書いて浮かべるブログ

書きながら考える

のんびりしたい私のアタマノナカ

気分転換

気分転換の転換ってなんだろう。

どうやら別のものに変えることらしい。

ということは、気分転換とは、気分を変える、ってことか。

全然やりたくないことをはじめてみたり、今の気分に合わない音楽を聴いたりすること?

気分に合わないことをするって嫌じゃない? 

そんな時はそもそも気分と違うことが思いつきそうにない。

わざと今の気分と違うことをする。これってむちゃくちゃ。ムリっぽい。

レコメンドサービスにもなさそう。普通は好きそうなものを勧めてくるでしょ。なのに、合わないことを勧めるって、嫌いそうなものを勧めてくるようなもんじゃないか。

そんなもの勧められても、スイッチを切りたくなる。つまり、自分の力で気分転換するのは難しいってこと。

相性が良くない人と同じ部屋に閉じ込められるとか、コンピュータが自動でチャンネルを操作するとか、強制的じゃないと気分転換はできそうにない。

ひとりで気分転換するなら、ルーレットを回して、何が出ても指示に従うって決めるくらいしか。

散歩をして、目についた店に入ってみる程度のことじゃ気分転換はできなさそう。避けてた道の嫌いな店にあえて入るくらいやらないとダメなのかもしれないね。

好きだった給食メニュー

好きだった給食メニューは「南蛮煮」と「ポークビーンズ」、「ほうれん草のおひたし」

南蛮煮はジャガイモとニンジン、ひき肉やグリーンピースなどが入ってて、とろみのついた料理。確か郷土料理だったっけ。先割れスプーンでジャガイモを切って食べると柔らかくておいしい。味はなんていったらいいのかわからないや。

ポークビーンズトマトスープに大豆が入ってるもの。大豆がおいしかった覚えがある。

ほうれん草のおひたしは一般的なおひたしと違っていて、いまだに同じものを食べたことがない。どんな味付けしてたんだろう。

みんな好きだったみたいで、まず残らない。残らないどころか足りないこともあったような。

大人になってから、どれも嫁様に再現してもらって食べた。まったく同じ味じゃあなかったけど、懐かしい味だった。

退屈

退屈ってなんだっけ。

暇をつぶすとかいうけれど、退屈なのもいいんじゃないかな。

いつも退屈だったら、もう退屈にはならないでしょ。

とはいえ暇な時間はいやらしく、何かを探したりフテ寝したりする。

面倒ごとに取り組めば退屈しないのに、簡単で達成感のあることをしたがる。

退屈に耐えなくてもいいけれど、退屈を味わうくらいはしてみたい。

退屈を見てすぐ逃げてたら、退屈が増えてしまいそう。

退屈なんて平和みたいなもの。退屈だから面白いことがある。

千円

千円について思いつくことを書いてみる。

千円の本は高く感じ、千円のゲームは安く感じる。

千円のランチは高級で、千円の服は安いほうだ。

人の価値観で千円の価値は変わる。

時代によって千円の価値は変わる。

高くなるものがあれば、安くなるものもある。

千円で買えても性質が違うものは比べられない。

千円は単なる数字。千円札はただの紙だ。

気軽に詩を読んでみる

このあいだ海に出かけるときに、なんとなく手に取った文庫の詩集を持って行った。

気軽に開いて読めるし、しおりもいらない。一つの詩はすぐ読み終えるから、隙間時間にちょうどいい。字が詰まってないから疲れない。

何か他の詩集も探してみようかな。

※1 電子書籍もよさそうだし、単語帳なんかも相性がいいかもしれない

※2 詩集ではないけど「論理哲学論考」は詩みたいだ

突然iPhoneの画面が真っ暗になったけど解決

画面が暗いなあ、と思っていろいろいじってると何かの拍子に明るさが最低になってしまい、画面が真っ暗に。電源落ちかと思ったが、Apple Watchを見るとiPhoneに接続されているようだ。

ロック解除もできないから強制再起動をかけると、「iPhoneは使用できません 1分後にやり直してください」の表示。画面が見えなくてパスコードを間違ったから? Face IDでもログオンできてないらしい。何度か試してもロック解除できてなさそうなので再度、強制再起動。今度は「iPhoneは使用できません 5分後にやり直してください」 ああ…もうダメかも。

どうしたものかとウロウロして、半分開いたクローゼットの近くで画面を見たらうっすら文字が見える。少しは表示されてるんだ、と気づいて画面ロックを解除できた。

結局、暗いところで電子書籍を眩しくない明るさで読もうと、サイドボタンのトリプルクリックにズーム機能の低照度を設定していたのが原因。

こんなの設定したのも忘れてた。初期化すれば直ってたんだろうけどね。どこかのショップに見せてたらディスプレイ故障で交換されてたかもしれない。

本体の故障でなくてよかった。 同じような状況になった人って多分いないと思うけど、一応メモ。

終わるころ楽しくなる

お話を読んだり見たりしていて、登場人物のイメージができてくるのはお話の終盤だったりする。作者の展開に慣れてくるのもその頃だったり。

続編が用意されているときはすんなり入れていいんだけど、そうでないときはもう一度そのお話を最初から見返してみると断然楽しめる。

余計な部分を省略してるものだと特に、冒頭の展開の早さに気持ちがついていかなくなりがち。

わけわからん、と思ったものほど最初に戻ってみる。作り手は最後までわかった状態だから、どうしても説明不足になっちゃうのかな。

と思ったけど、多分私の理解が遅いんだろね。ま、何度も楽しめると思えばいっか。

心が柔らかくなるとき

なんとなくソファのぬいぐるみを見て、笑顔のエルモがこっちを見てたりするとほっこりする。

並べてるわけじゃないんだけど、犬がソファに登ったりしてそうなったんだろう。

その中に犬がまぎれて眠ってたりすると一瞬気づかない。

まったりした楽曲を聴いてて、クッションで丸まってるのが目に入ると、

音楽を聴きいてて眠くなったのかな、なんて微笑ましくなる。

たぶん日が当たるからってだけで関係ないんだろうけどね。

出会う順番と印象の違い

出会う順番によって印象が変わるから面白い。

たとえばゲーム。FFX-2だけをプレイすれば普通に楽しめるはずなのに、FFXの後に続けてだと不満が爆発するとか。私はそんなに気にならなかったんだけど。

あとは長編のシリーズものに1から挑むというのも無理はしないこと。案外、新しいものからさかのぼるってのもいい。ゲームなんかだと1作目は古臭く感じて入り込むのが難しかったりするので、最新のハードに対応したものか過去作品のリマスターとかから入ると遊びやすいよね。気に入りそうなときに古いものに取り組んだっていいんだから。

前提知識というか経験というか、最初に出会うものは大きな影響を与えるようで、免許をとって初めて乗ったクルマなんかも後々のカーライフを左右すると思う。

かといって、順番ばかりを吟味していたら面白くなくなってしまいそうだ。それに、最終的にはどれもいいよねって感想になる気がする。だから、あのときはそう感じたけど今ならどう思うだろ?ってくらいのほうがいいんじゃないかな。

何かを学ぶときだって、入門書から読むのがいいこともあれば、いきなり専門書と格闘するのにやりがいを感じる場合もあるし、易しい本をあいだに挟んだら難しい本に取り組めたってこともあるだろね。試験対策の場合は効率が求められるから面白さ重視でなくてもいいけど、ライフワークとして何かを学ぶなら寄り道しながらってのもいい。

自分が出会ってどんな反応が起こるのか、なんて想像したってわからない。変に組み合わせを考え過ぎないで、偶然に任せて出会いを楽しむのがいいと思う。

ゲームサントラを聴いて

ゲームをしながら思った。

ゲーム自体も面白いけど、もしかするとサントラを楽しむためにゲームをやってるのかも。

サントラだけを聴いていいと感じる曲もある。でもゲームをやってから聴くともっといい曲に感じたり、聴いただけではよく感じなかった曲を好きになることもある。まあ、ゲームと合わせて世界を作ってるんだから当たり前よね。

一回プレイしたゲームなら、あとは何度も周回プレイをしなくてもサントラだけを聴いてストーリーを思い返したりできる。追体験ってやつか。

サントラがゲームの内容を思い出すためのフックになってるってこと。そういえば、基本的にRPGを一回しかプレイしない私でも、RPGにサントラやミュージックモードみたいなものがなかった頃は最初からやり直してたなあ。

サントラがあるおかげで何回も同じゲームをしなくていいってことなのかな。RPGって普通にクリアするだけでも100時間近くかかるから、1時間くらいでとりあえず思い返したいときにはありがたいんだよね。

それでもやっぱり、もう一回遊んでみようって思わせるゲームがあったりすると困っちゃう(笑)ほかのことをする時間がなくなるからね。

まあ、すごく大きな目で見ると似たようなゲームは多いから、気に入ったものを何度も楽しむってのも魅力的と思うし、そうしてみたいなとも思った。

変化して慣れに対抗する

人って変化から戻ったときのギャップに何かを感じるのかな。

このあいだ車を車検に出して代車を借りた。現行車種で走行距離も少なかったけど、特に感想もなく帰宅。あとは次の日に返し(自分の車を引き取り)に行くのに乗っただけ。

自分の車に乗り換えて走り出した途端に違和感、さっきまで乗ってた代車は最近の車だったんだと感じた。まあ、確かに古い車だけど。走り始めて最初にステアリングを切ったときがまず違う、大きく切らないといけない。あとは路面からの反応も違う、あの代車は乗り心地よかったんだと気づく。

でも、そういうのは乗り換えてすぐのときしか気にならない。だんだん自分の車に感覚が戻ってきて、何にも思わなくなった。

出身地に住んでいない人が地元に帰ったときに感じる感覚、いいこともそうでないこともあるだろう。そんなものも、すぐに何も感じなくなるのが普通だ。モードが変わるような、実際に使ってる脳の部分が違うのかも。頭の中が以前の回路に切り替わって何も思わなくなる感じ。

時間が経っても、いつまでも味わい深く感じられることもある。そういうのはパターンとして頭が慣れっこになりにくいのかもしれない。だから何回接しても新鮮な部分が少しはあるんじゃないかな。

飽きないってことなんだろうか。何回乗っても嫌にならない車、何回聴いても気持ちよく聴ける楽曲、何回読んでも発見がある本…他にもたくさんの飽きないものがあると思う。こういうのは結局、こちら側が変わってるからそう感じるんだろう。

毎日同じことを繰り返して、同じようなことを感じ方、考え方をしながら生活している人ほど身の回りのことに飽きてしまうのでは?

放っておいたって周りの環境は変わる。だから、こっちが変わらなくても新しいものはやってくる。でも、たまに自分を変えていくことができたら、いつまでも目の前のものを新鮮な目で見られるんじゃないかな、とか思った。

読みづらい本

誰にでも読みづらい本はあるのではないだろうか。

文章が読みづらいだけでなくて、ページをまたいだ参照がいくつもある本も最初は読みづらく感じるかもしれない。

そんな本を頑張って読み進めようとすると嫌になる。

じゃあどうしたらいいかっていうと、読まなけりゃいい。でも、それじゃ読みやすい本ばかり読むことになって、なんだかつまんないよね。

読みづらいのは著者の文章に慣れていないから。だったら少しずつ慣れていけばいいし、参照がいくつもあるなら一度目はそこを飛ばして読んだらいい。つまり、一回ですべて読んでしまおうとしないこと。

不思議というか当然というか、初めとっつきにくかった本ほど自分が求めていたものが書かれているように思う。もしかしたら読みやすい著者の本の内容は、すでに頭の中に理解する回路ができてしまってるから、もうそんなに読まなくてもいいってことなのかもしれない。

これは本に限らないな。映画なんかでも、たまにはあまり観たくないものを選ぶと案外面白かったりする。でもまったく興味がないものを選ばないように。好きなジャンルだけど観なくていいや、ってものを選んでみるのがいい。

全然好みが合わない人がいるといっても、その合わない人が熱狂してるものには何か感じるものがあるはず。そう考えて接してみると新しい感覚に出会えるかもしれないよ。まあ、私もかなり偏ってるとは思うけどさ。

そんなの絶対嫌ってものほど、ちょっとかじってみる。疲れてるときは慣れたものに癒されたりするのがいいけれど、なんか退屈だなあってときは読みづらい本を選択するのもいいんじゃないかなあ。

本の研磨、経年劣化

中古本を買ったら、天地と小口がしっかり研磨されていた。

もしかしたら、新品として売られていたときから研磨本だったのかもしれない。どっちかわからないけど、私が買う前に研磨されたのかもしれないし、前の所有者も研磨された状態で読んだのかもしれない。

少しついてた手垢のようなシミは、中性洗剤や消しゴムを使ったらまずまずキレイになった。

小口研磨って、個人的にはあまり気にならない。まあ、カバーがぶかぶかになるほど研磨されてるとちょっと嫌だけどね。

図書館でキレイに焼けてる本を借りたりすることもあるけど、よく保存していてくれた、と思うくらいで嫌な気分は全然しない。逆に、紙面が少し落ち着いた色合いになっていて、読みやすく感じられる。

復刊された本と元の本を比べたとき、元の本のほうが紙質がよくて文字も見やすいことがあった。その本には”昭和59年9月20日 5版発行”って書かれてるから1984年発行、ということは今年で38年目の本なんだ!

ハードカバーだったものをソフトカバーの新装版として復刊した本なんだけど、ハードカバー版がほしくなってしまう。そちらにはカバーはないし、天にシミがあったりするんだけど、紙に文字がしっかり刻まれていて読みやすい。新装版は元の本をデジタルコピーしたもののようで、よく見ると文字が少しガクガクしている。紙質も違っていて、ハードカバーのほうはパラパラとページをめくりやすい。同じ値段で買えるならハードカバー版にしたかった。

でも、復刊してもらえたおかげで所有できるのはほんとにありがたい。元の本が見たければ図書館で借りたらいいわけで。

本って、いくらキレイに保存しておきたいと思っても限界があるもの。図書館でしっかり空調などに気を使って保管していても、どうしても経年劣化はしてしまう。天にシミがついたり、カバーとの隙間にホコリが入って天の部分が汚くなったり。ただ、読めなくなるほど劣化することはあまりないようだ。

ということで、じゃないけど。見た目がよくない本を研磨するのはいいんじゃないかなあ。手間をかけてもらってるわけで。その本の歴史というかなんというか、そう思って納得するのがいいかなと。

新品で研磨されてる場合もあるようだけど、それを避けたかったら実店舗で購入するしかない。本屋さんになくなってほしくないし、ネットばかり使って本を買うのはやめようね。

気合いをいれない

ほかの人のことはわからないけど、私は気合をいれると長続きしないほうだと思う。

まあ、なんとなくで続いてることも特に思いつかないけど。歯磨きくらいか(笑)

たぶん、少しずつ習慣にしていくのがいい。かといって、習慣化するために細かい予定を立ててやるのは苦手。

コツコツやるにしても、たとえば問題集を1ページずつ進める、なんてのはムリ。

じゃあ、どうするのかというと、適当に開いたところからやるとか、全部を飛ばしながらサーッとやるのを繰り返すとか。

とにかく、まめに続けることができないのよ。そんなことができてたら、よい人生を送ってるはず…。

でも古本を見ていると、そんな人は私だけではないらしい。問題集どころか、読めばいいだけの参考書でも初めの10ページくらいしか読んだ形跡がないものがある。ページを開いた折り目がついていたり、蛍光ペンで線が引かれていたり。気合をいれて読み始めたんだろね。実は最後まで読んだのかもしれないけど。

気合をいれるのが悪いってことじゃない。短期決戦には気合が必要かもしれない。

ただ、長く続けるのには向かない気がする。ずっと気合をいれないのがいいかはよくわからない。バランスが大事なんじゃないかな。

私のぐるぐる思考停止法

思考がぐるぐるし始めたらどうするか。最近ではとにかく眠ることを心がけている。

どうやら、ぐるぐるするのは脳が暴走してるからっぽいので。知識としては知っていたけど、ぐるぐるしてるときにはなかなか思い出すことができない。でも寝てみると、スッキリまではいかないにしてもモヤモヤがなくなっていることに気づく。

そういえば、どなたかがどこかに書いていたのを思い出した。腹が立ったら眠たくなる、起きたときにはイライラを忘れてる、のだとか。

確かにそういうのってあるかもしれないな。逆に、眠りから覚めてもまだイライラしてる人なんているのだろうか。

私の場合はイライラして眠気が弱くなることはあったとしても、眠れなくなることはまずない。読書をして目が冴えたときでも、寝れなくなるなんて考えられない。

考えがぐるぐるしたときは、最終的には脳が暴走してエネルギーを使い果たしてシャットダウンする感じに近い。どちらかというと常に眠いほうで、目が冴えることはあんまりない。これって、何か問題があるのかもね。

もし何か決めるのに悩んだら、思考がぐるぐるする前に寝てしまって、起きてから決断するがいいんだと思う。

ということで、ぐるぐる思考が始まったら脳がバグったと考えて、まずは寝る。というお話でした。