書いて浮かべるブログ

書きながら考える

のんびりしたい私のアタマノナカ

無駄の価値

辞書の積読が増えてきた。さすがに全ページを読むことはできないので、つまみ読みしているだけで読みきれない辞書が溜まってくる。辞書以外の本が小説なら読んですぐ手放せるのだが、小説の類はほとんどない。問題集やら文法書やらが好みで、一度読んでおしまいといったタイプのものではない。辞書は言ってみれば実用書、逆に言えば全く読まずに手放すことも可能な本たちとも言える。残念ながら、住処を変える際には処分することになるだろう。置き場所の問題というよりも運ぶのに手間がかかるからだ。いつの間にか増殖していき、そのうち勝手に消えていく。まるでアポトーシスのように。

積読エントロピー増大の方向に進み、自然淘汰されていく。せめてゴミ屋敷ならぬ、汚部屋化する前に無と化してしまいたいものだ。大きくなったものは滅び、新しく生まれ変わる。だから増加するのを無理に制御するつもりはない。一気に栄えれば一気に滅びる。短い時間でのめり込んだものは早く飽きが来てしまう。一生のめり込みたければ、程よい距離感が必要だというが果たしてそうだろうか。深くのめり込めばさらに面白くなるのではないだろうか。ハマりすぎて飽きるのは、自分で楽しみ方を考えずに誰かの遊び方を真似しているからじゃないだろうか。

頭の中にも新陳代謝が必要だという。しかし、都合の良かった思考回路が新しい習慣に置き換わって、以前より生きづらくなることもあるのではないか。うまく適応できていたことに、適応できなくなる。周りの環境が絶えず変わり、自分も常に変化していく。知らないうちに周りとの間に軋轢が生まれる。それは仕方がない。どちらも変わらないわけにはいかないのだから。

実店舗では、レジから人がどんどん消えている。万引き対策なのだろうが、店の出入り口が一方通行になったりして、商品を選ぶ自分たちが生産ラインの中の1部品のような感覚になる。セルフレジという名のサービス低下。商品の価格を安くするという名目で消費者の手間を取らせる。支払い方法が選べて便利なように思えても、いつまでも統一されない決済手段を見ていると、現金がたった一つの電子マネーになるだけで良かったのではないか、と考えさせられる。

そのうち、レジに人が立っている方が貴重な世の中になるだろう。手作りという言葉が特別に感じられた時代のように、自分自身で商品を袋詰めするのではなくて笑顔の人が会計をしてくれる、そこに価値を感じて高い金額を払ってくれる人がいるかもしれない。なにしろ少し前までは、買い物かごの中の商品をバーコードリーダーにかざして、レジ袋に入れてくれるのは店員さんだったのだから。その作業を顧客自らが行なっているのに価格が安くなるわけではない、それならネットスーパーを利用した方が楽だ。ただし、送料の問題があるのだけれども。

効率を優先しすぎると人は不要になる、人は効率的な存在ではないのだ。森林や海、人間以外の動物にとっても、人がいない方が自然と調和した状態になっていくはず。効率を大事にするのが良くないというよりも、おそらく人の考える効率化が正しくないと思われる。非効率なことの中にこそ楽しみがある。無駄に見えること、ものにも豊かな価値が存在するのではないかと思う。