書いて浮かべるブログ

書きながら考える

のんびりしたい私のアタマノナカ

何もしたくないときは

何もしたくないときは無理をしない。

シャキッとしようとしてコーヒーを飲んだり、気合いを入れたりしない。

何もしたくないって気持ちが弱くなるまで、おとなしくしておく。

でも、周りとの兼ね合いでどうしても無理をしないといけないときはどうする?

少しでも何もしないをしてから、ギリギリのパワーで取り組む。そして一息つく時間が取れたら、何もしないをする。

そうしないと、何もしたくない気持ちがずっと続きそうだからね。


人によっては、ちょっと頑張っただけで疲れちゃう場合もあって、たいていは何もしたくない。

それじゃあ困るって無理矢理に頑張ってると、自分にストライキを起こされたりして、何かしたくなるまでに長い時間がかかりがち。

まあ、そのときはゆっくりしたらいいんだろうけれど。なかなかうまくいかないから。

できたらそうなる前に好きな歌を聴いてみたり、心地よいピアノの音を聴いたりして少しだけでも回復しておきたい。

一度に頑張れる期間は人それぞれ。ほどほどの状態を長く続けたくても思い通りにはならなくて、好調のときもあれば不調なときもある。

だからそんなときは、何もしないを受け入れてあげよう。

社会になんて思われようが、守れるのは自分なんだからね。

教科書を見ていて

高校生用の教科書を見ていて感じたこと。

文字が大きすぎない?

こんなに字が大きかったら内容が薄くなってしまいそう。少し小さくしたら、もっと薄いテキストが作れるんじゃない?

ちょっと考えてみて、教師にとって字が小さいのは辛いのかな、だから大きくしてるのかなと思う。多少内容が薄くなっても教師がいるから問題ないってことなのかも。

一部のマニアを除いて、教科書や参考書はできだけ薄くて小さいほうがいいと思う。あんなのたくさん持ち運ぶのは大変だからね。


使い込んで汚くなった参考書の印象って、人によって違うよね。

使い込んだ汚れに愛着がわくってタイプと、汚くなったから捨てたいってタイプ。もちろん、雑に扱って汚いのは論外。

キレイな本はお店にあるし、ほかの人が持ってる本と同じ。でも、何度も手にして読んだ本は自分だけのものになる。

ほかのものでもそう。新品のままが好きで、少しも傷がついたらもう要らないって人がいるかもしれないけれど、その傷にも思い出があったりする。たとえばそれがクルマだったりすると、あそこに旅行へ行ったときにやっちゃった凹みだったな、とか。


一回見れば覚えられることってある。私の場合だと、なぜかカタカナ語は覚えやすい。

思い出すときに記憶が定着するとか強化されるって話があるけど、それって誰でもおんなじなのかな。

そうそう、料理用語とかは頭に入らないらしくて全然記憶に残らない。

興味があるものは覚えやすいっていうけど、興味だけの問題でもなさそうだ。

大きな失敗をしても、本人が反省してなければ何度も同じことをしてしまうだろうし。そんなときは脳に記憶として刻まれないんだろう。

単語帳でも、短い文で覚えるとか長文で覚えるとか、語呂で覚えるとか。いろいろあるようだし。人によって記憶の方法もさまざまなんだろね。自分に合うやり方を見つけるのが大変なのに。


答えが合ってればOKで疑問を持たない人、合ってても納得いかないからわからないって言う人。わからないにもいろんなパターンがある。

ただ暗記すればいいことに疑問をもつのも悪いことじゃないけれど、そんな理解の仕方ばかりしてたらいつまでも先に進まない。こっちは先人が長い時間かけて積み重ねてきたことを短い時間で学ぼうとしているんだから。

なんでそうなるのか、そうなってるのかを考え過ぎないように。ときには、そんなもんなんだって受け入れることも大事。

記憶するにはなんらかの形で理解が必要だと思うんだけど、理解にも性格というか頭の癖みたいなものが影響してるのかな。へえー、そうなんだって思いやすい脳はすんなり頭に取り入れるのかもしれないし、そんなわけない、なんで? って思う脳はなかなか頭に取り入れないのかも。

それに、わかったって感覚がないと納得できないって人もいるだろな。試験に合格すればいいって人は気にならないかもだけど。

あとは尊敬できない人の話は頭に残らなかったり、尊敬する人や本から教わると頭に入りやすかったりもするだろうし。

教えるのって大変やね。なんとかして理解しようって気持ちはあるけれど、私は教えるのが苦手だ。

そんな見方もあるか、っていう勉強になるけどね。

参考書をいろいろ見てみる

たとえば、英語の単語帳や文法書の基本例文について。

英語力を上げるために何度も読むといいのはわかってるけれど、何度も読みたくなる内容かというと疑問だ。どうしたらこれを何回も読み返せるだろ。

なぜかって、あんまり内容に面白さを感じられないから。でもそれだと、飽きないように何冊も本が必要になってしまってよろしくない。お金はかかるし、本を置くスペースには限りがあるものだからね。

それに、せっかく本になってるものを一度しか読まないってのはもったいない。やはり環境のためにも何度も読み返す工夫をしなければ。

本来、複数回読めるようにしっかり考えて作られた文章だと思われるので、ただ読むだけじゃなくて吸収しつくすつもりで付き合おう。作っている方々の努力はなかなか読者に伝わらないものだ。

だいたい、単語帳も文法書も1冊あれば十分。すべてを学び切ることができたらほかの参考書なんてなくてもいいはず。

それなのに参考書の数が多すぎるから、学習者が1冊から吸収しつくす前にほかの本へ移ってしまう。商売的に仕方がないのだろうけども、ちゃんと評価されていない本もあるんじゃないかな。

どれも同じようなことが書かれていて、ちゃんと読めば理解できるはずなのに、少しわからないだけでほかの本へ。

確かに複数の本を並行して見ると視点が変わって理解できることもあるけれど、メインで進めるのは1冊に決めておきたい。そうでないと学習項目に抜けが出るだろうから。

1冊をやりつくすってのは難しい。資格試験でも満点を取らなくても合格できるから、なかなかそこまでやり込んだりしない。

極めるまでやって、ボロボロになった参考書ってかっこいいなと思った。といっても、扱いが雑なだけでボロボロなのはダメだよ。コーヒーをこぼしたり雨に濡れてるんじゃなくて、丁寧に扱ったのにボロボロになってしまった参考書だよ。

でも、いろんな参考書を見てみるのは楽しいよね。

多書きとか多動とか

英語の多書きってのがあるようで、英語の多読の逆バージョンらしい。

多聞きって言葉は聞かないけど、聞きながらって繰り返しやすそう。前に車を運転しながら聞いてたら、自然に結構覚えてたから。

日本語の多書きってのも効果ありそうだけれど、あんまり聞かない。毎日日記をつけるような感覚かな。

頭に浮かんだことをただ書いていく。脈絡も関係ない。話したくなったことを口にする前に書くだけ。

多動ってのもあるか。とにかくたくさん動く、みたいな。


昨日書いた、なれるとよくなるって話。

クルマとかも、メーカーを変えると初めは運転しづらい気がするもの。でも、そのうちなれる。何も思わなくなる。

なれるまでが面白いといってもいい。思った通りに動かせない、もどかしさ。ドアロックを解除して乗り込むときから降りるときまで、体になじんでくるまでが楽しくて何度も乗りたくなる。

そういえば、クルマもバイクも同じメーカーのものを乗り継いだことがない。

いつも車種で選んでるから、メーカーで選んだことがない。次もこのメーカーで、なんて決めてないし。整備はいつもそのメーカーの販売店にお願いしてるから、同じメーカーのクルマやバイクを見るけれど、次はこれに乗りたいってあまり思わない。ブランド戦略が効かないタイプなのかも。

作る側としては、いいって思って作ってるだろうから、めんどくさくても使ってみるべし。

ま、いつもと違うのはすごくめんどくさいんだけど。

この、めんどくさいって思うのは脳のしわざって話だったな。脳は新しいことをするのが嫌いなんだとか。

でも、なれるのは早くて、なんとかしてなれて楽しようとするらしい。それでなれちゃう、すると安心する。

なれると今度は退屈になる。けども、新しいことは面倒だからしたくない。それが脳なのだとか。

脳さん、あんたが1番めんどくさいよ。

楽が好きで新しいことはしたくないけど退屈は嫌い。それなのに、いやいやでも新しいことができるようになってくるとだんだんやる気が出てくる。変なやつ。

だるくて暇を感じるときって、何かにトライするべきときなんだろな。

簡単なことに取り組むのもいいけれど、それでもやる気が起きてこなければ、打ちのめされるくらい難しいことをやって悔しい思いをしてみるとか。そしたら少しは、くそっ! って思ったりしないだろか。

あ、このときやってみるのは初めてのことがいいかもね。それならできなくたって落ち込んだりしない。できなくて当たり前。

多書きみたいに、多くやってみるのもいいだろね。反復ってのはとても役立つだろうから。

同じことを繰り返しやるのは楽でしょ、たぶん飽きるけど。思考はしなくていい。

飽きたら、ほかのことをしてからまた戻ってきたらいいし。なんで続けられないんだろう、とか考えないで夢中になれそうな方法を探しながらやると上達できるかもよ。

むしろ上達とかも考えないほうがいいかな。

筋トレとかも、やりすぎるよりも適当に休みながらやったほうが成果が出やすいんでなかったっけ。

ではまた今度。

使い込むとか、なじむとか

使い込むってのはどういうことなんだろう。

教科書とかでも、乱暴に扱うことが少なかったのかキレイなままだった。

といっても、勉強してなかったわけじゃない。先生から線引きをするように言われたところは仕方なく線を引いてたけど、それ以外に何も書かないって感じ。

そもそも、大事ところは太線で書かれていたり色付きになってたりするので、書き加えるのはテキストに載ってない内容を授業中に聞いたときくらい。

何色も使われると大事な部分がたくさんあるように思えて、かえって見づらく感じてしまう。

キレイだからって、使い込んでないとはいえないと思うんだよね。


いつも使うものでも、たとえばキーホルダーなんかでもそう。いつの間にか使い始めて16年目だ。

財布も11年くらい使ってる。でもこっちはネットショッピングやら電子マネーの利用が増えたからだな。

ボロボロになるまで物を使う人が増えたら、物は売れなくなる、だから物は高くなるだろう。

そうなれば仕事は減る。でも、楽になってもこれまでと同じ収入にはならないらしい。安い値段で商売をする人が出てきて、価格破壊が起きるだろうから。

どうしても利益のために競争したくなるんだろね、人って。


参考書に話を戻すと。本によっては書き込むスペースがほとんどないものもあるよね、辞書みたいに。それでも書き込むときは書き込むんだろうけども。

反対に、ゆったりレイアウトでいくらでも書き込めそうな本もある。解答欄もないのに。

空白が多いほど、凝った文字修飾がなくても、着色されてなくても目に留まる。

かなり奥が深い。専門の方はすごく研究してるんだろうね。

ただ、そうしたものの多くは第一印象に影響するもの。最初はフォントが嫌いだったり見づらいと感じたものでも、慣れてくると気にならなくなったりよく思えてきたりもするから不思議。そのうち、このフォントとレイアウトだからいいんだ、とか言い始めたり。


なじむまで使う、やってみるってのは案外大事。人って結構すぐ慣れちゃうものだからね。

絶対だめ、嫌。だったのに、もうそれしか考えられないってなったり。いや、出会いが悪かったものほど、相性がよいといってもいいかもしれない。

合うものを探すのに時間をかけるか、なじむまで使ってみるか。どっちでもいいけどさ。

本は何回も開くもの

参考書の理解度は、読むタイミングだけでなくて、読み方にもよる。

中古本の初めの数ページだけ本を広げた形跡があったりマーキングがされていて、その先はまったく読んでなさそうだったりすると、気合いを入れて読もうとしてたんだなと思う。

最初っから全部理解しようとすると、ちょっとつまずいたときに読むのをやめたくなってしまうからオススメしない。ただパラパラとめくるだけでいい。

読み始めるときも前から読む必要はなくて、全体を適当に。1冊の本にするためにまとめてるだけで、理解しやすい順に並んでるわけじゃないから、どこから読み始めたっていい。

最初から読むにしても、1回ですべて読もうとしない。参考書ならまずはコラムだけ読んでみたり、例題だけ最後まで見てみるとか。それで、もし気が向けば練習問題に取り組む。

見出しだけ見てってもいいし、ページを最後までめくるってだけでもいいので、とにかく気軽に本を開いてみる。時間を空けてから読むと、前に意味不明だったことがよくわかることもあるからね。

「ながめる」とか「とりつく(ねばり強く集中する)」って読み方もいいと思う。物語ものは最初から読むものだけども、案外これを無茶苦茶に読むのも面白いかも。

余談だけど、小学校一年生の授業で国語の教科書を初めて開くときに、まず表紙に折り目をつけるように指導されたのを覚えてる。表紙はのどまで開きたい人なので、今思えば嫌なこと教えるもんだなって思う。

表紙の途中に折り目をつけると本が変形してしまうし、読みにくくなるから嫌だ。授業で使うときには教科書が閉じてしまわないようにってことだろうけどさ。

悩むのをやめよう

考えるのもいいけど、なんとなくって感覚や感情に従うのも大切。というか、勘のようなものに従ったほうがいいかもしれない。

考えると、結論が出るまで動きづらいし、結論が出てからも不安がつきまとってくる。

勘にはそれがあんまりない。そもそも、そうしようと決めた根拠がないからかな。ぐるぐる思考に入りやすい人に向いている。

でも、何かをしようかやめようかって考えてるときは、したいから考えてるわけでやればいい。やめようかやろうかってときはやめたらいい。簡単なことだ。

食べようか太るからやめようかってときは食べたらいいし、買おうかやめようかってときも買ったらいい。

だって気になってるから考えてる、いや悩んでるわけで。こんなときは悩んでるだけで、考えるとは言わない。

だから、悩みの解決方法は簡単。やればいい。

そんなわかりきったことでも、なかなか気づかない。自分が悩んでるってことに気づかない。考えてるって思い込んでる。

頭の中を客観的に見るようにしないと。

ドリル、問題集について

ドリルや問題集があまり好きではありませんでした。

テキストに直接書き込むのは嫌だし、答えだけを紙に書くのも面倒。だから問題は頭の中で解く。そうしていると、テキストに解答欄があるのが無駄に思えてくる…。

特に学生のときは、書き直したり解答欄に収まらないことがよくあったので、消しゴムで消して修正したりしてしてると消しクズでテキストが汚くなりがちで、そういうのも嫌でした。

そういえば学生を卒業してから、試験以外はボールペンしか使わなかったな。

あと、ドリルって記入できるように作られているので、ページ数の割に内容が薄く感じてしまったり。

でも、今になって問題集形式のものをやってみると、当然のことながら読むだけよりも理解できる。まあ、今でも直接書き込みはせずに紙に記入してるけど。

それに、させられるんじゃなくて自分の理解度を知るためにテストをしてみると、わかってないところがよくわかる。もともとそのためにテストってするんだけど。学生時代、1日に何回も小テストやらなんやら、テストをやらされていた記憶のせいか、あんまりイメージがよくなくって。

そんなことをしていたら、いつの間にかドリルっていいなと思うようになっていた。なんでだろ。

勉強って、将来の生活のためや誰かと競うためにするんじゃなくて、そもそも自分の知識欲を満たすためにするものなんだろうね。

学習、トレーニングについて

計算ドリルをするのが算数の役に立つのか、と言われると役立つと答えるだろう。

英会話をするには実際に口に出さないといけないだろうし、スポーツだって。たとえば野球にはキャッチボールや素振りなどの基礎練習があると思う。

でも算数でいえば、計算だけのドリルをいくら解いたって国語の能力がなければ、文章問題には対応できないかもしれない。

何か解く目的のある問題を見据えての計算ドリル、基礎トレーニングをすることが必要で、ただ計算だけしたり素振りをするだけでは目的の達成は難しい。

目標がなく、学習やトレーニングを楽しむというのも良いと思うけれども。

試験に合格するために勉強するなら、別にその学習の面白さを感じる必要はない。点数が取れればいいわけだから、楽しくなくても仕方がない。

逆に大人の学び直しのように、特に目的のない学びは楽しいかもしれないけれど、試験を突破するのは簡単ではない。

どっちが良いってことじゃなくて、バランスなんだと思う。意外と意味のないことのほうが楽しかったりするものだから。

試験対策の問題集は試験が終わったら用済みになりがちだけれど、試験に重点を置き過ぎていなければたまに読み返す価値があったりするから、捨てないでおくのもいい。

試験に合格しなかったら意味がない、試合に勝てなかったら意味がないという風潮ではなく、学問やスポーツをすること自体を味わえる環境になっていくといいなと思った。

音読って面白いね

英語の例文集が手に入ったので読んでみた。いわゆる音読ってやつだな。

といっても、ちゃんとした発音ができてるわけでなく、口に出して読んでみただけ。これって案外楽しい。紙に書き写すよりずっと気分がいい。

言葉ってもともと声に出すものだからなのかな。

日本語の音読もそうなのかもしれない。子どものころはよく国語の授業に音読させられてた。そのときにいい気分だった記憶はないけど、そんな経験が影響してるのかも。むか〜し使ってた頭の回路を使った、みたいな。

嫌なことを考えるだけならまだしも、嫌なことを口するのはよくないって聞いたことがある。言葉を口にしてしまうと、自分の声を自分で聞くから、それが暗示のようになるって話だったと思う。だから、いい言葉を話しなさいと。

基本英文のような短い文章は構文を理解するためにあるようなもので、あまり内容のあるものはない。これといった脈絡のない、辞書の例文のようなもの。たまにプッと吹き出しちゃうような面白いものもあるけどね。

そんな言葉がなぜか好きだ。深刻な気分になるような心配事やケンカ腰の言葉みたいなものを口にするくらいなら、例文を音読したほうがマシ。それに面白くてためになる。

まとまった文章は読みたくないから(まとまった英文は読めないから)、スキマ時間にちょっと読める短い例文読みを習慣にしていきたい。

何度も楽しめる喜び

近頃あまり感じなくなってたことで、昔はよく感じてたこと。

好きなクルマに乗って、運転して。疲れるまで運転したのに、また何日か経つと乗りたくなる。そんなこと。

昔より本を読むのは好きになったけど、ただ読み散らかしてるだけ。何度も読み返したくなるようなものはほとんどない。

これは本だけじゃなくて、音楽やゲームなんかもおんなじやね。

よくできてる、長年作られてるものって、ほんとに何度も楽しめるものが多いのかな。

歳をとると新しいものを受け入れにくくなるっていうよね。頭が固くなるって見方もあるけれど、それまでに出会ったものの良さを再認識してるのかもしれないじゃないか。

長い時間をかけて作り上げる作り手が、飽きることなく楽しんで作ったものなら、長く楽しめるのかもしれない。

それが、懐が深いというものなのか。

使い捨てのように一回触れただけで、すべてを知ったような気になるのはもったいないようにも思う。

たとえば本を読んで、「あー、面白かった。また最初から読もう」と思えるようなものに出会うってのは幸せなことだと感じた。

人のことのように考えてみる

困りごとを自分のこととして考えると、自分の気持ちが邪魔をするのか、うまく考えられないときがある。そんなときは、ほかの人が困ってることを考えるつもりで考えてみるとうまくいきやすいように思う。

メタ認知ってものなのかな。

ただ、人のこととして客観的に対処するとどうでもいい対応をしてしまうこともありそうだから、自分にとって大切な人にアドバイスするつもりで考えないといけないだろね。

でも、大切な人にアドバイスするつもりで考えてみても行き詰まりを感じそう。それってのは、頭で考えてもわからないことがたくさんあるから。

いくら考えたつもりでも思ったようにはならないし、逆にもうダメだと思っていたことが案外いい方向に進んで行ったりすることだってあると思うし。

僕に特殊な予知能力はないからね。

かといって、メタ認知だけで自分を見ていると、ただ冷静に見ているだけになってしまってなんの面白みも感じなくなりそうな気がする。

結局どうしたらいいんだっていうと、いろんな本なんかでいわれてるように、その時々の気持ちで決めていくのが良さそうに思う。

過去を思い出してあのときこうしてればって考えても、それは自分の頭の中の想像だから実際に想像通りになるとは限らないわけで。

「人のことのように考えてみる」ってことで書きはじめたけど、「今のことだけ考える」だったかな(笑)

ではまた今度。

どう感じるかは触れるタイミングによる

辞書のように使う本を読んでみたり、順を追って解説している本を読んでみたり。いろんな角度から書かれている本をいくつも読んでいると理解しやすくなる。つまりは頭に入りやすい。

同じ本を続けて何度も読むのは、なんといっても飽きてしまう。パラパラと目を通したら、ひとまず置いておいて他の本へ。他の本で何か引っかかることがあったときに以前読んだ本に戻ってみると、そういうことか!ってなるのが面白い。そういう意味で、本ってのは何度も読めるもの。最初はあまり価値を感じなかった本が、あとですごくわかりやすく感じることもある。一度読んだだけで手放したくなるような本もあるかもしれないけれど…。

音楽もそう。メロディがいいと思った曲が気に入って何度も聴いて、そのうちくどく感じるようになってしまったり。はじめて聴いたときにはパッとしないと感じた曲が、何度か聴いて流れを覚えたあとにとても心地よい曲に変わったり。

まあ、紙の本や音楽CDの場合は内容が変わるわけじゃないから、自分の感じ方が変わってるわけだけど。出会うタイミングってのが大切なわけで、どんなものにもつくった人が伝えたい何かが込められているんだと思う。だからもし、その時点の自分に合わなくてもダメなもの扱いするのはよくない。ちゃんと表現されているのに、気づいていないだけってこともあるだろうから。

この間、前に一度流し読みした本を再読した。はじめに読んだときはあまり興味を感じなかったのだけど、なにかのきっかけがあって読み直してみたわけ。そうしたら意外なことに最後まで興味深く読むことができた。とっても面白かったから、その作者の他の本も読んでみることにしたくらい。最初に読んでから3年くらい経っているので、少し頭の中が変化したのかもしれない。

確かこのことって何度も書いてる。でも、不思議と何度も書きたくなる。僕が影響を受けやすいだけなのかもしれないけども。一度嫌いだと感じたものでも、時間を空けて触れてみると感じることが違うことは多い。興味を感じなかったことに興味が出てくる。時間が経っていなくても、気分が違うときに触れるだけでも感じ方が違うっていう。

それでもやっぱりダメってこともあるだろうけど、ダメじゃなくなってることもある。今ダメだったことは、まだまだダメってだけなのかもしれないし。そうだとすると、また出会う機会を楽しみにしていられる。そういうのって面白いなって思った。

したいことを長く続けるために

この間の話の逆で、物事を長く続けたいときにはどうしたら?って考えてみる。

たぶんやり方は簡単で、もう少し続けたいって思うところでやめておく。言うのは簡単だけど、実践するのは難しい。興味を持ってて続けたいことはなかなか中断することができないから。

終わりのないことをやってるんならともかく、ある程度終わりが決まってることをしてるなら、中断しながらゆっくり続けていったほうが長く楽しめる。

ゲームをしてて最後が見えてきたときに、終わらせるのが嫌だからそこでプレイを中断するのにちょっと似てるかな?

やめたいことは一生懸命に続ける、続けたいことは中断しながらゆっくり進める。

なんだか逆説的な感じ。

でも、長く続けるっていうのは長い時間続いてるってだけで、濃度としては薄いものかもしれない。そう考えると当たり前のことのようにも思えてくる。

人間関係の「濃く短い」と「薄く長い」は似たようなものかもしれないし、同じ金額を使っての「短期旅行」と「長期旅行」だって大差はないのかも。

もしかするとこういった物事にも、「〇〇保存の法則」みたいなのが成り立ってるのかもね。

いい歳だから〇〇って何に気をつける?

体の健康について、「いい歳だから気をつける」という話を聞いて思った。

いい歳って何歳くらい?ってのはよくわからないから考えない。まあ、中年になるとこれまでの不摂生の影響が出てくるから、体のことを考えた生活をしていかないとねってことでしょう。実際大きな病気にかかるのもこのあたりだし。

体は仕方がないとして、心についてはどうだ。「いい歳になったんだから、子どもみたいな考えかたをするな」ってことだろうか。確かに頭の中も相応に老けてくるもの。でも、それは体の老化に比べるとホントに人それぞれ。前に本で読んだ博士か教授だかの人が、「歳をとっても意識は子どものころと何も変わらない」というようなことを書いていたのが印象的で、頭の中と体とはかなり違うらしい。

見た目が老人になっていくのは、どうやら生き物である限り仕方ない。とはいっても、頭の中までいわゆる老人らしくなる必要はない。もちろん、老人らしくなりたいならそれも良いと思うよ。案外そのほうが生きやすいかもしれないし。

で、改めて「いい歳だから気をつける」ってのは何だろうって考えてみると、常識的には年相応の生活と考え方をして、周りに合わせて生きていきなさい、ということでしょう。

そんなのはわかってる。ただそれじゃ、歳を重ねるごとに塞ぎ込んでいくだけ。だから、別の解釈をすることにした。「いい歳だから(周りに影響されすぎず、自分らしく生きられるように)気をつける」って考えてみる。

常識がおかしいとか言うつもりはない。頭の中で考えてるだけでほかの人に害はないんだから、いいよね。