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のんびりしたい私のアタマノナカ

AIという宣伝

宣伝ワード

CMで「AI使ってる」っていうのを聞いたときに、DOHCのステッカーのことを思い出した。

昔のクルマのドアなどに書かれていたアレである。加えて「16VALVE」とか「TURBO」などと書いてあることもあり、当時は誇らしい気がしたように思うのだが、今見るとなんだか恥ずかしくなってしまうから不思議なものだ。パソコンでいう「Intel inside」、「インテル入ってる」みたいな感じだろうか。

私はステッカーやシールを貼るのが好きなたちではないので、そういうものを見かけるとつい剥がしてしまいたくなるのだが、案外しっかりと貼り付けられていてなかなかキレイに剥がせそうにない。やっぱり自慢というか、大きな声で宣伝したい言葉なのだろう。


先ほどのDOHCもそうだが、そういったステッカーのようなものは、その技術が当たり前でないときに大きな効果を持っている。しかし、今のようにDOHCエンジンが珍しくもなんともなくなってしまえば効果はなくなり、そのことを声高々に宣伝するのが逆に恥ずかしくなってくる。今なら「OHV」とか大きく書いてあったほうが目立つかも知れない。


中身には興味がない

同じように、AIもまだまだ珍しいものだからよく取り上げられて宣伝される。よくわからないけど凄そう、というやつだ。たいした性能がなくても、AIという名前をつけたものが搭載されていれば売れる。こういった宣伝の仕方は正直感心しない。それではただの売名行為のように思えるが、内容を詳しく説明されても理解できる人が少ないだろうから、仕方のないことなのだろう。

過去、自動車メーカー各社の衝突安全ボディに付けられた様々な名前を宣伝していることがあった。アルファベットの頭文字を取ってきて、洒落た名前を作ったりしたものだ。その名前自体は変わらないまま技術は進歩しているはずなのに、今ではほとんど自慢をしていない。もう当たり前のことになってしまったからだ。


いずれAIについても搭載されるのが当然になってしまい、AIという言葉を宣伝に使うことはなくなっていくだろう。本当は名前よりも中身がとても大切なのに、商品を購入する人たちはその内容なんてどうでもいいようだ。ただ新しい技術が搭載されたものを所有していたいというだけ。だから、その頃にはまた別の新しい目玉が強調された商品を欲しがっているのだろう。「これからは◯◯だよね」とか言いながら。

MT車の効能?

疲れるのは仕方がない

運転をしていて疲れるということは、脳への刺激が多いということだと思う。だとすれば、疲れを減らすということは、脳への刺激を減らすということになる。そうなると、だんだん意識しなくても運転できるようになっていく。それは、極端に言ってしまうと無意識での運転を許可しているようなものだ。

集中しているから疲れる。その当たり前の疲れを軽減するために、集中していなくても楽に運転できるような装備が追加されたりする。運転する人の年齢や体の状況によっては仕方のないことだが、やり過ぎと感じることもある。


たいした注意をしなくても車をまっすぐ走らせることができる人に、車線をはみ出さないようにする機能は要らないし、右足を繊細に動かせる人にクルーズコントロールは要らない。ましてや、前のクルマが発車したら知らせる機能なんて意味がわからない。それでは信号待ちでスマホをいじったり、子どもの相手をしてくださいと言わんばかりではないか。

長い距離を運転するときに助かるのは確かだろうが、それよりも前にそうしたスケジュールを組んでしまうことをやめるべき。何度も休憩を挟んだらいいのだ。だいたい、丸一日走っても走れる距離なんてたかが知れている。なのに休憩しないで走り続ければ行けるとか、もっとスピードを出せば行けるなんて考えを持つような人は精神に異常をきたしていると考えたほうがいいのではないか。


趣味で乗るものではない

道路を今走っているクルマのほとんどはAT車である。MT車はクルマを操る感覚がいいとかいう謳い文句を見ることがあるが、そもそもクルマを運転することは危険なことである。このあとスーパーへ出掛けたら事故に遭ってしまい、人生終了となる可能性だって相当に高いのだ。でも、毎日のように通勤や買い物に使っているとこのことを忘れてしまいやすい。

楽に運転できるということを脳は喜ぶかも知れない。しかし、楽ということは刺激が少なく、何も考えないということにも近いから、ぼーっとしたままの運転を促すことにもつながってしまう。

良さげな面ばかりを強調するクルマのCMには首を傾げたくなるようなものが多いのだが、もうクルマはすでにただの生活用品である。個人的に操る楽しさという意味は理解できるものの、公道を走るクルマのCMでそれをアピールするのはおかしいのではないか。


マニュアルトランスミッションのクルマを選ぶのは、運転を意識するため。長いことクルマに関わっている人はもっと面倒なクルマでもいい。楽なクルマに慣れ過ぎて、気がついたら目的地に着いていた…。なんて恐ろしいことが無いように、シャキッとした気持ちにさせてくれるクルマを選ぶようにしたい。ある程度のリラックスは必要だが、癒しを与えてくれる室内空間なんて不要なのでは? そう思うのだが、いかがだろうか。

動物

動物というのは、「動く生き物」のことだと思っていた。


植物は動かないわけではないだろうが、人の目に明らかに見える早さでは動かない。そういうふうに、植わっている物のことは植物と呼んでいる。


動物は動きたくて動いているのだろうか。動きたくなくても動いてしまう物なのだろうか。

常に動き回るにはエネルギーが必要だ。動かなくても体温を維持するために多くのエネルギーを使う。何もしていないようでいて、脳は膨大なエネルギーを消費している。無駄なことではないだろうか。


動物はエネルギーをたくさん消費する前提で活動している。よく、飢餓に耐えて生き残ってきたという話を聞くことがあるが、それにしてはエコな構造にはなっていないように感じる。

使うかどうかわからないけど、とりあえずは生産して要らなくなったら再利用。そういう意味ではエコなのかもしれない。しかし、それなら要るときに作るというシステムにはできなかったのだろうか。


リサイクルができるから、何度か再利用してもいいじゃないか。ということなのだろう。


工場の生産ラインでは大量に作ることで価格を下げることに成功している。

体だってそんなものなのかもしれない。

たくさん作ることで生産能力を維持する。作り過ぎた分は分解してまた使えばいい、というように。


用不用の法則というものがある。限界を超えない範囲で頻繁に使用する器官は発達し、使用しない器官は衰えていくというものだ。

これは生き物だけに当てはまるものではないだろう。

機械などの場合、新品は確かに重宝される。それでも、新品が機械として最高の状態ではないということも知られているだろう。今でもまだ、ある程度は動かしてやらないとスムーズに動かないというもの。はじめのうちは使い物にならないというものもある。


どうやら、少なくとも動物については「動く生き物」というよりも「動かないといけない生き物」のようだ。

動かないと運動不足になってしまう。運動が不足すると、不都合なことが起きてくる。それは、体のシステムが動くことを大前提にしているからだ。逆に、動かないことを前提にしているのが植物なのだろう。


世の中はどんどん動かなくてもいいように進化していっている。スポーツジムに通うなどすれば運動量を確保することは可能だが、3食きちんと食べるために運動するというのはエネルギーを浪費しているだけのようにも思える。

食べるということは、エネルギーを摂取するというよりも、ただ食べたいというだけで食べていることがあるからタチが悪い。そのためにわざわざカロリーの低い食料を作り出したりしているわけだから。

だいたい、食事の時間を決めたりしないといけないのだろうか。食べたくなったときに食べられるようにしておけばいいのではないだろうか。決まった時間に労働するために規則的な生活が求められたのだろうか。

忠告とアドバイスから思うこと

忠告とアドバイスについて思うところがあったので、書いておく。


大辞林によると、

【忠告】心を込めて、過ちや欠点などを直すように言うこと。

【アドバイス】助言すること。勧告。忠告。

と書かれてあるので、忠告=アドバイスなのだろう。

しかし、私だけなのかもしれないが、忠告の方がアドバイスよりもキツい感じがする。

そんなことはないだろうか。


次に、助言について調べてみると、

【助言】役に立ちそうな言葉をかけること。

となっているので、忠告よりは少しだけ柔らかい。

だた、わからないのが、助言の語釈にもアドバイスが含まれているということ。

つまり大辞林的には、助言=アドバイスでもあるというのだ。

ちなみに、【勧告】は、あることをするように説きすすめること。となっている。

アドバイスのほうから見ると、アドバイス=助言=勧告=忠告なのだが、左から右に向かうに従ってキツさが増しているように思える。


「◯◯にアドバイスをする」という表現はよく使われると思うが、助言する、勧告する、忠告する、などはどうだろうか。

自分としては軽いアドバイス(助言)をしたつもりなのに、相手から「忠告ありがとうございます!」なんて言われたら、なんだか説教をしてしまったような感覚になったりしてしまわないだろうか。


大辞林に限らず、語釈の堂々巡りについては、国語辞典にありがちなことだと思うので、あまりとやかくいっても仕方のないことだとは思う。

それに、人によって言葉の解釈は異なるものなのだろうから、うまく伝わらないことなんてよくあることではないだろうか。

実際、アドバイス=忠告と捉えている人もいるのだろうし、言葉を使ったコミュニケーションは難しいものだと感じる。


もしかしたら、これは言葉だけではないのでは?

人のしぐさを解釈する部分でも個人差があるのなら、おかしなことになってしまうだろう。

例をあげると、多くの人が「怒られた」と感じる状況で「褒められた」と感じる人がいてもおかしくはない。

怒られれば怒られるほど嬉しくなってしまうわけで、ある意味そっち系の人と同じなのだろうが。


認知行動療法だって、変なというか、普通とされる大多数の感覚を無視して行えば、ちょっと珍しい、不思議な感覚を持った人が作られてしまう可能性がある。

そういう部分があるのだとすれば、一般的な環境で育った人が天才的で特殊な人になるなんてことは、まずありえないのだろう。

いくら遺伝的に天才だったとしても、一般的な環境に適応し続けるなら、「なんか違うなー」と感じながらも周りと同じ感覚を持つようになっていくか、ズレに耐えられなくなって狂ってしまうのかもしれないな、と思った。

ないとおもうからほしくなる

「◯◯だから××できない」って、よく聞く話。

子どもがいるからとか、親がいるからとか。

それってホント?

ひとりで居て、気になることがなんにもなかったら「××できる」のかっていうと、そうでもないんじゃない?


「◯◯だから××できない」んじゃなくて、「◯◯だから××したくなった」んじゃないかな。

たとえば、子どもが居るから自分のためだけに生きたくなったとか、案外ありがちなことだと思う。

人って結構、できるときにはしたいと感じない。いつでもできると思ってるんだろう。

持ってるうちはいつでも使えると思って使わない。無くなるのがわかったら急にちゃんと使おうとしてみたり。

生きているうちはなんとも思ってなかったのに、亡くなるとなったら急に後悔しだしたり。


できなくなったから、したいと感じる。もしくは、できなくなったから、したかったことを思い出す。

そんなものなのかもしれない。

切羽詰まった状態にならないと、ホントのことなんて見えてこないのかもしれない。

そんな経験って、ない?


もしそうなら、ある程度は大変なフリをしながら生活をしていく必要があるんだろう。本当のところ、どうでもいいことだらけなんだけど。

その中で、「◯◯だから××できない」って口にしちゃったときに、自分に対して「それってホント?」っていう言葉を投げかけてみたらいい。

だって、それって全部ウソだもん。信じてしまったから、本当だと感じているだけ。


「◯◯だから××できない」って思い込んでるのは自分だけ。ちゃんと考えてみたらそんなことはないってわかるはず。

でも、頭の中がいっぱいいっぱいだから、ちゃんと考える余裕がなくなっちゃってて、のんびりしてる人を羨ましく思ったりする。

いやいや、別に他の人がラッキーってわけじゃないと思うよ? みんな大して変わらない。


ないと思ってるからほしいって感じるだけで、ホントは持ってる。

ないって思ってるから、なくなったと感じてほしくなる。

ただそれだけのこと。


いまさらあれはできない、ってのもそう。

面倒くさがりの頭がそういわせてるだけ。

それってホント?

いや、ウソ。100%完璧にはできなくても、なんとかする方法はあるはずだよ。

少なくても、「◯◯だから××できない」なんてことはないって気づいてほしい。

そんな考えに同意したりしなければ、絶対なんとかできるから。

見るのは前だけ


みなさん、友達はたくさんいますか?

ここにコメントをくれる人はいないのでよくわかりませんが、ほとんどの人は親しさに違いはあれどそれなりの数の友人がいることと思います。

問題はその友達とどれくらい親密でいるかということなのですが、これが結構難しいのではないでしょうか。

そんなの難しくもなんともないという方は、今回の記事を読んでも時間の無駄だと思いますので、”さようなら” です。


どこからが友達?

仕事上の付き合いだけならただの知人かもしれませんが、休日もたまにあってお茶するというような間柄になるとちょっとした友達と呼んでもいいのかもしれません。それでも話題となるのは仕事の延長線上ということなら、どういう関係と言っていいのか悩ましい状態ですね。

よほど込み入った話をできる関係でない限り、このような関係はただの知人といったところでしょう。そして、この程度の人間関係で毎日をやり過ごしているという方は多いのではないでしょうか。人によるとは思いますが、この程度の関係ならない方がいいと思う方がいるかもしれません。


ライフステージの違い

よく言われる関係としては、学生時代からの友人というのがあります。これは社会的な地位など余計な要素にとらわれずに築かれた関係ということで大切な友人という扱いをされることが多いです。

しかし、互いの人生のステージの違いによってはどうでもいい関係となってしまう可能性があります。それは結婚や出産、自身の出世に親の介護など本人に降りかかってくる人生のイベントのようなものが起こるときです。

こういったイベントの進行が友人と揃っていないときには、いくら学生時代に仲の良かった関係だったとしても関係が断絶してしまうことは仕方のないことだといえます。ステージがズレているときにまっとうなコミュニケーションを取ろうとしても、本当の意味で相手のことを理解することはできない。こればかりは仕方のないことだと言えるのではないでしょうか。


無理に干渉しない

そういったときに感じるやるせなさにどう対処したらいいのか。

簡単です。それは「干渉しないこと」

一年に一回、「新年に年賀状を送るくらいはしなくちゃ」そんな考えは無用。そんなことをしないくらいで切れる縁なら ”クソ喰らえ” です(汚いことはを使ってしまい、申し訳ありません)。

置かれている状況が違っているときになんとかしてわかり合おうとするのは無駄だといえるでしょう。そんなときには知らんぷりをしておくこと。なんならコッソリと連絡先を削除してしまうのもいいでしょう。どうしても気になるなら、メールアドレスや電話番号を控えたり連絡先を残しておくのもいいですが、当面の間はわかり合うことはできないでしょうから、消去してしまっても問題ありません。また何かの縁があるのなら、必ず接点があるはずですのでご心配なく。


新たな出会いもある

今回は、過去の友人との付き合いについて思いつくままに書き記してきましたが、友人との絆が弱くなってしまうことは決して悲しいことではありません。なぜならこういった出来事は、新しい人との出会いを暗示しているともいえるからです。

これまで、その人の情報が刻まれていた領域が解放されることで、別の人との関係が始まる可能性が開かれるということです。私たちの進むべき道は常に未来にあります。過去のことにこだわり過ぎず、ぜひ前を見て進んでいってほしいと思います。

犬と猫

犬と猫(いや、猫と犬か?)を両方飼っている人の描いた漫画が面白いらしい。

両方とも飼ったことがある人なら、よくわかる内容なのだとか。

犬はバカみたいにポジティブでキラキラした目をしていて、猫のほうはネガティブで毒を吐くトゲトゲしたキャラで描かれている。そのギャップで笑わせてくれるのだ。

私は犬としか暮らしたことがないのであんまり実感できないのだが、なんとなくわかるような気はした。


犬は外国語の辞書を見ててもよく書かれているように、どの国でも従順な生き物とされているようで、逆に良いイメージで捉えられていることは少ない。「ろくでなし」なんて書かれていることもある。

猫も良いイメージはないようで、「猫をかぶる」や「猫に小判」なんかは共通の認識っぽい。

でも、そんな動物と一緒に暮らす人がいるってことは、何らかの魅力を感じているからなのだろう。

良いイメージの生き物が思いつかないのだけども、実在するかどうかは別にして、たとえば神聖な生き物のドラゴンなどはどうだろう。ドラゴンと一緒に生活したい人はそれほど多くないのではないだろうか。他にも申請というか欠点のないような生き物は居そうだが、そんな生き物たちと暮らすのは何だが心が安らがない気がする。


猫はもともと、穀物を荒らしてしまうネズミを駆除するために家に住まわせるようになった、という話がある。真意のほどはわからないが、おそらく猫のほうとしては飼われているとは思っておらず、ただ同じ家に住んでいるだけという認識のようだ。だから飼い主のいうことを聞いたり機嫌をとったりする必要はなく、かなり自由奔放な感じである。

犬は基本的に餌をくれる飼い主のいうことを聞くが、それゆえに餌をくれる人なら誰にでも懐いてしまう可能性がある。猫と違って一応同居している人を家族と思っているようだが、こちらも真意はわからない。ご褒美のためなら結構我慢強く、侵入者への警戒も忘れないがそういったところが嫌いだという人はいるだろう。


こうして並べてみると、同じくペットとして飼われるとはいえ、まったく違う性格の動物なのだ。

全面的に犬が好きとか猫が好きという人もいるだろうが、犬や猫のこういうところはいいけど、ああいうところはちょっとねえ…とか、逆のパターンもあるだろう。飼い主の性格を表しているところがあるようにも感じられる。

そういう意味では、状況が許すのなら犬猫両方を飼うというのもわかるような気がする。片方は毎日散歩させてあげないといけないけど、もう片方は散歩どころか向こうが構ってくれるのを待つという感じだから。


聞くところによると、最初に挙げた漫画はネット上で掲載されてたものが書籍化されたということらしい。

犬派と猫派に別れている人たち両方に関心を持ってもらえるという意味で、商売的にもいい感じだなあと思ったのだった。

価格とエネルギー

人によって、高いと感じるか安いと感じるかは異なる。

ある人の10,000円は他の人の100,000円の価値があるかもしれないし、そこまでいかないにしてもお金に対する感覚の違いはそれぞれにあるだろう。

同じ金額を払うのなら少しでも安いほうがいいに決まっている。そういう考え方もあるが、本当にそれだけなのだろうか。


必要とするものを手にいれるならそれでいいかもしれないが、ただ安いという理由で手に入れる場合には話が変わってくる。

簡単に言ってしまうと「安い」ということが一番の理由の場合は、まずそれを手に入れる必要がない。

しかし、一番の理由が「興味がある」だったり「面白そう」などの理由なら、そのうちの安いものを手にするのは状況次第ではありだろう。


なぜなら、支払う金額はお金という自分の持っているエネルギーだから。自分のエネルギーと交換するものがただ「安い」というだけのものなら、そのエネルギーを使って得られるものも少なくなる。大きな成果を手に入れるためにはそれなりにエネルギーを使わなければならないから、自分への投資という意味で支払うものについても高い対価を払ったほうが効果的、ということになる。

ただし、自分にたくさんのエネルギーを使いさえすれば、成長できるというわけでもない。これだけのエネルギーを費やしているのだから絶対に身につけてみせる! という意気込みも必要とされる。その意欲があるからこそ、たくさんのエネルギーを使おうと考えるのだから。

習いごとをするにしても、「高いな」と感じるくらいの価格設定のほうがやる気を引き出しやすく、結果に結びつく可能性が高いのではないだろうか。


安いという理由だけで手に入れたものには気持ちがこもらないので扱いが雑になりやすく、技能を習得して元を取ろうという気持ちも弱くなってしまう。

本などを積読したときにも、高価だと感じながらも購入したもののほうが自分へのアピールを強く感じるのではないだろうか

そういったことなどから、ただ安いからという理由で手に入れたものは、自分を変えてくれるチカラも弱いのではないか、そう感じた。


実際のところ、同じ内容のものでも、それらをまったく別の価格帯で提供したときの顧客満足度は違ってくることだろう。

高いからというだけで良いもののような気がすることもあるし、ものによっては安いほうが実は良質なこともある。そのあたりを冷静に判断できる人のことを、その分野での金銭感覚が優れているというのだろうが、自分にとってならまだしも、万人にとって良いものを見分けることは非常に難しいのではないだろうか。

よくわからないもの

本棚には、よくわかっていないものについて書かれている本が並んでいる。

基本的に、確認の意味でよくわかっている内容のものを購入することはないので、よくわからないものが残されてしまうのだ。

もしこれがよくわかるものだらけなら、本に限らず今から処分を始めるだろう。

とはいっても、これまでに手放したものを思い出してみれば、まったく理解できなかったものもあるはず。

しかし、そういったものはもう記憶にない。まったくわからなかったから、記憶にさえ残っていないのだろうか。それとも、わからないなりに内容を理解したから手放してしまったのだろうか。


持ちものなどの自分に関わっているものは、なんらかの期待に応えてくれる。

期待に応えるという表現がピンとこないなら、コミュニケーションが取れると考えたらいいかもしれない。

わからないことを教えてくれたり、少なくとも自分の頭の中に染み付いていないことの手助けをしてくれる。

助けてくれるということは、まだそのものについてわからないところがあるということであり、そういった対象にならなくなったもの、完全に理解してしまったものは手放してもいいと考え始めるのだろう。


自転車やクルマなどの乗り物が、思った通りの動きをしないとイライラするし、第一危険だ。その原因が故障なら修理が必要だし、そうでないならまずは自分を慣れさせるための工夫をする。

いろいろな工夫を試してみてもコミュニケーションが取れないときには、お別れになってしまうのは仕方がない。

これもやはり、それについてわからなかったということだが、同じわからないでもわかろうとする好奇心の続かないものを持ち続けることはできないのだろう。


音楽や映画のように、見たり聴いたりするタイミングによって違ったことを教えてくれるものもある。

最初は良いと感じたものでも、あまりに薄っぺらいものは興味がなくなるまでの期間も早い。


好奇心とは厄介なやつだ。すべてがわかったと思ってしまうと、一気になくなってしまう。しかも、自分が興味を持つことなのに予測がつかない。突然やってきて、何かに熱中させる。

だから、興味のある理由を聞かれても答えられない。答えられるのなら、それはわかっているということだろうから。よくわからないから好奇心をくすぐられるわけで、わかってしまったと感じたものは身の回りから消えていく。

というわけで、持っているものはよくわからないものなのである。

遺伝と記憶に帯

うちの犬がダンボールをバリバリするのは遺伝なのだろうか?

同じブリーダーから家族を迎えたらしき人もネット上で同じようなことを書いていた。何も教えていないのに◯mazonの箱をガジガジすると。

どうやらダンボールガジガジは、どこの子でもするという訳ではないらしい。

遺伝子にどれほどの情報が含まれているのかは知らないが、犬はぬいぐるみの首の部分を的確に見つけ出して食らいつき、ブンブンと首を振る。まるで生きた獲物を仕留めるかのように。どうやらこれは犬の持つ習性らしく、遺伝子レベルで伝達されているらしい。

同じようにダンボールを見るとガジガジしたくなるという性質も、遺伝子の中に刻まれているのだろうか。

さすがにダンボールという対象が情報として含まれることはないだろうが、ああいったものをみるとカミカミしたくなるという性格のようなものを子孫へ伝えることはできるのかもしれない。


今朝の嫁は、散歩の前に犬用の虫除けを探していた。月一で処方する、皮膚にかけるアレだ。さっきまで手に持っていたのにないと言う。30分ほど探すも見つからない。

最終的にはウエストバッグに入っていた…。そこも探したとは言っていたのだが、まあこんなものか。

別に物忘れが激しいというわけではなく、何かに集中しているときにはいつも無意識にしていることを事細かにチェックしていないということだと思う。何度も繰り返して慣れっこになってしまっていることは、それがうまくいってなかったときに「なんで?」となりやすいということだ。


ある古い語学書を探しているときに、その帯を見て驚いた。

「この本を一冊きちんと勉強すれば、明日◯◯◯◯(国名)に旅立っても、もう安心です。」と書かれてある。この本は「◯◯入門」というタイプの本だ。その本をきちんと勉強すれば明日旅立っても安心だという。

何度もしっかり学習すればそれだけの実力をつけられるというのは理解できるが、大抵の人は何度も完璧になるまでの勉強をしない。学習者がそういった状態の中で、このような文章が目立つところに書かれてあるのがすごい。この本の著者は素晴らしい自信を持っている、と思わずにはいられない。

調べてみると、かなり古い本で新品ではもう手に入らないが、程度の良い中古本ならまだ手に入りそうだ。

ちなみに、先ほどの文言は帯にしか書かれていないようだ。もし手に入れるとすれば、ぜひ帯付きのものにしたいが、そこまでこだわらなくてもいいかな。


それにしても、そこまで自信過剰な帯をつけてくる◯H◯出版もすごいものだ。どれだけの勢いで出版したのだろう。しかしこの本は、同時期にシリーズとして発売された◯◯語入門の中で絶版となったものである。このシリーズの中でも二つくらいの外国語は今でも新品で購入できる。そしてそれらには、ここまで挑発的な帯はつけられていない。

もしかしたら、この帯のせいで絶版になってしまったのかもしれないな。

本を売るときに帯の内容は重要だと思うけども、ほどほどの謳い文句にしておくことも必要なんじゃないか、と感じた。

連休ですな

気がついたときには、犬用の笛入りおもちゃが鳴かなくなっていた。

カミカミするのが好きなので、噛みすぎて笛の部分が変形してしまったのかもしれない。

降ってみると微かにカラカラ音がするから、何か小さな部品が外れてしまったのだろう。


細長いものを差し込んでみたり、手探りでおもちゃ内部のバラけてしまったらしいパーツを探し出し、笛の方へ押し出したりしてみるがうまく元に戻せそうにない。

仕方がないので、ゴムでできている本体から笛を取り出してみる。リードの役割をするフィルムとその対になるプラスティックパーツが外れてしまっていた。


曲がってしまっているフィルムをまっすぐにして、プラスティックパーツを取り付けると再び音が鳴るようになった。両方にリードが付いているから、吹いても吸っても音が出る。試しに口にくわえてピューピュー音を出していると、犬が寄ってきた。遊んで欲しそうな目をしている。

ゴム製の本体に笛を取り付けて、おもちゃは復活。どういう構造なのかわかったから、次に鳴らなくなっても直せるかも。その後しばらく室内で遊んでやった。


何かをして音が出るのが楽しい、という意味では人が楽器を演奏するのも似たようなものなのかもしれない。


うちの嫁は、外出から帰ったときによく家の鍵が見当たらないって探している。

それだけならまだしも、車をロックするときにも鍵を探してるのはどういう理由だろう。さっきまで運転してたはずなのに。


天気がいいので、車で少し走ったところの公園に行ってみると、昼前あたりからだんだん人が増えてきた。そうなるだろうと思ってたから、早めに到着しといてよかったと考えながら散歩終了。


買い物のためにスーパーに行くと、市場がお休みらしく品物が減ってる。お客はいつもより多い。


郵便受けをみると、注文した荷物が届いていた。

連休中だから時間が掛かると思っていたが、荷物の配達は平日と変わらない。優秀でありがたいとは思うけど、もっと減速させても良いのでは? と感じた。

誰かが休んでいるのにさまざまなサービスが受けられるってことは、そのあいだにサービスを成り立たせるための労働をしてくれている人たちがいるってこと。ニュースで報道されるくらいの連休を用意するのなら、ほとんどすべての人が休めるような環境を作ってほしいものだと思う。

報道をしている人もお仕事をしているんだから。


夕方に散歩がてらにATMへ行こうとしたら、こんなバタバタしてるときじゃなくて連休明けに行きなさい、って嫁に言われた。確かにそうだな。そんなに急いでいないし、今は現金がなくても買い物はできるからな。

言葉と散歩

ガタガタガタ、って音がしてる。

連休中なのに近くで舗装工事のようなことをしているらしい。

嫁さん曰く、「楽しそう。男だったら、ああいう仕事する」だって。

「こんな感じかな」って声が聞こえる。さっきから何度も連発しているので、だいたいで良い工事なのかもしれない。


じっとしてると、いろいろどうでも良いことを考える。

ああいうのは私にあんまり向いてないだろうな、とか。


散歩に出掛けてみる。歩いていると考えすぎない。たぶん。


ふと、外国語の文法書は面白いけど、母語の文法書を読んでも楽しくないんだろうなあ、と思い始めた。

これが主語で、それは他動詞か。目的語はこれで…。とかを日本語でやってもねえ。それに、実際やってみるとほとんど正解できないんだから。

なんだろなー、こんなことやってて日本語わかるようになんの? って思うんじゃないだろうか。

しかし、大人になってからの外国語習得には文法が大切だといわれている。


道路から少し離れた道を歩いてると、急に道を走る車の音が静かになったのに気づく。信号が赤になって車が停止したからのようだ。車の通りはなく、交差点が静かになっている。

アイドリングストップハイブリッド車のおかげだろうか。

信号が青になり、車の走る音がまた聞こえてくる。今の車は走行中のエンジンや排気音が静かになっているから、主に聞こえるのはタイヤの走行音だ。


小型トラックの荷台にアルファベットが書かれている。◯◯GYORUI? なんだろ。ああ、◯◯魚類か。魚などを運んでいる車ってわけだな。

あんなふうにアルファベットにするとすぐに意味がわからないのもあって、なんとなく格好良く感じるのかもしれない。そういえば、海外の紹介をしている番組で◯◯豆腐って車が走ってたな。日本語の書かれたTシャツを着て喜んでる外国人の姿が目に浮かんだ。

日本人だって、日本語で書かれてたら着ないような英文がプリントされている服を着て、何も思わないばかりか良いデザインだと感じたりするくらいだから、よく知らない文字には憧れがあるんだろう。


古本屋に寄ってみると、小学校卒業記念の辞書を見つけた。おそらく中学校を卒業して要らなくなったのだろう、と思いたい。決して、もらってすぐに売ったんじゃないと。

フリマサイトを見ると同じような卒業記念辞書が売られている。古本屋の買取は渋いから、フリマで売ったほうがいくらかの利益はあるだろう。

待てよ? これを買って帰って売れば差額が出るかも、と思い始めた頭を停止させ、帰路につく。

なんだかなあ、あんな小さな辞書くらい家に置いておいてあげてもいいのに。と思うのは紙の本が好きな人の考えることなんだろうな。

がんばる


「頑張る」って言葉が好きではない。


「頑張れ」はもちろん、「頑張ろう」と言われるのも好きでない。あなた勝手に頑張ったら? って感じる。

多くの人がなんとなく、とりあえず、「頑張ろう」とか「頑張って」って言うのが気に入らない。

頑張るってなんなんだろう。具体的に何を頑張るっていうんだ。

話の流れから理解できるのならともかく、挨拶代りのような「頑張れ」もある。実はただの挨拶なのかもしれない。


「あなたのベストを尽くせ」とか「一緒にベストを尽くそう」という趣旨のことが言いたいのはわかる。

だったらそう言えばいい。一体どれだけ省略するんだろう。ここは言わなくてもわかるだろ? っていう文化なのか。いや、はっきり言わないとわからないぞ。

そういえば、「わかるだろ?」って言うのが癖の人が居た。その人にそう言われたら、何のことだかわからなくても「はい」って答えた人は多かっただろうと思う。


「頑張れ」という言葉をまともに受け取り過ぎているのかもしれない。

そう言われたら、必ず成功できるように努力しなければならない、そうでなければおしまいだ。というふうに。

声を掛けるほうからすると、いたって簡単に「頑張って」という言葉を使っている。それほど「努力しろ」という意味は感じられない。


おそらく「応援してる」って意味の掛け声で、感嘆詞のようなものなんだろうな。「応援してるぞ」とは言いづらいから「頑張れ」なのか。

感嘆詞ということなら、「ああ」、「まあ」、「えい」などと同じ、それこそ挨拶の「おはよう」や「こんにちは」と変わらない使われかたをしているということで、意味を深読みし過ぎているということになる。


大辞林には『good luck:別れの挨拶語。ごきげんよう。幸運を祈る。頑張って!』とある。やはり、あまり深い意味はない励ましの言葉のようだ。

そこには、言葉が持っている意味だけでは伝えきれない、気持ちのようなものが乗せられているのだと思う。

「頑張る」の語義を眺めていると、『自分の意見を強く押し通す』という項目があった。

この表現なら受け入れられそう。この意味だと、「頑張れ」が意味するところは「お前の意見を押し通せ」といったところか、いい感じだ。


でも、さっき取り上げた good luck という雰囲気で言っているのなら、「頑張れ」って言われるのも悪くはないかな、と思った。

まどろみ


目覚めるまえの まどろみが好き

真っさらな気持ちで居られるから

頭の中に まだなんにもない状態だから


眠るときの まどろみも好き

すべてを忘れた気持ちになれるから

頭の中を クリアにできるタイミングだから


あれ? ってことは、眠ってるときがいちばん好きなんじゃん…。

未来を考えるとき

未来は過去から考える

茂木健一郎さんのブログを見て、「未来を思い描く時には、脳の回路としては過去の経験の回路が働いている」ということを知った。

そういうことなら、未来のことを心配する意味はまったくないな、と感じる。

過去の経験を生かして未来を考えるということは、痛い思いをしたことを二度としないようにするにはどうしたらいいかを考えることだろう。つまり、未来のことを心配して、似たようなことを避けるということではない。同じく過去に失敗したことをいつまでも脳に刻んでいる、ただ記憶力の良いだけの人とは違うものだ。

失敗は成功の母というが、成功する人は失敗したことを後悔しないということだろう。

過去の経験を記憶していても、同じような思いはしたくないから、自分の殻に閉じこもっているのとは違う。せっかく優秀な脳を持ち合わせているのに、非常にもったいないことだ。

思い出したくない過去を封印して、行動範囲を狭めるのはくだらない。失敗したときのことを思い返して浮かび上がってくる感情に浸ったりせずに放置する。失敗を回避するだけではなく、過去の経験の回路を使って、成功するにはどうしたらいいかを考える。そういう頭の使い方ができるのが、成功する人というものだろう。


意識はおまけ

ウーシサーリ准教授の言葉に、

「脳は考えるためではなく、動くためにあった」「脳と神経系が進化したことによって動くことができるようになり、その動きを協調させることができるたのです」「話すこと、考えること、計画を立てること、記憶すること、夢を見ること・・・これらは、すべておまけに過ぎません」

というのがあった。

頭で考えられるのは、おまけかもしれないのだ。

学習をするときにも何かを考えるときにも、頭の中だけでそれを行うとうまくいかない、非効率だという話を聞いたこともある。

会議は椅子に座ってするものではないし、暗記をするのも黙読より音読の方が適している。

体で覚えるという言葉があるように、頭で考えることはあくまで補助的な役割しかないのだろう。

覚えたいことや考えたいことは口に出していく。そうしていると頭の中に刻まれる。聴きながらとか、書きながらっていう方法もある。


同じように、頭の中で繰り返し考えていることが脳に刻まれるのなら、過去の経験に前向きなものがない場合はどうしたらいいのだろう。未来のことを考えるときに、過去の経験が使われるというのなら、その時点では未来を前向きに考えることはできないのではないか。

そういうときこそ意識の出番。まずは未来のことを考えない。考えてしまうと過去の経験回路を使うことになるのだろうから。

考えるにしても、簡単すぎることに取り組んで成功体験を重ねてからにする。そうすれば、過去の経験に成功の回路ができていって、成功回路を使って未来のことを考えられるようになるのかもしれない。