない! と帯に書かれた本を読んでも、著者との認識があまりにも違えばさっぱりわからない、といったこともありえるわけで。

自分と考え方が似ているか、それを知りたくてもなかなか難しい。同じような意見を持った人でも受け取り方まで同じわけではないし、いくつか一致した意見があったとしても気が変わったり日にちが経ったりすれば認識なんてコロコロ変わるものだから。

自分に都合の良いというと語弊があるかもしれないけれど、多分正解なんてないものだから、気分が良くなる解釈をしたらいいのかな。もちろん、理解し合おうという努力は大切だけどね。

気分の変化

いつもと違う場所へ行くこと、行ったことのない店に行くこと。そうすれば気分はずいぶん変わる。食料や日用品を手に入れるために外出する、普段行く店で買い物をする。たったそれだけのことだっていい。でも、できれば初めてのことをする方がいい。たとえそれが気の進まないことでも。周りから決められて何かをするのは面白くない、何もしたくなくなる時もある。それでもやってみると面白くなったりする。

天気の良い日は外に出てみる。天気が良ければどんなこともいいような気がしてくる。気持ちが上向きになってるからか、よくなかった出来事をあたかも良かったことのように思えたりする。これって何だろね。春になって暖かくなると虫がたくさん出てくるのと同じようなものなのかな。

そういう意味では四季があるのもいいかなって思う。暑くなったり寒くなったり、季節に合わせて服を持ったり。めんどくさいと思ってたし、実際めんどくさい。でもずっと同じだといい気分ではいられない。良かったり悪かったり、揺り戻しをする中でちょうどいいところに落ち着いてくる。しかし、落ち着いたらそれで終わりでなくて、また揺らさないといけない。離れて見ると止まっているように見える、でも拡大すると少し動いている状態。それが中庸ってやつなんだろうか。

地球上に全く気候変化がない地域はないだろうけど、変わるってのも悪くない。環境に合わせて変化するってことが生きるってことなのかもね。変わることは生きること、そう言ってみるとしっくりくる気もする。逆を言えば、生きることは変わること。裏を返せば、変わらないこと、つまり完全に止まるってことは生きていないこと、つまり死んでいるということだ。

花粉症

知らなかったし、知る気もなかった。知りたくなかった花粉症。

春になると眠くなる。涙の量が減るのか、コンタクトレンズの装着に違和感がある。こんな症状は花粉や黄砂のせいかも、とは思ってた。調べても解決できそうにないし、耐えられそうだから無視。そのうち治まってたので。

くしゃみ鼻水、目がモワモワしたり痒かったり。そんなもんだと思ってた。メインの症状ではあるんだろうけども。一時的に歯が痛くなったりするのも花粉の影響だとはね。それに体がやたらとだるい。

屋外に出るときは、花粉を浴びすぎないようにマスクと帽子を欠かさないように。屋内に戻ったら上着をパタパタ。だから少しはマシなんじゃないかな。

でもまた忘れるのさ、一年も経てば。喉もと過ぎればってやつ(苦笑) 家人によると、ここではソメイヨシノが散る頃には花粉症も終わりらしいけれど、今年はヒノキ花粉の影響も受けているのかもう少ししんどい状態が続きそうです…。

花粉の飛ばないスギやヒノキと植え替えろって話もあるみたいだけど、それはそれでどうなんだろう? そもそもそんなものに反応してしまう体の方にも問題があるのではなかろうか。花粉が飛散する時期は屋内でおとなしくするってのもアリだと思うし。何でもかんでも人間の都合の良いように操作するのは良くないんじゃないかな。

大雨や大雪、台風などのように、花粉の時期も経済活動を控えめにできるような社会になったらいいなあ、と怠け者の私は考えるのでした。

プチアウトドア派

一日中家に居ることができますか? 私は難しいですね。でもアウトドア派ではありませんよ。ただ、ずーっと自宅にいるのは嫌というお話。

近所の散歩だけでもしないとどうも気分が良くない。日の光を浴びるというか外の空気を吸うというか、そうすると少し気分が変わってくる。動くことで代謝がアップするのも関係するのかも。もしかすると住居に問題があるのかもしれません。

広い部屋で暮らしていて、天窓のようなものがあって光が充分入り、大きな窓を開けて新鮮な空気を取り入れることができれば、気分の落ち込みを防げる可能性はあります。そう考えると、軽い閉所恐怖症なのかもしれませんね。

そういえば、以前は何とも思わなかったテント泊で寝苦しかったことがありました。といっても暑くて寝れなかったわけでなく、一人用テントの狭さに何ともいえない居心地の悪さを感じたからです。この場合もテントが広ければ快適だったのかも。次回はファミリーテントを使って検証してみたいと思います。それでも気分が悪ければ、歳を取るにしたがって閉所に弱くなっているということでしょう。

子どもの頃は押し入れや倉庫で過ごすのが楽しくて狭いところに籠っていたり、大人になってからも2シーターの車で一晩くらいは寝られたのに。人間とは変わるものですな。狭いところにいる時間を増やしていって、少しずつ慣れていくことはできるかもしれませんが、そこまでする必要があるのかどうか。

いつの間にこうなったんでしょう? 住んでるところはずっと狭い場所なのに。逆に、ずっと家に居れるよっていう方はいるでしょうね。どうやったらそうなれるのか、少し知りたいなと思いました。

辞書=短文集

辞書はどこから読んでもいい。いや、最初から順に読む意味はあまりない、といったほうが正しいのかな。

見出し語の並びに物語があるわけでも、例文の意味がつながってるわけでもないから、サクッと読める。小説を読む時間がない、面白いかわからないのに読み始めるのはちょっと、そもそも本を読むのはめんどくさい、そんな人にぴったり。ちょっとした時間に読める文章がたくさん載ってます。なーんとなく関係ありそうな文が目に止まって、背景にあるイメージが浮かんできたりすることも。どう解釈するかは自由なんで、案外面白いですよ。

用例によってはどこかの書物から抜き出されてきたものかもしれない。何かの小説の一節が抜き出されてきたものだったり。一応独立している文章を載せてるだろうけれど、まれに括弧付きで補足がある文があったりして。

何が言いたいかというと、一冊まるまる読むのはしんどいのです。ハマって読んだとしても、それでひとまず終わり。すぐには読み返さない本がほとんど。そんな中でどこからでも読める本は嬉しい。じゃあ、何も読まなきゃいいじゃん! って思うんだけどさ。

短文がたくさん載ってるとなると、外国語の辞典が思い浮かぶ。文法書なんかにも多いかな。日本語の本でもそんなのがほしいなあ、と思う今日この頃です。

単語帳

単語帳を見比べてみたことってある? 買う前の品定めにちょっと見るんじゃなく、ある程度読んでみたことって。読んでみると、結構性格が違ってるのに気づくと思う。

見やすいとか覚えやすいだけじゃなくて、それぞれ印象が違ってる。レイアウトがスッキリしててとっつきやすいとか、小さな字で細かいことまで書かれているから読みづらいとか、いろいろ。

かといって、どれが良いとか悪いとかいうのは全然ない。同等レベルのものなら同じような単語が見出しとして載っているけれど、中身は異なっている。

簡単に言ってしまえば、慣れてしまえばどれも同じ。一定数の単語を覚えるためには何を使ってもいいし、1冊あれば十分。重要語だけを飛ばし読みできれば辞書を使う手もあるわけで、そうすれば単語帳はいらないかもしれない。

昔使った単語帳が何だったか思い出せないけど、授業の前に小テストみたいな感じで覚えた記憶がある。今持ってないところからして、使い古して捨てたんだろう。単語帳って、ドリルみたいに覚えるために使ってそのあと捨てられる、メモ用紙みたいな使われ方が多いのかな。

トールタイプの軽自動車にさまざまな車種があるように、同じような単語帳にも違いはある。そのちょっとした違いを楽しんでみるのも悪くないんじゃないかと思った。

やめられないことはやめるべきか

やめたくてもやめられないこと。それは本当にやめたいことなのか。

やめられないのは、何か役に立っているからかもしれない。

どこが良い点なのかわかれば多分やめられる。だけど、周りに害がなければ無理にやめる必要もないだろう。

たとえば、映画を観るのがやめられない、でも定額サービスを利用しているのでお金を使いすぎることはない。もちろん、生活には何の支障も出ていない。なんて場合はサブスクにハマっているだけで、好きなだけ観れば良い。それこそ嫌になるまで観続けたらいい。

ただ、仕事が手につかなくなる、複数のサービスに契約してお金を使いすぎてしまう。そうなるとある程度の制限が必要になってくる。

その時は、何か別のものと置き換えないとやめられそうにない。しかし、中途半端なものと置き換えようとしてもダメそうだ。下手するとやめられなかったのを意志の弱さと感じて自己嫌悪に陥るだけ。

そんなことになるなら、飽きて嫌になるまでやり続けたほうがまだマシかもしれない。

大抵のことはすぐ飽きる。それなのに続けられてるってことは、それだけ魅力があるってことじゃないか。脳が壊れてるだけかもしれないけれど。

やめたいけどやめられないこと。そのやめたい理由をハッキリさせて、そこをしっかり取り除ければ理想なのだが。

本と気軽に付き合う

本との付き合いについてのメモ。

はじめから読まなくていい。最後から読んでもいいし、適当に開いたところを読んでもいい。綴じるという構造上の理由から順番があるだけです。好きな順に読んでもいい、もちろん最初から順に読んでもいい。初めから全部読み込もうとしないで、小説などの物語をつまみ読みしてもいいし、色付きや大きなフォントなどの目立つ文字や目に止まったとこだけを読んでもいい。見出しだけでも。好きなように読んでください。著者に悪いような気もするが気にしないで。逆に、何度も読んでもらえたら本望なのでは。

着色やレイアウトの工夫が増えると内容が薄くなる。字だけの本の方が無駄なことが書かれていないから、当然密度が濃くなる。

愛読書を作る。何度も手に取って、厚い本でも薄い本のように読む。声に出して読んでみたりするのもあり。

自分のスタイルを見つけて読もう!音楽を聴くように。淀みなく流れる川のようにさらりと読んだり一気読みしたり、一文字ずつ噛み締めるようにじっくりじっくりと読んでみたり。読み方を本によってさまざまに変えていくのも面白い。

真面目に読まない。学校のお勉強じゃないんだから。第一、別に本なんて読まなくたっていいわけで。面白いと感じられるように読んだらいいと思う。

本棚に仕舞い込まない。その辺に置いて、気軽に接する。かといって、投げたり汚い手で触ったり、乱暴に扱ったりはしない。丁寧に大事にしつつも使いこなす。それでもどうしても傷んでしまうことはあるってこと。ただ汚くて破れてるような本と一緒にはしないで。

どんな本でも、本という形になるまでにはたくさんの人の手と時間がかかっているはず。ということは何か得るものがあると思う。詳しくないけど、一冊の本を作るのってとても大変なことらしいから。そこに込められた気持ちを感じることができたらいいな。

好きでないものに近づく

好きそうでないもの。

良さそうなものに取り組んでも、感じることはいつもと同じようなこと。

今まであまり良く思えなかった、好きでなかったものに取り組んだり接したりしてみる。すると、やっぱり嫌だって気持ちは浮かんでくるが、そのままその世界に抵抗しないでいると馴染んでくることもある。

いくら好きじゃないものだってそれをいいと思ってる人が作り出してるわけで、どこかに良さがあるはず。でも、こちらにその良さを感じる部分がないから良く感じられないわけだ。

良くは思えないけど、まあいいか。そんなふうに思えるまで時間をかけて付き合う、ただ近くにいる。そしたら、これまで使ってなかった、良さを感じる部分が開発されて育っていくかもしれない。

前は好きじゃなかったけど今は好きとか、どうでもよくなったなってこと、あるでしょ。そんな感じで好みは変わるもの。

全く変わってない!って人もいるかもだけど、それって逆にすごいこと。常に探究心を持って物事に取り組んでるか、とっくの昔に飽きてるけど諦めてしがみついてるか。

よくわからなくて放置してたことを掘り起こしてみるとか。当時は理解できなかった本、買ったものの途中で投げ出したゲーム、言ってもわからないやって黙ってたこと。

なんでもいいから今やってないことに目を向けてみるのもいいんじゃない?

実際、試し読みして買うのやめとこって決めた本なんて、そんなことがよくある。

紙面が地味すぎるとか派手すぎるとか、面白くなさそうとか。そう感じたものに限って、何かのきっかけで手に入れてみると結構いい感じの距離感で長く付き合えたりする。単純に見る目がないってことなんだろうけど。

いい!って思ったものには近づかないほうがいいのかもしれないな。

あと、なんかよくわからなかったっていう映画や本は、また何度か見返すとほんわか良くなってきたりする。そういうののほうがお得だよね。ゆっくりお近づきになっていく感じで。

新しいものって刺激的だけど、親しくなったころにサヨナラするような気がしてもったいないような。親しくなれそうな気が少しでもしたら、もう一度最初から接してみよう。よかったものに飽きるほど触れられるって素晴らしいことじゃん!?

好きでなかったものの中にだって、いいと感じるところがある可能性って少なくないだろうし。

こんなこと今頃うだうだ言ってるなんて、なんだかなあ。頭固いよな…。

道具にこだわる気持ち

弘法筆を選ばず、って言いますよね。そのことに秀でている人なら道具の良し悪しは関係ない、みたいな。

確かに道具を選んだり、収集したりする人はいる。それだけでなく、道具を使うよりも手に入れることに多くの時間を使っている人だって。

でも、それを楽しんでるなら全然問題ないと思う。道具なんて使わなくても、そこにあるだけで役に立ってるんだから。

仕事に使うっていうんなら、結果を重視して、いい道具が必要なのはわかる。道具自体の良さというよりも、きちんとした成果を出すためのいい道具が。その場合、収集するほどの種類は要らないでしょう。

趣味で使う道具は効率が良くなくてもいいから、使った時のフィーリングやデザインを追求するために材質にこだわったりする。すると、必要十分な機能と性能を満たした、このモデルしか存在しないよ。という道具じゃなくて、さまざまなバリエーションが生まれてくるっていう。

種類が多い道具ほど、趣味として使われることが多いってことなんだろうね。

詳しく知らないことでも、そりゃあファミリーカーでぶっちぎりに速く走ったり、手作りの木製クラブでホールインワンしたり、道具に頼らないのがかっこいいって感じるのはわかるよ。ただ、みんながスキルを磨いてうまくなれるわけじゃないし、そんな人たちばっかりだったら業界が潰れちゃいそう。

弘法筆を選ばず、とはいえ、弘法も筆の誤り、ってことわざもあるわけで。道具にこだわる人のことも、少しは温かい目で見てもいいんじゃないかと思ったんですな。