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のんびりしたい私のアタマノナカ

広めたい人

LINE Payのキャンペーンについて聞いた話より。

知ってる人がたくさんの人に無料で1000円を送金してるらしい。もらった人が1000円分もらえるんだけど、何人からもらっても、もらえるのは1000円だけ。だから、相互に一回送り合えば終わりで十分だと思うんだけど、たくさんの人に送りたくなるのはどういう心境なんだろう?

たぶん、キャンペーンを知らない人に知ってほしい、お得感のお裾分けをしたいんだろな。
だとすると、キャンペーン開催側としてはいいお客さん。放っておいても勝手にユーザーを増やしてくれる。2人のユーザーが相互に送り合うだけでも銀行口座登録や本人確認をする人が増えるから、それだけでも十分。さらにうまくいけば、お裾分けをしたがる人がねずみ講式に利用者を増やしてくれるかもしれない、という。

小さい字で書かれている説明を見てみると、10人に送ってツイートすると追加キャンペーンとして100万円分にチャレンジというのがあるようだ。じゃあ、そのためにたくさん送ってるのかな? とも思えるけど、もっと多くに送ってる気がするし。「広めたい人」っているのね、と感じた。おそらく、そういう人が広告業界などでは必要とされるんだろう。

でも、このことをあの人に伝えたいっていう気持ちは、さすがに私にもある。幼い頃だけでなくて、今でも。広めたい人はそういう人なのかもしれない。それに、誰かの役に立ちたいという気持ちがあるのかも。

自分だけが知っているという状態も、まあまあ楽しい事態ではある。ただ、そのままではもっと面白い展開はありそうにない。知ってることを他の誰かに伝えると、人によって違った反応をする。特に自分と違った感性を持つ人に伝えれば。その結果、自分の思考が刺激を受けることが考えられる。こんなふうに思う人もいるのか、っていう感じに。広めたい人は、そんなような外部からの刺激が欲しい状態、外向的になっている時期の人のことなのかもしれないな。人の頭の中は一つに定まったりしてないから、内向的に頭の中だけで考えていても案外いろんな刺激を得られるものだとは思うのだけれど。

私の中にも、「広めたい人」は存在する。しかし、LINE Payのキャンペーンに対しては反応がなかった。それは送金をしないといけないような友だちがいない、ということも大きな原因であると思う。このような機会を利用して、みなさんにもキャッシュレスの便利さを味わってみて欲しい。

散歩道に子猫

朝に散歩をしていると、道路色の子猫がミャーと2匹。

親はエサを探しているのか、シャーっていう気配はない。

近寄るも驚く様子はなく、誰かに連れて行かれそな感じ。

子どもの頃より子犬子猫を連れ帰るような子でなかったし、今もそう。気には留めずにその場を去る。

幼い子でも連れようものなら、厄介ごとになったのだろうか。

夕方再び歩いてみると、あたりまえのように子猫は居ない。

親猫が連れ帰ったか、どこぞの誰かに迎えられたか。

相手が鳥でなければいいが。

こっそりよくみてる

あの部屋に行ったら遊んでくれるかも。

丸くなってグッスリ寝てるように見えたのに、隣の部屋へ向かおうとするとサッと頭を上げてこっちを見ていた。

「そろそろ遊びますか?」とでも言いそうな目をしてる。

まだすることがあるから遊ばないよ。一息つくまでもう少し寝てなさい。

フン! たまに溜息をついてるようなときもあるし、思わず本気で寝てしまったようで隣の部屋へ行っても気がつかないときもある。

「遊ぶんですね!」タイミングがあったときには一緒に隣の部屋に行く。

それにしても、自由に遊べるようにおもちゃを置いてるのに、なぜだか勝手に遊んだりはしない。

遊ぶときには、いつも「ボール投げて!」っていう素振りで待ち構えてる。

変なの。こんなものなのかなあ。一人で遊べる子もいるはずだと思うんだけど。

本を借りてきた

嫁さんが見てみたいというので、感情類語辞典を借りてきた。

少し前には性格類語辞典も借りてきたのだけど、ありがちな内容とかいう感想で不評だった。私は詳しくみていないが、確かによくあるタイプの解説で改めて読むまでもないように感じた。

そのときでさえ数十分は読んでいたのだけれど、今回の感情類語辞典は私の元に戻ってくるのがさらに早かった。おそらく数分しか見ていないと思う。

彼女の口から出てきたのは、「これって漫画のキャラ設定に使う本なの?」「こんなことも考えないで描いてるの?」「私のほうがこういうの得意だよ」という批判的な言葉だった。つまり、もう読む必要がないということだ。せっかく借りてきたのにと思ったが、多分彼女はこの程度の内容なら本を参照するまでもなく人物設定ができるのだろう。そういえば昔、同人誌のようなものに関わっていたという話を聞いたことがあるような気がする、と思い出した。

キャラクターやストーリーを作るときには、私の知らない定番のようなものがあるのだろうけど、そんなことを言うんだったら何かの物語を構想して聞かせてほしいなあ。あんなことを口にするくらいだから、案外いいものができたりして。



感情類語辞典を借りるときに、地域の図書館にリクエストしていた本が入ってきたというので一緒に借りてきた。

結構前にリクエストした本だったからもう入らないのかと思ってたんだけど、どこかの図書館から借りてくることができたらしい。蔵書印を見てみるとそこの図書館のものになっている。日付を確認すると今月。ということは新規に購入したということのようだ。

図書館が蔵書を増やすときのプロセスはよくわからないけど、もしかしたら中古の本なのかもしれない。奥付けによると11年前に発行、2008年発行の初版だ。カバーがラミネートされているのでよく見えないけど、ハードカバーの変色具合に天と地、小口がしっかり研磨されてる様子を見る限りどこかの書店か倉庫に眠っていた本なんだと思う。中古の本でないならば(中古だろうがなんだろうが、問題はありません)。

これまでにもいろんな本をリクエストしているのだけれど、その多くは新刊だったり県内の図書館にある本だったので比較的早く借りることができていた。今回の本はリクエストから2ヶ月以上経過していたから、そろそろ「取り寄せできませんでした」と言われる頃だと思っていただけに、本当にありがたい。

質が良いのも考えもの

メガネのコーティングが剥がれてきた。

どうでもいいことだが、私の頭は禿げていない。父方の祖父がツルツルだったからそろそろかと思っているのだが、まだ大丈夫なようだ。個人的にヘアースタイルなんてどうでもいいし、髪を洗うのは面倒。しかも学生の頃から結構な白髪混じりの剛毛&天然パーマだ。ヘルメットを被ったときに目の前を神がチラチラするのも嫌なので、なくなるなら徹底的に無くなって欲しいものである。坊主頭にするのもいいが、手入れをしたいとは思わないので、やはり生えないほうが助かる。そんなことを思っているから禿げないのかもしれないが。欲しい人からは無くなり、欲しがらない人には与えられる。人生うまくはいかないものだ。


それはさておき、以前から気にはなっていたのだけど、もう古いしレンズの交換をするしかないからどうでもいいや、と考えていた。このメガネは学生のときから掛けているから、もう20年以上。いくら数本のメガネを使い分けているとはいえ長く使いすぎ。

コーティングが剥がれた部分をよく見てみると、剥がれた部分は光を反射している。今のようにブルーライトをカットするレンズなんてなかったから、反射防止とレンズを保護するためのコーティングなのだろう。爪で擦ってみるとコーティングが少し剥げた。中途半端に剥げていると視界にバラツキがあって気持ち悪いので、剥げるところは剥がしてみるとずいぶん見やすくなった。これならまだまだ使えるぞ。近頃の安いメガネについてくるレンズは何年かすると知らないうちにコーティングのムラができてしまうが、このレンズは違った。さすがは◯コ◯といったところか。しかし、メガネにファッション的な意味も求められる今の時代にこの性能はオーバースペックなのかもしれない。そういえば、前に使っていた同社のハードコンタクトレンズも普通のメンテナンスだけで10年使えたのだから素晴らしかったな。

とりあえず、コーティングの剥がれたメガネはバイクに乗るときと室内で使うとき用に残しておこう。今どきのメガネは華奢なものが多く、メガネを掛けたままヘルメットを被るのをためらってしまうから。


大抵の道具は以前に比べて寿命が短くなっている。買い替えサイクルが早くなっているからだ。それはそれで問題ない。あまりにも長く使える道具は人にとっても迷惑なときもある。ずっと同じものを使い続けるということは持ち主が変わる機会をなくしてしまうだろうから。ただ、そのまま作れば長寿命の製品を作ることができるものを、製造工程を変更してまで短寿命にすることはない。

このメガネもいい加減役目を終えたはず。レンズだけを変えて使い続けるなんて往生際の悪いことをせずに、気軽に使える安いレンズ付きメガネでも買いに行こうかな。

決めつけとか


決めつけ、について書こうと思っていた。



ここの周辺では道路の舗装工事をしていて、騒音がかなりしている。普段静かなこともあって、あんまり音に対する耐性はない。いつもうるさければ気にならないのかもしれないが、これでは何かをしようという気持ちさえなくなってしまう。



人や物のことを客観的に見ていき、自分なりに性質をまとめ上げる。そうしたものが頭の中で一段落したら、そこから先はそれを元にして人や物を判断する。だから、頭の中にある性質と違っているものを感じると、「あなたらしくない」とかいうことを言い出したりする。

でも、それはこちら側から見て勝手に判断した性質であって、そのものの自体を表しているわけではない。私から見るとそう見えても、他の人から見るとまた違ったように見えたりするわけだろうから。

それでも、一旦頭の中に作られた物の影響は強く、頭はなかなかその認識を改めようとしてくれない。一度まとめ上げた考えを修正するのは嫌なのだ。決断力が高いとか、決断が早いという人のことを優れているとすることが多いような気がするが、そういった人ほど決めつけてしまいやすいのではないだろうか。

物事を一つの言葉で言い表すのは気持ちがいいし、スッキリする。しかし、そうしてしまうと今度はその言葉にとらわれてしまう。他の目線を持つのが難しくなるのだ。あまり一つのものとして認識しないほうがいい。あの人はこんな人、そんなふうに一言で表せるほど人は簡単なものではない。



周りを見渡してみると、工事は順調に進んでいるようで、今日中には完了しそうだ。しかし、音については少々耐えられない。ラジオの音が聞こえなくて、音量を上げてもやはり聞こえない。これでは気晴らしにもならないではないか…。

工事に携わっているかたは重機の近くで作業をしているわけで、もっと莫大な音量を身近に感じているはず。それを考えるとたいしたことはないのだろうが、作業者のかたは大丈夫なのだろうか。慣れというものがあるのだろうか。



占いが好きな人がたまにいる。そういった人は自意識過剰というか、人に言われたことを自分に当てはめてしまいやすいのだろう。これまで誰かに言われたことのある性質、たとえば「神経質」とか「大雑把」のような性格の一部分を表す言葉に敏感なのである。人はいろんな性質を持っていて、神経質なだけの人はまずいない。なのに、そういうたった一つの性質に偏っていると思い込んでしまっている場合がある。そうすると、雑誌などで占いを見ていてもそこだけが目についてしまうので、占いが当たっているように感じるのである。

なにも、占いを見るのが良くないといっているわけではない。自分の中には、神経質なところも大雑把なところも同居しているし、神経質や大雑把に感じていたところが状況によっては丁寧や大胆に置き換えられるということを信じていないのだろう。


ものには見方がさまざまあって、絶対というものはありえない。そのようにしか見えないことでも他の人が見れば別の解釈が考えられるもの。周りのことだけでなく、自分のことについても決めつけないほうがいい。自分で自分のことを決めつけたせいで、落ち込んでしまいそうなときには特に。



騒音についても、案外なんとかなるものなのかもしれない。やったことのないことを外から判断はできないのだろうから。

見るのは前だけ


みなさん、友達はたくさんいますか?

ここにコメントをくれる人はいないのでよくわかりませんが、ほとんどの人は親しさに違いはあれどそれなりの数の友人がいることと思います。

問題はその友達とどれくらい親密でいるかということなのですが、これが結構難しいのではないでしょうか。

そんなの難しくもなんともないという方は、今回の記事を読んでも時間の無駄だと思いますので、”さようなら” です。


どこからが友達?

仕事上の付き合いだけならただの知人かもしれませんが、休日もたまにあってお茶するというような間柄になるとちょっとした友達と呼んでもいいのかもしれません。それでも話題となるのは仕事の延長線上ということなら、どういう関係と言っていいのか悩ましい状態ですね。

よほど込み入った話をできる関係でない限り、このような関係はただの知人といったところでしょう。そして、この程度の人間関係で毎日をやり過ごしているという方は多いのではないでしょうか。人によるとは思いますが、この程度の関係ならない方がいいと思う方がいるかもしれません。


ライフステージの違い

よく言われる関係としては、学生時代からの友人というのがあります。これは社会的な地位など余計な要素にとらわれずに築かれた関係ということで大切な友人という扱いをされることが多いです。

しかし、互いの人生のステージの違いによってはどうでもいい関係となってしまう可能性があります。それは結婚や出産、自身の出世に親の介護など本人に降りかかってくる人生のイベントのようなものが起こるときです。

こういったイベントの進行が友人と揃っていないときには、いくら学生時代に仲の良かった関係だったとしても関係が断絶してしまうことは仕方のないことだといえます。ステージがズレているときにまっとうなコミュニケーションを取ろうとしても、本当の意味で相手のことを理解することはできない。こればかりは仕方のないことだと言えるのではないでしょうか。


無理に干渉しない

そういったときに感じるやるせなさにどう対処したらいいのか。

簡単です。それは「干渉しないこと」

一年に一回、「新年に年賀状を送るくらいはしなくちゃ」そんな考えは無用。そんなことをしないくらいで切れる縁なら ”クソ喰らえ” です(汚いことはを使ってしまい、申し訳ありません)。

置かれている状況が違っているときになんとかしてわかり合おうとするのは無駄だといえるでしょう。そんなときには知らんぷりをしておくこと。なんならコッソリと連絡先を削除してしまうのもいいでしょう。どうしても気になるなら、メールアドレスや電話番号を控えたり連絡先を残しておくのもいいですが、当面の間はわかり合うことはできないでしょうから、消去してしまっても問題ありません。また何かの縁があるのなら、必ず接点があるはずですのでご心配なく。


新たな出会いもある

今回は、過去の友人との付き合いについて思いつくままに書き記してきましたが、友人との絆が弱くなってしまうことは決して悲しいことではありません。なぜならこういった出来事は、新しい人との出会いを暗示しているともいえるからです。

これまで、その人の情報が刻まれていた領域が解放されることで、別の人との関係が始まる可能性が開かれるということです。私たちの進むべき道は常に未来にあります。過去のことにこだわり過ぎず、ぜひ前を見て進んでいってほしいと思います。

犬と猫

犬と猫(いや、猫と犬か?)を両方飼っている人の描いた漫画が面白いらしい。

両方とも飼ったことがある人なら、よくわかる内容なのだとか。

犬はバカみたいにポジティブでキラキラした目をしていて、猫のほうはネガティブで毒を吐くトゲトゲしたキャラで描かれている。そのギャップで笑わせてくれるのだ。

私は犬としか暮らしたことがないのであんまり実感できないのだが、なんとなくわかるような気はした。


犬は外国語の辞書を見ててもよく書かれているように、どの国でも従順な生き物とされているようで、逆に良いイメージで捉えられていることは少ない。「ろくでなし」なんて書かれていることもある。

猫も良いイメージはないようで、「猫をかぶる」や「猫に小判」なんかは共通の認識っぽい。

でも、そんな動物と一緒に暮らす人がいるってことは、何らかの魅力を感じているからなのだろう。

良いイメージの生き物が思いつかないのだけども、実在するかどうかは別にして、たとえば神聖な生き物のドラゴンなどはどうだろう。ドラゴンと一緒に生活したい人はそれほど多くないのではないだろうか。他にも申請というか欠点のないような生き物は居そうだが、そんな生き物たちと暮らすのは何だが心が安らがない気がする。


猫はもともと、穀物を荒らしてしまうネズミを駆除するために家に住まわせるようになった、という話がある。真意のほどはわからないが、おそらく猫のほうとしては飼われているとは思っておらず、ただ同じ家に住んでいるだけという認識のようだ。だから飼い主のいうことを聞いたり機嫌をとったりする必要はなく、かなり自由奔放な感じである。

犬は基本的に餌をくれる飼い主のいうことを聞くが、それゆえに餌をくれる人なら誰にでも懐いてしまう可能性がある。猫と違って一応同居している人を家族と思っているようだが、こちらも真意はわからない。ご褒美のためなら結構我慢強く、侵入者への警戒も忘れないがそういったところが嫌いだという人はいるだろう。


こうして並べてみると、同じくペットとして飼われるとはいえ、まったく違う性格の動物なのだ。

全面的に犬が好きとか猫が好きという人もいるだろうが、犬や猫のこういうところはいいけど、ああいうところはちょっとねえ…とか、逆のパターンもあるだろう。飼い主の性格を表しているところがあるようにも感じられる。

そういう意味では、状況が許すのなら犬猫両方を飼うというのもわかるような気がする。片方は毎日散歩させてあげないといけないけど、もう片方は散歩どころか向こうが構ってくれるのを待つという感じだから。


聞くところによると、最初に挙げた漫画はネット上で掲載されてたものが書籍化されたということらしい。

犬派と猫派に別れている人たち両方に関心を持ってもらえるという意味で、商売的にもいい感じだなあと思ったのだった。

遺伝と記憶に帯

うちの犬がダンボールをバリバリするのは遺伝なのだろうか?

同じブリーダーから家族を迎えたらしき人もネット上で同じようなことを書いていた。何も教えていないのに◯mazonの箱をガジガジすると。

どうやらダンボールガジガジは、どこの子でもするという訳ではないらしい。

遺伝子にどれほどの情報が含まれているのかは知らないが、犬はぬいぐるみの首の部分を的確に見つけ出して食らいつき、ブンブンと首を振る。まるで生きた獲物を仕留めるかのように。どうやらこれは犬の持つ習性らしく、遺伝子レベルで伝達されているらしい。

同じようにダンボールを見るとガジガジしたくなるという性質も、遺伝子の中に刻まれているのだろうか。

さすがにダンボールという対象が情報として含まれることはないだろうが、ああいったものをみるとカミカミしたくなるという性格のようなものを子孫へ伝えることはできるのかもしれない。


今朝の嫁は、散歩の前に犬用の虫除けを探していた。月一で処方する、皮膚にかけるアレだ。さっきまで手に持っていたのにないと言う。30分ほど探すも見つからない。

最終的にはウエストバッグに入っていた…。そこも探したとは言っていたのだが、まあこんなものか。

別に物忘れが激しいというわけではなく、何かに集中しているときにはいつも無意識にしていることを事細かにチェックしていないということだと思う。何度も繰り返して慣れっこになってしまっていることは、それがうまくいってなかったときに「なんで?」となりやすいということだ。


ある古い語学書を探しているときに、その帯を見て驚いた。

「この本を一冊きちんと勉強すれば、明日◯◯◯◯(国名)に旅立っても、もう安心です。」と書かれてある。この本は「◯◯入門」というタイプの本だ。その本をきちんと勉強すれば明日旅立っても安心だという。

何度もしっかり学習すればそれだけの実力をつけられるというのは理解できるが、大抵の人は何度も完璧になるまでの勉強をしない。学習者がそういった状態の中で、このような文章が目立つところに書かれてあるのがすごい。この本の著者は素晴らしい自信を持っている、と思わずにはいられない。

調べてみると、かなり古い本で新品ではもう手に入らないが、程度の良い中古本ならまだ手に入りそうだ。

ちなみに、先ほどの文言は帯にしか書かれていないようだ。もし手に入れるとすれば、ぜひ帯付きのものにしたいが、そこまでこだわらなくてもいいかな。


それにしても、そこまで自信過剰な帯をつけてくる◯H◯出版もすごいものだ。どれだけの勢いで出版したのだろう。しかしこの本は、同時期にシリーズとして発売された◯◯語入門の中で絶版となったものである。このシリーズの中でも二つくらいの外国語は今でも新品で購入できる。そしてそれらには、ここまで挑発的な帯はつけられていない。

もしかしたら、この帯のせいで絶版になってしまったのかもしれないな。

本を売るときに帯の内容は重要だと思うけども、ほどほどの謳い文句にしておくことも必要なんじゃないか、と感じた。

連休ですな

気がついたときには、犬用の笛入りおもちゃが鳴かなくなっていた。

カミカミするのが好きなので、噛みすぎて笛の部分が変形してしまったのかもしれない。

降ってみると微かにカラカラ音がするから、何か小さな部品が外れてしまったのだろう。


細長いものを差し込んでみたり、手探りでおもちゃ内部のバラけてしまったらしいパーツを探し出し、笛の方へ押し出したりしてみるがうまく元に戻せそうにない。

仕方がないので、ゴムでできている本体から笛を取り出してみる。リードの役割をするフィルムとその対になるプラスティックパーツが外れてしまっていた。


曲がってしまっているフィルムをまっすぐにして、プラスティックパーツを取り付けると再び音が鳴るようになった。両方にリードが付いているから、吹いても吸っても音が出る。試しに口にくわえてピューピュー音を出していると、犬が寄ってきた。遊んで欲しそうな目をしている。

ゴム製の本体に笛を取り付けて、おもちゃは復活。どういう構造なのかわかったから、次に鳴らなくなっても直せるかも。その後しばらく室内で遊んでやった。


何かをして音が出るのが楽しい、という意味では人が楽器を演奏するのも似たようなものなのかもしれない。


うちの嫁は、外出から帰ったときによく家の鍵が見当たらないって探している。

それだけならまだしも、車をロックするときにも鍵を探してるのはどういう理由だろう。さっきまで運転してたはずなのに。


天気がいいので、車で少し走ったところの公園に行ってみると、昼前あたりからだんだん人が増えてきた。そうなるだろうと思ってたから、早めに到着しといてよかったと考えながら散歩終了。


買い物のためにスーパーに行くと、市場がお休みらしく品物が減ってる。お客はいつもより多い。


郵便受けをみると、注文した荷物が届いていた。

連休中だから時間が掛かると思っていたが、荷物の配達は平日と変わらない。優秀でありがたいとは思うけど、もっと減速させても良いのでは? と感じた。

誰かが休んでいるのにさまざまなサービスが受けられるってことは、そのあいだにサービスを成り立たせるための労働をしてくれている人たちがいるってこと。ニュースで報道されるくらいの連休を用意するのなら、ほとんどすべての人が休めるような環境を作ってほしいものだと思う。

報道をしている人もお仕事をしているんだから。


夕方に散歩がてらにATMへ行こうとしたら、こんなバタバタしてるときじゃなくて連休明けに行きなさい、って嫁に言われた。確かにそうだな。そんなに急いでいないし、今は現金がなくても買い物はできるからな。

言葉と散歩

ガタガタガタ、って音がしてる。

連休中なのに近くで舗装工事のようなことをしているらしい。

嫁さん曰く、「楽しそう。男だったら、ああいう仕事する」だって。

「こんな感じかな」って声が聞こえる。さっきから何度も連発しているので、だいたいで良い工事なのかもしれない。


じっとしてると、いろいろどうでも良いことを考える。

ああいうのは私にあんまり向いてないだろうな、とか。


散歩に出掛けてみる。歩いていると考えすぎない。たぶん。


ふと、外国語の文法書は面白いけど、母語の文法書を読んでも楽しくないんだろうなあ、と思い始めた。

これが主語で、それは他動詞か。目的語はこれで…。とかを日本語でやってもねえ。それに、実際やってみるとほとんど正解できないんだから。

なんだろなー、こんなことやってて日本語わかるようになんの? って思うんじゃないだろうか。

しかし、大人になってからの外国語習得には文法が大切だといわれている。


道路から少し離れた道を歩いてると、急に道を走る車の音が静かになったのに気づく。信号が赤になって車が停止したからのようだ。車の通りはなく、交差点が静かになっている。

アイドリングストップハイブリッド車のおかげだろうか。

信号が青になり、車の走る音がまた聞こえてくる。今の車は走行中のエンジンや排気音が静かになっているから、主に聞こえるのはタイヤの走行音だ。


小型トラックの荷台にアルファベットが書かれている。◯◯GYORUI? なんだろ。ああ、◯◯魚類か。魚などを運んでいる車ってわけだな。

あんなふうにアルファベットにするとすぐに意味がわからないのもあって、なんとなく格好良く感じるのかもしれない。そういえば、海外の紹介をしている番組で◯◯豆腐って車が走ってたな。日本語の書かれたTシャツを着て喜んでる外国人の姿が目に浮かんだ。

日本人だって、日本語で書かれてたら着ないような英文がプリントされている服を着て、何も思わないばかりか良いデザインだと感じたりするくらいだから、よく知らない文字には憧れがあるんだろう。


古本屋に寄ってみると、小学校卒業記念の辞書を見つけた。おそらく中学校を卒業して要らなくなったのだろう、と思いたい。決して、もらってすぐに売ったんじゃないと。

フリマサイトを見ると同じような卒業記念辞書が売られている。古本屋の買取は渋いから、フリマで売ったほうがいくらかの利益はあるだろう。

待てよ? これを買って帰って売れば差額が出るかも、と思い始めた頭を停止させ、帰路につく。

なんだかなあ、あんな小さな辞書くらい家に置いておいてあげてもいいのに。と思うのは紙の本が好きな人の考えることなんだろうな。

まどろみ


目覚めるまえの まどろみが好き

真っさらな気持ちで居られるから

頭の中に まだなんにもない状態だから


眠るときの まどろみも好き

すべてを忘れた気持ちになれるから

頭の中を クリアにできるタイミングだから


あれ? ってことは、眠ってるときがいちばん好きなんじゃん…。

ATMでの出来事

このあいだ、送金しないといけないことがあって出掛けてみると、2台しかないATMはすでに人に使われていた。仕方がないから、どちらかのATMが空くまで順番を待っていた。

片方は年配のおばあちゃんで、店員さんに操作の仕方を教えてもらってる。もう片方は、年配まではいかない感じの人。まあ、おばちゃんかな。

そのあと、私の後ろにも男の人が並んだんだけど、おばちゃんの方の用事が終わったから、私が先にATMを利用。

おばあちゃんの用事も終わったようで、話し声が聞こえてくる。ちょっと聞き耳を立てたところでは、お金に関係ない話を店員さんとしてるみたい。隣の人がどうとか、子どもがなんたらとか。

でも、そういう状況でもおばあちゃんはATMの前に立ってるし、店員さんもお話を聞いている。相手がお客さんだからか、年上の人の話はキチンと聞きなさいって言われた世代だからかな。

私の用事が終わりかけたとき、後ろに並んでた男の人が口を開いて言っちゃった。

「済んだんなら、話してないでどいてくれ」

ぶっきらぼうな言い方で、やっぱりちょっと悪意が感じられた。

もう少しでこっちの用事は終わるんだけどな。とか思ったけど、後ろの人は急いでたのかもしれないし、腹の虫の居所が悪かったのかもしれない。

私は急ぎでなかったからムカつくまではいかなかったけど、待ってる人からしたら腹が立つのが当たり前なのかもしれない。

男の声で店員さんも我に返ったのか、そのまま話し続けてるおばあちゃんを諭してATMの前から移動してもらってた。

他の場面でも、老人に対するこういった態度を見ることはあるので、今の日本ではこれが普通なんだろう。

スーパーのレジで会計に時間が掛かってたり、顔見知りの店員さんと話し始めたり。こういうことは老人に限らずよく見る光景で、穏やかな心境でないときにはついイライラしてしまう。

店によっては、急いでいる人用のレーンがあったりするようだけど、あんまり見ることがないからそれほど普及していないんじゃないかな。

こういうのも、電子決済になったら問題解消ってなるんだろうけど、それはそれで素っ気なくて寂しいような気もする。たぶん、ATMで見たおばあちゃんみたいな方は、人に話を聞いてもらいたい状況なのかもしれないんだから。

すべての決済をネットや電子マネーなんかでするようになったら効率的なのはわかるけど、これまで通りに人が関わるサービスも残しておく必要かあるんだな、と思った。

忙しくて待つ時間のない人は、ネットなど専用のサービスを使ってもらって、人と触れ合いたい人には従来型のサービスを。

なんでもかんでも人が要らないようにするんじゃなくて、人がするお仕事を残しておくことにも意義があるんじゃないかなあ、と感じた。

猫救出

家族の家で買っている猫が助かった。

助かった、と言ったのは私が助けた訳ではなくて、飼い主が助けたから。


その猫は、近所にある倉庫のような建物の隅にある柱と壁の隙間に落ち込んでしまっていた。

体は柱と外壁の隙間にピッタリ挟まってしまっている。その高さは1メートルあまり。

3日ほど前から家から飛び出してしまい、帰って来ないままだったらしい。

ネットでの情報によると、タオルを垂らしておけば勝手に登ってくるのだとか。登るための体力がなかったとしても、捕まってくれさえすれば引き上げることができるという。

しかし、そのようにしても上がってくる様子はなく「ミャアミャア」と鳴き声を上げている。

私が飼い主でないからかもしれない。


ちなみにその子は子猫ではなく、どちらかというと老猫の方が近い立派な成猫だ。

その後、専門家に聞いてみた通りに、針金で作った道具を使って引き上げようとしてもうまくいかない。首に引っ掛けて吊り上げる方法が脚を吊り上げるよりも良い方法なのだとか。

いろいろやってみるも、隙間の短辺が顔の幅くらいしかないので針金の輪っかを入れにくく、引き上げるほど首に引っ掛けることができずにギブアップ。

私の出番はこれで終わり。


2時間ほどして、飼い主から連絡あり。どうやら無事に助け出せたらしい。

話によると、衰弱してるように見えたから、上から水を掛けてみたのだとか。

そうすると、水に驚いたのか、体を上に伸ばしてきたので、すかさずそこを捕まえて引き出したのだという。

結果的に私のしたことは無駄だったけど、飼い主の力で救助することができて良かった。

お題スロットより「朝ごはん」

お題「朝ごはん」

うちの朝ごはんはいつもパターンが決まっている。どこのウチでもそうなのかもしれないが。

フルーツ入りのカスピ海ヨーグルト(牛乳を入れて作ってる)にカルピス、あとは自家製パン。

このパターンがほとんどだ。

以前はコーヒーをよく飲んでいたのだけど、なんとなく飲まなくなってからはカルピスに変わっていた。

だいたい朝はしっかり食べるので、お昼が近くなるまでは空腹を感じることはない。

今思えば、学生のときになかなか授業に集中できなかったりしたのは、勉強が面白くなかっただけじゃなくて朝ごはんにも原因があったんだろうと思う。

当時は朝起きてから通学までの時間がなく、ギリギリまで寝ていたこともあり、朝ごはんに時間を掛けることができなかった。

それに、食べていたのは今と同じようにパンと飲み物だったのだけど、パンが大手製パンメーカーのスカスカな食パンだったので厚切りを2枚食べてもたいしてお腹にはたまらなかった。

だから、パンなんてものはそんなものだと思っていたのだ。カロリーは充分以上にあるのにお腹にはたまらない。ただ見た目だけ大きく膨らませて、いかにもちゃんと食べていると思わせる技術に凄さを感じる。

でも、妻の焼くパンや一部のパン屋さんのもの食べるようになってからはすぐにお腹が空くようなことはなくなった。むしろ、お米よりも腹持ちがいいんじゃないかと思うくらいだ。

もし、昔の私と同じように軽い朝食をとっていて、午前中は授業や仕事に集中できない、というような人がいたら、朝食をスーパーの食パンや菓子パンで手軽に済ませるのを止めにしてしっかりとした食事をとることを進める。

あの時は子どもだったから、というのは言い訳に過ぎない。少なくとも中学生になる頃の歳になれば自分の食べるものの自炊くらいはできるはずだ。

人のせいにするのは勝手だが、しっかり食べて、ちゃんと学ぶことはできただろう? 今はこの言葉を自身に言い聞かせているところなのである。