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のんびりしたい私のアタマノナカ

暇と自由

「今日は『暇』だ」と言うと「そんなに暇ならこれやってよ!」と何かを強制されそうだが、「今日は『自由』だ」なら強制はされそうにない、というように『暇』と『自由』という言葉にはそんな違いが思い浮かぶ。

確か、自由という言葉はもともと日本になかったと聞いたが、暇はもともとあったはず。

一日が過ぎ、何も新しいことを経験しないまま日が暮れると、何だか損をしてしまったような、自分がダメなやつになったような気になったりしないだろうか。『暇』よりも、自分で決めて動いたイメージを感じる『自由』の方が良い印象なのかもしれない。

暇という名の自由をのんびり楽しめない人が、時間を惜しんで忙しく動き回る。暇と感じられないように忙しそうに見せる。

単に「暇ならやれ!」という強制は嫌だけど、「忙しいところすみませんが…」と依頼されて自分で決定するのなら嫌な気はしない、というだけの気もするが…。 そこに至るまでの経緯や文脈を把握して、周りに気を遣いながら使い分けているのだろう。

だからこそ、「言葉が間違ってなければ良い」と思っているとうまくいかない。 空気を読むといわれるような、雰囲気をある程度察知して立ち回る必要がある。

頭の中で『暇』を使うのはともかく、他の人の前では『暇だ』を『少し空き時間がある』のように変換するのが良さそうだ、と考えてうまく立ち回る人を正常。そうでない人を異常扱いすることがもしあるとしたら、それはどうなのだろう?