書いて浮かべるブログ

書きながら考える

のんびりしたい私のアタマノナカ

しっくりくる言葉を選ぶ

私は中途半端だ。

平凡に雇われて暮らしてる、という言い方をしてもいいだろう。

だが、平凡・普通がいちばんとか言う風に教わってきた気もする。

そう言う意味では、平凡は悪いことではないのかもしれない。

逆に、中途半端はやめなさいという言葉も聞いてきた気がする。

やり始めたら最後まで、極めるまでやりなさい、って言う感じ。

使う場面に応じて使い分けるから、特に問題なく使われる言葉なのだろうが。

ところで、中途半端はいけないのだろうか?

そもそも、どこを終点にしたときの中途半端なのだろうか?

要は完全にやめてさえいなければ、まだ道半ばなのではないか。

興味や情熱を失っていることに、一生懸命になることなんてできやしない。

中途半端は良くない、なんて言葉は横に置いといて、興味のあることをしたらいいんじゃないか。

完全にやめてないから、中途半端ではない、と思っていれば。

例えば、まだ未完成、やってる途中とかにしておいたら。

あんまり気にしてなかったけど、こういう言葉の解釈の仕方によって、思考はかなり左右されている。

良くないことかもしれないけれど、都合の良くないことについては、都合のいい言葉を見つけて言い換えてみてはどうだろうか。

言葉に縛られ、影響されて、自分の気持ちを操作しようとしても、なかなかうまくはいかない。

そのうち、不満が爆発することにもなりかねない。

だったら、気持ちを中心に考えて、うまい言葉に置き換えてみたらいいんじゃないだろうか。

私は気持ちのままに生きていく。順風満帆でなくていい。

辞書は何て楽しいんだろう

辞書の例文を読むのは楽しい。

だから、例文が少ない辞書には興味がない。

とは言っても、楽しいだけで、何かの役に立つわけではなさそうだ。

まあ、多少は構文の理解や、単語の暗記に役立つことはあるだろうが。

でもなぜ、こんなことが好きになったのだろう?

学生のときは良く辞書を引いてたはずなのに、そんな風には思わなかった。

単語数は多かったけど、例文の少ない辞書を使っていたのかもしれない。

どこかで会った、

「本は引くもの、辞書は読むもの」

という言葉。

出会うタイミングが違ってたんだろうか。

やりたいことのまんなか

好きだけど、したいけど、今でなくていい。

前にずいぶん、よくやったことだから。

今は、ほかにもやりたいことがあるから。

嫌いになったのかと思ってたけど、そうじゃなかった。

嫌いになろうとしてたんだろう。

そうすることで、ほかのことができるように。

ほかのことをする時間、スペースをあけるために。

なんでもかんでも、すべてのことを同じように楽しみつくすことはむづかしい。

だから、ひとつずつ。

でもそのうち、いくつかがまとまって、一緒にできるような気がする。

共通点を満たした、一つのことにできそうな気がする。

そうなったらいいな。楽しみだ。

凄く眠い

なんだろうか、この眠気は。

春眠暁を覚えず、というものか。

いや、春だからってだけのことでもなさそうだ。

日記アプリを検索してみると、1ヶ月に一回くらいは「眠い」の文字…。

要は、いつも眠いってことだ。

繰り返して覚える

理解できたら覚えられることもあるけど、ただ丸暗記するしかないようなこともある。

それに理解できていても、空で言えるほど覚えていたほうが役立ったり、そうでないと実際には使えないこともある。

毎回考えなくていいから、たぶんアタマも楽。

ときには、分からないけど覚える、も必要なんじゃないだろうか。

そもそも、生きものはマネをして覚えてきたんじゃないだろうか。

犬だって、繰り返してたら少しずつ覚えてくるじゃないか。

気分が悪いときは寝る

イライラしたり、ムカついたりして止まらないとき。
こういうときに、つい暴走してしまったりしやすいもの。

だから、強制的でもいいから、とにかく寝よう。楽しいことを考えられなくても、せめて思考を停止、アタマをからっぽにして。

同じようなことを何度も書いてる…。よっぽど改善したいことなのだろうし、また書くだろう。でもいいのだ!私のブログなんだから。

基本は記憶

暗記、というより、記憶力について。

ずっと今まで、軽蔑というか無駄なことのように感じていたのだけど、そもそも記憶することができなければ、考えることもできないのではないかね?

過去に、関連性を持たせにくい事柄を、ただ暗記する必要はない、という風潮があったような気もする。しかし、意味もなく、ただ覚えるということも、大切なことではないだろうか。

そのときは、記憶の仕方を誰かに教わるだけでなく、自分なりの記憶法を探す必要がある。誰かのやりかたが自分に合うとは限らない。

これは、他のさまざまなことについても言えるのではないだろうか。

本の間違い

本に間違いがあることは、たまにある。
小説やエッセイなら、それほど問題ないが、学習参考書や専門書の場合は少し困る。

単純な、送り仮名の誤りに始まって、ときには、それまでの話と矛盾する説明がされていたりすることもある。

私でも気づくことだから、たいした内容では無い。
でも、さらに他の間違いがありそうだな、という予測をすることくらいはできる。

人のすることに完璧は無さそうだし、"致命的"でなく、"気がつく"ようなミスであれば、問題ないのではないか。

まあ、そんなこともある、と思いながら読むのがいいのだろう。
同じ分野の本を複数読むということは、"間違い探し"ができるという意味でも役に立つ、と思うようにしている。

ホントのところは、ただの興味本位で、いろんな本に手を伸ばしているだけなのだが。

一応、確実であろう間違いについて、出版社へ連絡してみた。
やはり、他にも誤植があるようで、版を重ねながら訂正しているという。

気になったのは、ウェブなどで正誤表を発表する予定はない、という回答であったこと。

なにも責めるつもりじゃないのだから、ちゃんと公開してほしいものだ。
致命的なミスではないそうなので、その言葉を信じることにしたいが、初めの方の版を買った人に、失礼だとは思わないのだろうか。

ところで、辞書のような本でも間違いはあるらしい(ページが多いから当然か)
実際にあった。書店で最新の版を見せていただくと、しっかり修正されていた。

うるさいですよ

私は。
細かいですし。

店とかに問い合わせをしても、おまかせではなく、詳しいことまで干渉したがる。さぞかしウザいと感じているでしょう。

でもね、ちゃんと理解したことについては、うるさくも細かくもない、と思ってます。

誰でもそうだろうけど、説明やら何やらでは納得できないことを、イヤイヤながらもやるとか、意味もわからないことをただ覚えるとかいうのは、大変苦手なんじゃないでしょうか。

たとえ、何の役に立たなくても、いろんな資料にあたったり、聞いてみたりして、「そっかー」って理解できれば、それでいいんです。ただそれだけなんです。

こういうのって、実は、うまく世渡りできない、お金持ちになれない性質なのかもしれません。

特に目的もなく、ただ、わかるためだけに、時間やお金を使っていく。
何かを成し遂げる訳でも、誰かの役に立つ訳でもない。

そう考えると、ホント、無意味なことしてるなー、って気もします。

でもね、そんなのが、私なのだ、と密かに思っていたりもするんです。
うるさく思われても、細かいと陰で言われても、しょーがないじゃん! そんなんなんだから。

ってことで、これからも傍目には、役立たず!とか思われながらも、興味のあることに振り回され続けよう、と考えてるところなんですよ。

新しければいいのか

普段持っていて、よく使う、iPhoneApple WatchだけはAppleCareの契約をしている。

Watchについては、背面の塗装剥がれで相談したことがあり、交換することもできるという話だったが、正常範囲だと思えたので、そのまま使い続けている。

そう言えば、iPhone4Sのときにも、契約期間ギリギリでバッテリーの減りが早く感じ、エクスプレス交換サービスを利用できますよ、という話だったのだが、設定やアプリを見直したところ、改善した気がしたので、そのまま。
今も家用のApple Music端末として活躍している。

結局のところ、AppleCareには入っているけど、損をしているような気もする。
ただ、電話サポートは利用させてもらっているので、安心料といったところか。

そろそろ、Apple Watchの新型が…という話はなさそうなのだけど、契約しているAppleCareは、あとひと月足らずで期間終了。塗装剥がれで交換してもらえれば、バッテリーも新しくなってラッキー、と思いたいところなのだが、何となく、素直には喜べない。

何というか、一応これまでの二年間、ほぼ毎日着け続けてきたという「実績」のようなものを、ただ新品(とされている)というだけのモノと交換するということに、違和感のような、嫌な気持ちを感じるのだ。
これが、Apple製品の話でなければ、修理という選択肢もありえるのだけれども。

新しいということは、魅力的である。
でも、これまでの実績というものも捨てがたく、充分に魅力的だ。

こういう風に思うのも、歳のせいだったり、時代のせいなのかもしれないが。

ずっと気になること

何度決めても、再び頭の中をぐるぐるしている出来事。

しない、と決めたことに多く感じる。

いろんな理由をつけて、納得させて、だから、しないと決めたこと。

なのに、またすぐ、どうしよう? と考えてる。

しない、って決めたことなのに。

理論的には、話の筋としては、あってるんだろうけど、納得できていないこと。

こんなことは、いくら時間をかけても、納得することができないらしい。

もう、やる、しかない。

やってみると、なんでもない。

ずっと考えてたのが、馬鹿らしかった、とさえ思えるもんだ。

正しさは不要

コミュニケーションを取るとき、論理的である必要は無いのだろう。

話の内容自体は、どうでもよい。いや、多少違っていてもいい、と言うべきか。

内容が正確か、と言うことよりも、こんな感じ、が伝わればそれでいい。
特に、何かの説明をするようなときには。

場合によっては、説明すら要らないのかもしれない。
そうなんだよ、とか、そんなもんなんだよ、という風に。

細かいことを伝えようとしながら話していると、場が不安定になったり、ときには壊れてしまうことがある。
そうなると、もう、話の内容より、ただの言い合いみたいになる。簡単に言うと、何やってんだろ?ってなことに。

昔の発言を取り上げるときも、そう。最後の最後には、言った、言ってない、になるだけ。

じゃあ、どうすればいいのだろう?

言い合いをしてまで、話をしなくてもいいだろう。勝ち負けは無いのだから。
正しさより心地良さ、どう感じ、どう思うかを目安にしたほうが、いいのではないだろうか。

話を聞くだけ

ただ、話を聞いて欲しいのだろうけど、聞いているうちに、こちらにも言いたい、聞いて欲しい、そんなことが猛烈に浮かび上がってくる。

そういうときには、どうしたらいいのだろう…。

とりあえず、無理矢理にこちらの話をねじ込もうとしても、上手く行かない感じだ。

じゃあ、ずっと聞いておくことにする?

それもなかなか難しそうだ。でも、ひと段落するまでは、聞いておくのが良さそうではある。

そこで、ある程度聞きながら、気になる、何か言いたくなったことを、メモしておくのはどうだろう?

そのメモが、ある程度溜まり、もう一度見返し、タイミングを見計らってから、こちらの話をする。そういうのは、どうだろうか?

話をしている本人としては、聞いてもらうだけでいい、意見は要らない、ってことなんだろうけど。
どうして何か言いたくなってしまうのだろうか。相当なお節介焼きなのだろうか。

コントロールできるうちに

どうしようもなく感じるとき。

うまくいかない気がするとき。

できないと思うとき。

なんでわかってくれないんだ、ってとき。

なんだかモヤモヤしてるとき。

生きにくいって思うとき。

どれも似たような表現だけど、つまり、結局、「ダメなとき」

すべてを「停止する」
そして、「寝る」

再起動で、回復する。
頭の言うことなど、信じてはいけない。

目がチカチカ

久しぶりにフルカラーの本を見た。

ベーグルとかコーヒーの載った本。

色鮮やかで美味しそう。

ふと、目がチカチカするのに気づく。

近頃は辞書ばかり眺めてたせいか?

見るのはモノクロ。多くて二色。

もしかしたら、花粉の影響かも。


先週は日記すら書けなかった。

しんどくて。

DAY ONEによると、去年もこんな感じだったみたい。

この時期はだるくなるようだ。

職場へ行って帰るので精一杯。

早く秋が来てほしい。