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書きながら考える

のんびりしたい私のアタマノナカ

認識を味方にしよう

天気が良くないと気分が少し落ちる。そんなのは良くない、自己管理がなってないと言われそうだが、天候に影響されるのは仕方がないことだと思う。逆に天気に左右されないのは不自然ではないか。それでも社会と関わる際はいつもと同じように振る舞うことが求められる。

本音がわかった上で普段通りを装うのはまだいい。本当の気持ちを感じないようにして、まるで感情のないロボットのような態度を取るのはやめた方がいいだろう。どちらも周りから見ているだけでは違いがわからないのが厄介だ。本音と建前はあっていいと思う。でも建前を本音だと思い込んでしまうと、本音の行き場がなくなってしまう。

よく晴れた日は鳥たちが鳴いているが、そうでないときにはシーンとしている。それは住宅地でも同様。人間も天気が悪いときに元気いっぱいというわけにはいかないようだ。気分がいいと口笛や鼻歌が出やすくなるのと似たようなものか。

辛いときや悲しいとき、あえて笑ったり前向きな言葉を口にすることで気持ちを切り替えることができると聞く。自分をコントロールする必要があるときはそれもいいと思うが、常にポジティブで楽しげな気持ちで満たされていればいいのだろうか。それはつまり、明るいことが良くて暗いことが悪いと言っているようなもの。明るいことと暗いことは表裏一体。明るさは暗さがあるから成り立つものだし、暗さも明るさに対しての表現でしかないはず。ただのプラスとマイナスというだけだろう。

どんなに明るさを保ってもそれよりもっと明るいものは現れてくる。そうすると、以前明るかったものは新しく現れたものより暗いものとなり、明るいものと暗いものといった対比が生まれる。結局は相対的なものの見方でしかない。単純に良し悪しを判断するのは難しく、それまでの文脈によって結論が変わってしまう。最初に気分が少し落ちると表現したのも、天気のいい日の気分が良いものとして考えたもので、気分が落ちるのを悪いことと解釈したから。晴日を浮かれていると考え、曇天は落ち着くと解釈することも可能だ。

本音が建前とかけ離れているときは、双方を強引に合わせようとするよりも、自分の気持ちを都合よく解釈する方がいいだろう。例えば仕事に置き換える場合なら、無理に気分を上げようとせずに今日は落ち着いた対応ができると考えよう。それが認められなければ別の解釈を考えてみる。おそらく自分の感じ方を変えることはできない、それができたら個人の存在意義がなくなってしまう。でも解釈を変えることならできるのではないだろうか。