書いて浮かべるブログ

書きながら考える

のんびりしたい私のアタマノナカ

誰が何を言うか

僕らは、人の言っている内容そのものに、あまり興味がないらしい。

たとえ私が素晴らしい内容のことを話していても、上半身は裸でトランクス一枚の格好なら、少なくても見知らぬ人にちゃんと話を聞いてもらうことは難しいだろう。

逆にたいした話はしていなくても、オーダーメイドのスーツを身にまとって、どこぞの社長のように見える風貌であったなら、一人くらいは話を聞いてくれる人がいるかもしれない。

口下手な有名人が深いことを考えずになんとなく語った言葉でも、それを聞いた人たちがいろんな想像をしてくれるらしい。周りが勝手に含蓄のある言葉というとらえかたをしてくれることもあるようだ。

つまり、ある程度は尊敬している人の話でないと、聞く耳すら持っていないということ。デフォルトの状態では片方の耳から反対の耳へ抜けてしまって頭に入らないし、頭に入ったとしてもどうでもいい内容に聞こえてしまう。それは、サラリーマンには口うるさい上司の説教かもしれないし、子どもにとっては親や教頭先生の小言なのかもしれない。


書物に載っている内容でも同じなのだろうか。

書かれていること自体には興味があって知りたいことなのに、著者の文体が嫌いだから記憶に残らないこともあるような気がする。

私は言葉を使うのが仕事ではないので経験したことはないのだが、小説を書いたり詩を書いたりする人はどうなのだろう。書いた人が意図していないかたちで理解される、というようなことはあるのだろうか。

例えば、ある作家がなんとなく書いた文章を評論家がいいように解釈してくれて、作家の思いとはまったく違ったかたちで評価されてしまったりとか。

もしそんなことがあったとしても、文章を書いた作家が本当のことをいうことはないだろう。評論家の解釈を自分のものとしてしまうかもしれないし、無意識にそう思い込もうとするかもしれない。それに、いくら作者とはいえ人は常に変わり続けていくものだから、月日が経てば書いたときとは違う考えをするようになっていることだろう。


どうやら、どちらかというと何を言ったかよりも、誰が言ったことなのかが重要なことのように思われる。そしておそらく、それ以上に大事なことは、その言葉と出会うタイミングなのだろう。いくら自分が必要としている言葉だとしても、ほんの少しのすれ違いのために心には響かないものになってしまうこともある。

何かピンとくるものを感じるというふうに、そういった感覚に気づけるような状態でいることは大切だと感じた。