書いて浮かべるブログ

書きながら考える

のんびりしたい私のアタマノナカ

嫌いだったり興味の持てないものこそピッタリなこともある

やってみたり使ってみたりしないとわからない。でも、つい頭で考えてしまうもの。

辞典を選ぶにしてもそう。書店で何度も引いてみて、「これは使いたくない」と思った辞書があった。たまたまきれいな古本を見つけて買ってみると、それまでの予想はなんだったの?っていうぐらい気に入ってしまったりする。

気に入るといってもワクワクするとかではなくて、安心できるというか、何度も手に取りたくなるというか、まあそんな感じ。

結局のところ、例えば何時間も立ち読みしたとしても、そんなことは自分のものとして手に入れるのに比べたら、ほとんど当てにならないことなんだろう。かといって、候補のものをすべて買い揃えるには置き場所もお金も足りないわけで、何らかの判断はしないといけない。

「いいな」と思った内容のものが、自分のものとして使い始めると鬱陶しく感じられたり、逆にそっけなくて面白みを感じなかったものが毎日使うにはちょうどいいと思えたり。ほんとうにわからないものだ。

ただ、時間をかけてつくられたものについては、つくった方たちが長い期間かかわりを持ったなかで「これがベスト」という形に仕上げたのだろうから、見方を変えればどれも絶妙なバランスを保っているのではないかと思う。

だから「あれは絶対ダメだ」なんてものはそうそうないはず。もしそう感じたとしたら、まだ使い始めたばかりでよくわかっていないか、こちら側の見方があまりにもつくり手と違っているから。

自分に合うものがたくさんある人は好きなものだけを追いかけたらいいと思う。でもそうでない場合は、「なんでこんなふうになってるんだろ?」と考えてみると面白さを感じられるようになるかもしれない。そうなっている理由がわかって面白さを感じる見方ができたら、たいていのことは楽しめそうな気もする。

確かに、なかにはつくっている人たちが何の感情も持たないでつくられているものもあるだろうし、「前から使ってるし、それしかないから」といったように使うほうが何も感じていないものだってあるはず。それにしたって、使うたびにイライラさせられるわけではなく、十分に目的を達成できているのだから立派なものだ。

何気なく使っているものでも、たくさんの人たちの努力や苦労のおかげでできた可能性もある。きれいに保管してくれた前の所有者にも「ありがたく使わせていただきます」という感謝の気持ちで、ていねいに使おうと思った。