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「健全な精神は健全な身体に宿る」より

 必要条件ではないようなので、健全な身体には、健全な精神が宿っていることがあるくらいの意味だろうか。逆に健全でない精神の場合は、身体が健全な場合とそうでない場合が考えられる。
 しかし、健全な身体というのが健康のために食事のコントロールをしていたり、身体を鍛えるという意味だとすると、そもそも健全な身体を作るためには健全な精神が必要なんじゃないか。精神と身体の関係でいうと、身体が主で精神が従のように感じられるが、鍛え上げられた身体は放っておいても作られるものではないだろうから、やはりまずは健全な精神が必要だろう。
 それとも、オカルトのような話になってしまうが、精神でも身体でもない魂のようなものがさらに上位にあるといいたいのか。その流れでいくと、最初に魂が健全でなければならない。精神でも身体でもない何かが核にあり、それが健全であれば身体、精神の順に健全となる可能性があるといいたいのだろうか。

 もとより身体と精神には相関関係があり、どちらが上というようなことはないと思われる。
 先ほど話したように、身体と精神を客観的に見ているような何かがあるのかもしれない。それは魂のようなものなのか、精神の中にあるいくつかの意識のことなのかはわからない。それよりも、どうやら経験的に意識は統一された一つのものではないようだから、どこか一つの意識を自分自身だと思ったりせずにまんべんなく複数の意識に注目することが求められるのだろう。それなのにどれかをメインにして他のものを抑えようとしてしまうことが、病につながっていくのかもしれない。
 そう考えると自分自身などというものは、頭の中に思い浮かぶことを眺めているだけの調整役のようなものということもできる。精神の状態を調整するように、身体の状態を整えていく。座り過ぎていて身体がこわばってる気がする。食べ過ぎなのかお腹が重い感じがする、などの思い。自分にできることは、そんなものたちをコントロールすることくらいなのではないか。心身相関についても、関係があるというよりも心と身体は同じものだと考えたほうがしっくりくる。例えば、気分がすぐれないときに体を動かして行動を始めたら気分が変わった、という経験をしたことがあるだろう。
 そうしたことから、「健全な精神は健全な身体に宿る」という言葉が表していることは、心と身体のどちらのいうことを聞くかといえば身体のほうの声を聞いてみなさい、と言っているように受け取れた。