書いて浮かべるブログ

書きながら考える

のんびりしたい私のアタマノナカ

やりたいもいろいろ

やりたいことの範囲って色々だな。

絵を描きたいなら、紙に書くでもタブレットに描くでもおんなじように感じるのに。
紙には描きたいけど、鉛筆がいいとか。水彩が好きとか。

音楽を演奏したいにしても、アコースティックギターは好きだけど、似たような音を操れるシンセサイザーは興味ないとか。

それって、絵を描きたいとか音楽の演奏をしたいっていうよりも、鉛筆やアコギなどの道具を使いたいのでは? と感じてしまう。まあ、そういった道具を使いつつやりたいってことなんだろうけどさ。

私も含めて、本人は気づいていないことが多そうだけど、やりたいことの根っこがわかれば見当外れの方向へ進むことは少ないんじゃないかなあ。

たとえば何か文字を書くときに、紙の手帳を使うとアイディアが出るって話があるけど、どっちかっていうと私はデジタルのほうがいい。一つの道具で複数のことをこなせるものになぜだか惹かれてしまう。
ということは、私の場合は「コンピュータみたいな電子機器を使ってやることなら何でもいい」というのが根っこにあるんだろう、とか。

こんな感じに根っこが見えれば、少なくても「人と話すのが好き → 接客業」とか、「コンピュータが好き → IT産業」みたいなことにはならないと思う。
どこの業界でも人と話すことはあるだろうし、いまどきコンピュータを使わないなんてありえないから。

絵を描くのが好きだったら画家や漫画家になれるってわけでもないし、演奏が得意だからミュージシャンになれるわけでもないでしょ?
でも、そんなふうに考えてしまいがちなのかもしれないね。

音楽の演奏をするときに、楽譜を見ながらとか耳コピして演奏するのは楽しいでしょ? それが絵を描くことになると、なんか違う…って感じるらしい。
写真をタブレットに表示して、ペンでなぞったりアレンジしたり。色が塗れたりして個性も出せる。なのに、そんな趣味って演奏に比べるとあんまり聞かない。どうしてだろ?

音楽はともかく、絵については一から描けないとっていう偏見があるのかな。

ほとんどの人がそうだと思うけど、お仕事だってみんなそう。文章を書くときでも誰かのものを真似して書いたようなものばかり。建物や機械の設計をするといっても、一からじゃなくて以前の計画を参考にしたり、いまある図面を修正するわけで。そこまでの才能は求められない。

そんなわけで、今やってることの中にもやりたいことは含まれているんじゃない?
これからやるといいことは、できるだけそこの部分が大きくなるような工夫をしていくってことなんだと思うよ。

こっそりよくみてる

あの部屋に行ったら遊んでくれるかも。

丸くなってグッスリ寝てるように見えたのに、隣の部屋へ向かおうとするとサッと頭を上げてこっちを見ていた。

「そろそろ遊びますか?」とでも言いそうな目をしてる。

まだすることがあるから遊ばないよ。一息つくまでもう少し寝てなさい。

フン! たまに溜息をついてるようなときもあるし、思わず本気で寝てしまったようで隣の部屋へ行っても気がつかないときもある。

「遊ぶんですね!」タイミングがあったときには一緒に隣の部屋に行く。

それにしても、自由に遊べるようにおもちゃを置いてるのに、なぜだか勝手に遊んだりはしない。

遊ぶときには、いつも「ボール投げて!」っていう素振りで待ち構えてる。

変なの。こんなものなのかなあ。一人で遊べる子もいるはずだと思うんだけど。

本を借りてきた

嫁さんが見てみたいというので、感情類語辞典を借りてきた。

少し前には性格類語辞典も借りてきたのだけど、ありがちな内容とかいう感想で不評だった。私は詳しくみていないが、確かによくあるタイプの解説で改めて読むまでもないように感じた。

そのときでさえ数十分は読んでいたのだけれど、今回の感情類語辞典は私の元に戻ってくるのがさらに早かった。おそらく数分しか見ていないと思う。

彼女の口から出てきたのは、「これって漫画のキャラ設定に使う本なの?」「こんなことも考えないで描いてるの?」「私のほうがこういうの得意だよ」という批判的な言葉だった。つまり、もう読む必要がないということだ。せっかく借りてきたのにと思ったが、多分彼女はこの程度の内容なら本を参照するまでもなく人物設定ができるのだろう。そういえば昔、同人誌のようなものに関わっていたという話を聞いたことがあるような気がする、と思い出した。

キャラクターやストーリーを作るときには、私の知らない定番のようなものがあるのだろうけど、そんなことを言うんだったら何かの物語を構想して聞かせてほしいなあ。あんなことを口にするくらいだから、案外いいものができたりして。



感情類語辞典を借りるときに、地域の図書館にリクエストしていた本が入ってきたというので一緒に借りてきた。

結構前にリクエストした本だったからもう入らないのかと思ってたんだけど、どこかの図書館から借りてくることができたらしい。蔵書印を見てみるとそこの図書館のものになっている。日付を確認すると今月。ということは新規に購入したということのようだ。

図書館が蔵書を増やすときのプロセスはよくわからないけど、もしかしたら中古の本なのかもしれない。奥付けによると11年前に発行、2008年発行の初版だ。カバーがラミネートされているのでよく見えないけど、ハードカバーの変色具合に天と地、小口がしっかり研磨されてる様子を見る限りどこかの書店か倉庫に眠っていた本なんだと思う。中古の本でないならば(中古だろうがなんだろうが、問題はありません)。

これまでにもいろんな本をリクエストしているのだけれど、その多くは新刊だったり県内の図書館にある本だったので比較的早く借りることができていた。今回の本はリクエストから2ヶ月以上経過していたから、そろそろ「取り寄せできませんでした」と言われる頃だと思っていただけに、本当にありがたい。

質が良いのも考えもの

メガネのコーティングが剥がれてきた。

どうでもいいことだが、私の頭は禿げていない。父方の祖父がツルツルだったからそろそろかと思っているのだが、まだ大丈夫なようだ。個人的にヘアースタイルなんてどうでもいいし、髪を洗うのは面倒。しかも学生の頃から結構な白髪混じりの剛毛&天然パーマだ。ヘルメットを被ったときに目の前を神がチラチラするのも嫌なので、なくなるなら徹底的に無くなって欲しいものである。坊主頭にするのもいいが、手入れをしたいとは思わないので、やはり生えないほうが助かる。そんなことを思っているから禿げないのかもしれないが。欲しい人からは無くなり、欲しがらない人には与えられる。人生うまくはいかないものだ。


それはさておき、以前から気にはなっていたのだけど、もう古いしレンズの交換をするしかないからどうでもいいや、と考えていた。このメガネは学生のときから掛けているから、もう20年以上。いくら数本のメガネを使い分けているとはいえ長く使いすぎ。

コーティングが剥がれた部分をよく見てみると、剥がれた部分は光を反射している。今のようにブルーライトをカットするレンズなんてなかったから、反射防止とレンズを保護するためのコーティングなのだろう。爪で擦ってみるとコーティングが少し剥げた。中途半端に剥げていると視界にバラツキがあって気持ち悪いので、剥げるところは剥がしてみるとずいぶん見やすくなった。これならまだまだ使えるぞ。近頃の安いメガネについてくるレンズは何年かすると知らないうちにコーティングのムラができてしまうが、このレンズは違った。さすがは◯コ◯といったところか。しかし、メガネにファッション的な意味も求められる今の時代にこの性能はオーバースペックなのかもしれない。そういえば、前に使っていた同社のハードコンタクトレンズも普通のメンテナンスだけで10年使えたのだから素晴らしかったな。

とりあえず、コーティングの剥がれたメガネはバイクに乗るときと室内で使うとき用に残しておこう。今どきのメガネは華奢なものが多く、メガネを掛けたままヘルメットを被るのをためらってしまうから。


大抵の道具は以前に比べて寿命が短くなっている。買い替えサイクルが早くなっているからだ。それはそれで問題ない。あまりにも長く使える道具は人にとっても迷惑なときもある。ずっと同じものを使い続けるということは持ち主が変わる機会をなくしてしまうだろうから。ただ、そのまま作れば長寿命の製品を作ることができるものを、製造工程を変更してまで短寿命にすることはない。

このメガネもいい加減役目を終えたはず。レンズだけを変えて使い続けるなんて往生際の悪いことをせずに、気軽に使える安いレンズ付きメガネでも買いに行こうかな。

決めつけとか


決めつけ、について書こうと思っていた。



ここの周辺では道路の舗装工事をしていて、騒音がかなりしている。普段静かなこともあって、あんまり音に対する耐性はない。いつもうるさければ気にならないのかもしれないが、これでは何かをしようという気持ちさえなくなってしまう。



人や物のことを客観的に見ていき、自分なりに性質をまとめ上げる。そうしたものが頭の中で一段落したら、そこから先はそれを元にして人や物を判断する。だから、頭の中にある性質と違っているものを感じると、「あなたらしくない」とかいうことを言い出したりする。

でも、それはこちら側から見て勝手に判断した性質であって、そのものの自体を表しているわけではない。私から見るとそう見えても、他の人から見るとまた違ったように見えたりするわけだろうから。

それでも、一旦頭の中に作られた物の影響は強く、頭はなかなかその認識を改めようとしてくれない。一度まとめ上げた考えを修正するのは嫌なのだ。決断力が高いとか、決断が早いという人のことを優れているとすることが多いような気がするが、そういった人ほど決めつけてしまいやすいのではないだろうか。

物事を一つの言葉で言い表すのは気持ちがいいし、スッキリする。しかし、そうしてしまうと今度はその言葉にとらわれてしまう。他の目線を持つのが難しくなるのだ。あまり一つのものとして認識しないほうがいい。あの人はこんな人、そんなふうに一言で表せるほど人は簡単なものではない。



周りを見渡してみると、工事は順調に進んでいるようで、今日中には完了しそうだ。しかし、音については少々耐えられない。ラジオの音が聞こえなくて、音量を上げてもやはり聞こえない。これでは気晴らしにもならないではないか…。

工事に携わっているかたは重機の近くで作業をしているわけで、もっと莫大な音量を身近に感じているはず。それを考えるとたいしたことはないのだろうが、作業者のかたは大丈夫なのだろうか。慣れというものがあるのだろうか。



占いが好きな人がたまにいる。そういった人は自意識過剰というか、人に言われたことを自分に当てはめてしまいやすいのだろう。これまで誰かに言われたことのある性質、たとえば「神経質」とか「大雑把」のような性格の一部分を表す言葉に敏感なのである。人はいろんな性質を持っていて、神経質なだけの人はまずいない。なのに、そういうたった一つの性質に偏っていると思い込んでしまっている場合がある。そうすると、雑誌などで占いを見ていてもそこだけが目についてしまうので、占いが当たっているように感じるのである。

なにも、占いを見るのが良くないといっているわけではない。自分の中には、神経質なところも大雑把なところも同居しているし、神経質や大雑把に感じていたところが状況によっては丁寧や大胆に置き換えられるということを信じていないのだろう。


ものには見方がさまざまあって、絶対というものはありえない。そのようにしか見えないことでも他の人が見れば別の解釈が考えられるもの。周りのことだけでなく、自分のことについても決めつけないほうがいい。自分で自分のことを決めつけたせいで、落ち込んでしまいそうなときには特に。



騒音についても、案外なんとかなるものなのかもしれない。やったことのないことを外から判断はできないのだろうから。

AIという宣伝

宣伝ワード

CMで「AI使ってる」っていうのを聞いたときに、DOHCのステッカーのことを思い出した。

昔のクルマのドアなどに書かれていたアレである。加えて「16VALVE」とか「TURBO」などと書いてあることもあり、当時は誇らしい気がしたように思うのだが、今見るとなんだか恥ずかしくなってしまうから不思議なものだ。パソコンでいう「Intel inside」、「インテル入ってる」みたいな感じだろうか。

私はステッカーやシールを貼るのが好きなたちではないので、そういうものを見かけるとつい剥がしてしまいたくなるのだが、案外しっかりと貼り付けられていてなかなかキレイに剥がせそうにない。やっぱり自慢というか、大きな声で宣伝したい言葉なのだろう。


先ほどのDOHCもそうだが、そういったステッカーのようなものは、その技術が当たり前でないときに大きな効果を持っている。しかし、今のようにDOHCエンジンが珍しくもなんともなくなってしまえば効果はなくなり、そのことを声高々に宣伝するのが逆に恥ずかしくなってくる。今なら「OHV」とか大きく書いてあったほうが目立つかも知れない。


中身には興味がない

同じように、AIもまだまだ珍しいものだからよく取り上げられて宣伝される。よくわからないけど凄そう、というやつだ。たいした性能がなくても、AIという名前をつけたものが搭載されていれば売れる。こういった宣伝の仕方は正直感心しない。それではただの売名行為のように思えるが、内容を詳しく説明されても理解できる人が少ないだろうから、仕方のないことなのだろう。

過去、自動車メーカー各社の衝突安全ボディに付けられた様々な名前を宣伝していることがあった。アルファベットの頭文字を取ってきて、洒落た名前を作ったりしたものだ。その名前自体は変わらないまま技術は進歩しているはずなのに、今ではほとんど自慢をしていない。もう当たり前のことになってしまったからだ。


いずれAIについても搭載されるのが当然になってしまい、AIという言葉を宣伝に使うことはなくなっていくだろう。本当は名前よりも中身がとても大切なのに、商品を購入する人たちはその内容なんてどうでもいいようだ。ただ新しい技術が搭載されたものを所有していたいというだけ。だから、その頃にはまた別の新しい目玉が強調された商品を欲しがっているのだろう。「これからは◯◯だよね」とか言いながら。

MT車の効能?

疲れるのは仕方がない

運転をしていて疲れるということは、脳への刺激が多いということだと思う。だとすれば、疲れを減らすということは、脳への刺激を減らすということになる。そうなると、だんだん意識しなくても運転できるようになっていく。それは、極端に言ってしまうと無意識での運転を許可しているようなものだ。

集中しているから疲れる。その当たり前の疲れを軽減するために、集中していなくても楽に運転できるような装備が追加されたりする。運転する人の年齢や体の状況によっては仕方のないことだが、やり過ぎと感じることもある。


たいした注意をしなくても車をまっすぐ走らせることができる人に、車線をはみ出さないようにする機能は要らないし、右足を繊細に動かせる人にクルーズコントロールは要らない。ましてや、前のクルマが発車したら知らせる機能なんて意味がわからない。それでは信号待ちでスマホをいじったり、子どもの相手をしてくださいと言わんばかりではないか。

長い距離を運転するときに助かるのは確かだろうが、それよりも前にそうしたスケジュールを組んでしまうことをやめるべき。何度も休憩を挟んだらいいのだ。だいたい、丸一日走っても走れる距離なんてたかが知れている。なのに休憩しないで走り続ければ行けるとか、もっとスピードを出せば行けるなんて考えを持つような人は精神に異常をきたしていると考えたほうがいいのではないか。


趣味で乗るものではない

道路を今走っているクルマのほとんどはAT車である。MT車はクルマを操る感覚がいいとかいう謳い文句を見ることがあるが、そもそもクルマを運転することは危険なことである。このあとスーパーへ出掛けたら事故に遭ってしまい、人生終了となる可能性だって相当に高いのだ。でも、毎日のように通勤や買い物に使っているとこのことを忘れてしまいやすい。

楽に運転できるということを脳は喜ぶかも知れない。しかし、楽ということは刺激が少なく、何も考えないということにも近いから、ぼーっとしたままの運転を促すことにもつながってしまう。

良さげな面ばかりを強調するクルマのCMには首を傾げたくなるようなものが多いのだが、もうクルマはすでにただの生活用品である。個人的に操る楽しさという意味は理解できるものの、公道を走るクルマのCMでそれをアピールするのはおかしいのではないか。


マニュアルトランスミッションのクルマを選ぶのは、運転を意識するため。長いことクルマに関わっている人はもっと面倒なクルマでもいい。楽なクルマに慣れ過ぎて、気がついたら目的地に着いていた…。なんて恐ろしいことが無いように、シャキッとした気持ちにさせてくれるクルマを選ぶようにしたい。ある程度のリラックスは必要だが、癒しを与えてくれる室内空間なんて不要なのでは? そう思うのだが、いかがだろうか。

動物

動物というのは、「動く生き物」のことだと思っていた。


植物は動かないわけではないだろうが、人の目に明らかに見える早さでは動かない。そういうふうに、植わっている物のことは植物と呼んでいる。


動物は動きたくて動いているのだろうか。動きたくなくても動いてしまう物なのだろうか。

常に動き回るにはエネルギーが必要だ。動かなくても体温を維持するために多くのエネルギーを使う。何もしていないようでいて、脳は膨大なエネルギーを消費している。無駄なことではないだろうか。


動物はエネルギーをたくさん消費する前提で活動している。よく、飢餓に耐えて生き残ってきたという話を聞くことがあるが、それにしてはエコな構造にはなっていないように感じる。

使うかどうかわからないけど、とりあえずは生産して要らなくなったら再利用。そういう意味ではエコなのかもしれない。しかし、それなら要るときに作るというシステムにはできなかったのだろうか。


リサイクルができるから、何度か再利用してもいいじゃないか。ということなのだろう。


工場の生産ラインでは大量に作ることで価格を下げることに成功している。

体だってそんなものなのかもしれない。

たくさん作ることで生産能力を維持する。作り過ぎた分は分解してまた使えばいい、というように。


用不用の法則というものがある。限界を超えない範囲で頻繁に使用する器官は発達し、使用しない器官は衰えていくというものだ。

これは生き物だけに当てはまるものではないだろう。

機械などの場合、新品は確かに重宝される。それでも、新品が機械として最高の状態ではないということも知られているだろう。今でもまだ、ある程度は動かしてやらないとスムーズに動かないというもの。はじめのうちは使い物にならないというものもある。


どうやら、少なくとも動物については「動く生き物」というよりも「動かないといけない生き物」のようだ。

動かないと運動不足になってしまう。運動が不足すると、不都合なことが起きてくる。それは、体のシステムが動くことを大前提にしているからだ。逆に、動かないことを前提にしているのが植物なのだろう。


世の中はどんどん動かなくてもいいように進化していっている。スポーツジムに通うなどすれば運動量を確保することは可能だが、3食きちんと食べるために運動するというのはエネルギーを浪費しているだけのようにも思える。

食べるということは、エネルギーを摂取するというよりも、ただ食べたいというだけで食べていることがあるからタチが悪い。そのためにわざわざカロリーの低い食料を作り出したりしているわけだから。

だいたい、食事の時間を決めたりしないといけないのだろうか。食べたくなったときに食べられるようにしておけばいいのではないだろうか。決まった時間に労働するために規則的な生活が求められたのだろうか。

忠告とアドバイスから思うこと

忠告とアドバイスについて思うところがあったので、書いておく。


大辞林によると、

【忠告】心を込めて、過ちや欠点などを直すように言うこと。

【アドバイス】助言すること。勧告。忠告。

と書かれてあるので、忠告=アドバイスなのだろう。

しかし、私だけなのかもしれないが、忠告の方がアドバイスよりもキツい感じがする。

そんなことはないだろうか。


次に、助言について調べてみると、

【助言】役に立ちそうな言葉をかけること。

となっているので、忠告よりは少しだけ柔らかい。

だた、わからないのが、助言の語釈にもアドバイスが含まれているということ。

つまり大辞林的には、助言=アドバイスでもあるというのだ。

ちなみに、【勧告】は、あることをするように説きすすめること。となっている。

アドバイスのほうから見ると、アドバイス=助言=勧告=忠告なのだが、左から右に向かうに従ってキツさが増しているように思える。


「◯◯にアドバイスをする」という表現はよく使われると思うが、助言する、勧告する、忠告する、などはどうだろうか。

自分としては軽いアドバイス(助言)をしたつもりなのに、相手から「忠告ありがとうございます!」なんて言われたら、なんだか説教をしてしまったような感覚になったりしてしまわないだろうか。


大辞林に限らず、語釈の堂々巡りについては、国語辞典にありがちなことだと思うので、あまりとやかくいっても仕方のないことだとは思う。

それに、人によって言葉の解釈は異なるものなのだろうから、うまく伝わらないことなんてよくあることではないだろうか。

実際、アドバイス=忠告と捉えている人もいるのだろうし、言葉を使ったコミュニケーションは難しいものだと感じる。


もしかしたら、これは言葉だけではないのでは?

人のしぐさを解釈する部分でも個人差があるのなら、おかしなことになってしまうだろう。

例をあげると、多くの人が「怒られた」と感じる状況で「褒められた」と感じる人がいてもおかしくはない。

怒られれば怒られるほど嬉しくなってしまうわけで、ある意味そっち系の人と同じなのだろうが。


認知行動療法だって、変なというか、普通とされる大多数の感覚を無視して行えば、ちょっと珍しい、不思議な感覚を持った人が作られてしまう可能性がある。

そういう部分があるのだとすれば、一般的な環境で育った人が天才的で特殊な人になるなんてことは、まずありえないのだろう。

いくら遺伝的に天才だったとしても、一般的な環境に適応し続けるなら、「なんか違うなー」と感じながらも周りと同じ感覚を持つようになっていくか、ズレに耐えられなくなって狂ってしまうのかもしれないな、と思った。

ないとおもうからほしくなる

「◯◯だから××できない」って、よく聞く話。

子どもがいるからとか、親がいるからとか。

それってホント?

ひとりで居て、気になることがなんにもなかったら「××できる」のかっていうと、そうでもないんじゃない?


「◯◯だから××できない」んじゃなくて、「◯◯だから××したくなった」んじゃないかな。

たとえば、子どもが居るから自分のためだけに生きたくなったとか、案外ありがちなことだと思う。

人って結構、できるときにはしたいと感じない。いつでもできると思ってるんだろう。

持ってるうちはいつでも使えると思って使わない。無くなるのがわかったら急にちゃんと使おうとしてみたり。

生きているうちはなんとも思ってなかったのに、亡くなるとなったら急に後悔しだしたり。


できなくなったから、したいと感じる。もしくは、できなくなったから、したかったことを思い出す。

そんなものなのかもしれない。

切羽詰まった状態にならないと、ホントのことなんて見えてこないのかもしれない。

そんな経験って、ない?


もしそうなら、ある程度は大変なフリをしながら生活をしていく必要があるんだろう。本当のところ、どうでもいいことだらけなんだけど。

その中で、「◯◯だから××できない」って口にしちゃったときに、自分に対して「それってホント?」っていう言葉を投げかけてみたらいい。

だって、それって全部ウソだもん。信じてしまったから、本当だと感じているだけ。


「◯◯だから××できない」って思い込んでるのは自分だけ。ちゃんと考えてみたらそんなことはないってわかるはず。

でも、頭の中がいっぱいいっぱいだから、ちゃんと考える余裕がなくなっちゃってて、のんびりしてる人を羨ましく思ったりする。

いやいや、別に他の人がラッキーってわけじゃないと思うよ? みんな大して変わらない。


ないと思ってるからほしいって感じるだけで、ホントは持ってる。

ないって思ってるから、なくなったと感じてほしくなる。

ただそれだけのこと。


いまさらあれはできない、ってのもそう。

面倒くさがりの頭がそういわせてるだけ。

それってホント?

いや、ウソ。100%完璧にはできなくても、なんとかする方法はあるはずだよ。

少なくても、「◯◯だから××できない」なんてことはないって気づいてほしい。

そんな考えに同意したりしなければ、絶対なんとかできるから。

見るのは前だけ


みなさん、友達はたくさんいますか?

ここにコメントをくれる人はいないのでよくわかりませんが、ほとんどの人は親しさに違いはあれどそれなりの数の友人がいることと思います。

問題はその友達とどれくらい親密でいるかということなのですが、これが結構難しいのではないでしょうか。

そんなの難しくもなんともないという方は、今回の記事を読んでも時間の無駄だと思いますので、”さようなら” です。


どこからが友達?

仕事上の付き合いだけならただの知人かもしれませんが、休日もたまにあってお茶するというような間柄になるとちょっとした友達と呼んでもいいのかもしれません。それでも話題となるのは仕事の延長線上ということなら、どういう関係と言っていいのか悩ましい状態ですね。

よほど込み入った話をできる関係でない限り、このような関係はただの知人といったところでしょう。そして、この程度の人間関係で毎日をやり過ごしているという方は多いのではないでしょうか。人によるとは思いますが、この程度の関係ならない方がいいと思う方がいるかもしれません。


ライフステージの違い

よく言われる関係としては、学生時代からの友人というのがあります。これは社会的な地位など余計な要素にとらわれずに築かれた関係ということで大切な友人という扱いをされることが多いです。

しかし、互いの人生のステージの違いによってはどうでもいい関係となってしまう可能性があります。それは結婚や出産、自身の出世に親の介護など本人に降りかかってくる人生のイベントのようなものが起こるときです。

こういったイベントの進行が友人と揃っていないときには、いくら学生時代に仲の良かった関係だったとしても関係が断絶してしまうことは仕方のないことだといえます。ステージがズレているときにまっとうなコミュニケーションを取ろうとしても、本当の意味で相手のことを理解することはできない。こればかりは仕方のないことだと言えるのではないでしょうか。


無理に干渉しない

そういったときに感じるやるせなさにどう対処したらいいのか。

簡単です。それは「干渉しないこと」

一年に一回、「新年に年賀状を送るくらいはしなくちゃ」そんな考えは無用。そんなことをしないくらいで切れる縁なら ”クソ喰らえ” です(汚いことはを使ってしまい、申し訳ありません)。

置かれている状況が違っているときになんとかしてわかり合おうとするのは無駄だといえるでしょう。そんなときには知らんぷりをしておくこと。なんならコッソリと連絡先を削除してしまうのもいいでしょう。どうしても気になるなら、メールアドレスや電話番号を控えたり連絡先を残しておくのもいいですが、当面の間はわかり合うことはできないでしょうから、消去してしまっても問題ありません。また何かの縁があるのなら、必ず接点があるはずですのでご心配なく。


新たな出会いもある

今回は、過去の友人との付き合いについて思いつくままに書き記してきましたが、友人との絆が弱くなってしまうことは決して悲しいことではありません。なぜならこういった出来事は、新しい人との出会いを暗示しているともいえるからです。

これまで、その人の情報が刻まれていた領域が解放されることで、別の人との関係が始まる可能性が開かれるということです。私たちの進むべき道は常に未来にあります。過去のことにこだわり過ぎず、ぜひ前を見て進んでいってほしいと思います。

犬と猫

犬と猫(いや、猫と犬か?)を両方飼っている人の描いた漫画が面白いらしい。

両方とも飼ったことがある人なら、よくわかる内容なのだとか。

犬はバカみたいにポジティブでキラキラした目をしていて、猫のほうはネガティブで毒を吐くトゲトゲしたキャラで描かれている。そのギャップで笑わせてくれるのだ。

私は犬としか暮らしたことがないのであんまり実感できないのだが、なんとなくわかるような気はした。


犬は外国語の辞書を見ててもよく書かれているように、どの国でも従順な生き物とされているようで、逆に良いイメージで捉えられていることは少ない。「ろくでなし」なんて書かれていることもある。

猫も良いイメージはないようで、「猫をかぶる」や「猫に小判」なんかは共通の認識っぽい。

でも、そんな動物と一緒に暮らす人がいるってことは、何らかの魅力を感じているからなのだろう。

良いイメージの生き物が思いつかないのだけども、実在するかどうかは別にして、たとえば神聖な生き物のドラゴンなどはどうだろう。ドラゴンと一緒に生活したい人はそれほど多くないのではないだろうか。他にも申請というか欠点のないような生き物は居そうだが、そんな生き物たちと暮らすのは何だが心が安らがない気がする。


猫はもともと、穀物を荒らしてしまうネズミを駆除するために家に住まわせるようになった、という話がある。真意のほどはわからないが、おそらく猫のほうとしては飼われているとは思っておらず、ただ同じ家に住んでいるだけという認識のようだ。だから飼い主のいうことを聞いたり機嫌をとったりする必要はなく、かなり自由奔放な感じである。

犬は基本的に餌をくれる飼い主のいうことを聞くが、それゆえに餌をくれる人なら誰にでも懐いてしまう可能性がある。猫と違って一応同居している人を家族と思っているようだが、こちらも真意はわからない。ご褒美のためなら結構我慢強く、侵入者への警戒も忘れないがそういったところが嫌いだという人はいるだろう。


こうして並べてみると、同じくペットとして飼われるとはいえ、まったく違う性格の動物なのだ。

全面的に犬が好きとか猫が好きという人もいるだろうが、犬や猫のこういうところはいいけど、ああいうところはちょっとねえ…とか、逆のパターンもあるだろう。飼い主の性格を表しているところがあるようにも感じられる。

そういう意味では、状況が許すのなら犬猫両方を飼うというのもわかるような気がする。片方は毎日散歩させてあげないといけないけど、もう片方は散歩どころか向こうが構ってくれるのを待つという感じだから。


聞くところによると、最初に挙げた漫画はネット上で掲載されてたものが書籍化されたということらしい。

犬派と猫派に別れている人たち両方に関心を持ってもらえるという意味で、商売的にもいい感じだなあと思ったのだった。

価格とエネルギー

人によって、高いと感じるか安いと感じるかは異なる。

ある人の10,000円は他の人の100,000円の価値があるかもしれないし、そこまでいかないにしてもお金に対する感覚の違いはそれぞれにあるだろう。

同じ金額を払うのなら少しでも安いほうがいいに決まっている。そういう考え方もあるが、本当にそれだけなのだろうか。


必要とするものを手にいれるならそれでいいかもしれないが、ただ安いという理由で手に入れる場合には話が変わってくる。

簡単に言ってしまうと「安い」ということが一番の理由の場合は、まずそれを手に入れる必要がない。

しかし、一番の理由が「興味がある」だったり「面白そう」などの理由なら、そのうちの安いものを手にするのは状況次第ではありだろう。


なぜなら、支払う金額はお金という自分の持っているエネルギーだから。自分のエネルギーと交換するものがただ「安い」というだけのものなら、そのエネルギーを使って得られるものも少なくなる。大きな成果を手に入れるためにはそれなりにエネルギーを使わなければならないから、自分への投資という意味で支払うものについても高い対価を払ったほうが効果的、ということになる。

ただし、自分にたくさんのエネルギーを使いさえすれば、成長できるというわけでもない。これだけのエネルギーを費やしているのだから絶対に身につけてみせる! という意気込みも必要とされる。その意欲があるからこそ、たくさんのエネルギーを使おうと考えるのだから。

習いごとをするにしても、「高いな」と感じるくらいの価格設定のほうがやる気を引き出しやすく、結果に結びつく可能性が高いのではないだろうか。


安いという理由だけで手に入れたものには気持ちがこもらないので扱いが雑になりやすく、技能を習得して元を取ろうという気持ちも弱くなってしまう。

本などを積読したときにも、高価だと感じながらも購入したもののほうが自分へのアピールを強く感じるのではないだろうか

そういったことなどから、ただ安いからという理由で手に入れたものは、自分を変えてくれるチカラも弱いのではないか、そう感じた。


実際のところ、同じ内容のものでも、それらをまったく別の価格帯で提供したときの顧客満足度は違ってくることだろう。

高いからというだけで良いもののような気がすることもあるし、ものによっては安いほうが実は良質なこともある。そのあたりを冷静に判断できる人のことを、その分野での金銭感覚が優れているというのだろうが、自分にとってならまだしも、万人にとって良いものを見分けることは非常に難しいのではないだろうか。

よくわからないもの

本棚には、よくわかっていないものについて書かれている本が並んでいる。

基本的に、確認の意味でよくわかっている内容のものを購入することはないので、よくわからないものが残されてしまうのだ。

もしこれがよくわかるものだらけなら、本に限らず今から処分を始めるだろう。

とはいっても、これまでに手放したものを思い出してみれば、まったく理解できなかったものもあるはず。

しかし、そういったものはもう記憶にない。まったくわからなかったから、記憶にさえ残っていないのだろうか。それとも、わからないなりに内容を理解したから手放してしまったのだろうか。


持ちものなどの自分に関わっているものは、なんらかの期待に応えてくれる。

期待に応えるという表現がピンとこないなら、コミュニケーションが取れると考えたらいいかもしれない。

わからないことを教えてくれたり、少なくとも自分の頭の中に染み付いていないことの手助けをしてくれる。

助けてくれるということは、まだそのものについてわからないところがあるということであり、そういった対象にならなくなったもの、完全に理解してしまったものは手放してもいいと考え始めるのだろう。


自転車やクルマなどの乗り物が、思った通りの動きをしないとイライラするし、第一危険だ。その原因が故障なら修理が必要だし、そうでないならまずは自分を慣れさせるための工夫をする。

いろいろな工夫を試してみてもコミュニケーションが取れないときには、お別れになってしまうのは仕方がない。

これもやはり、それについてわからなかったということだが、同じわからないでもわかろうとする好奇心の続かないものを持ち続けることはできないのだろう。


音楽や映画のように、見たり聴いたりするタイミングによって違ったことを教えてくれるものもある。

最初は良いと感じたものでも、あまりに薄っぺらいものは興味がなくなるまでの期間も早い。


好奇心とは厄介なやつだ。すべてがわかったと思ってしまうと、一気になくなってしまう。しかも、自分が興味を持つことなのに予測がつかない。突然やってきて、何かに熱中させる。

だから、興味のある理由を聞かれても答えられない。答えられるのなら、それはわかっているということだろうから。よくわからないから好奇心をくすぐられるわけで、わかってしまったと感じたものは身の回りから消えていく。

というわけで、持っているものはよくわからないものなのである。

遺伝と記憶に帯

うちの犬がダンボールをバリバリするのは遺伝なのだろうか?

同じブリーダーから家族を迎えたらしき人もネット上で同じようなことを書いていた。何も教えていないのに◯mazonの箱をガジガジすると。

どうやらダンボールガジガジは、どこの子でもするという訳ではないらしい。

遺伝子にどれほどの情報が含まれているのかは知らないが、犬はぬいぐるみの首の部分を的確に見つけ出して食らいつき、ブンブンと首を振る。まるで生きた獲物を仕留めるかのように。どうやらこれは犬の持つ習性らしく、遺伝子レベルで伝達されているらしい。

同じようにダンボールを見るとガジガジしたくなるという性質も、遺伝子の中に刻まれているのだろうか。

さすがにダンボールという対象が情報として含まれることはないだろうが、ああいったものをみるとカミカミしたくなるという性格のようなものを子孫へ伝えることはできるのかもしれない。


今朝の嫁は、散歩の前に犬用の虫除けを探していた。月一で処方する、皮膚にかけるアレだ。さっきまで手に持っていたのにないと言う。30分ほど探すも見つからない。

最終的にはウエストバッグに入っていた…。そこも探したとは言っていたのだが、まあこんなものか。

別に物忘れが激しいというわけではなく、何かに集中しているときにはいつも無意識にしていることを事細かにチェックしていないということだと思う。何度も繰り返して慣れっこになってしまっていることは、それがうまくいってなかったときに「なんで?」となりやすいということだ。


ある古い語学書を探しているときに、その帯を見て驚いた。

「この本を一冊きちんと勉強すれば、明日◯◯◯◯(国名)に旅立っても、もう安心です。」と書かれてある。この本は「◯◯入門」というタイプの本だ。その本をきちんと勉強すれば明日旅立っても安心だという。

何度もしっかり学習すればそれだけの実力をつけられるというのは理解できるが、大抵の人は何度も完璧になるまでの勉強をしない。学習者がそういった状態の中で、このような文章が目立つところに書かれてあるのがすごい。この本の著者は素晴らしい自信を持っている、と思わずにはいられない。

調べてみると、かなり古い本で新品ではもう手に入らないが、程度の良い中古本ならまだ手に入りそうだ。

ちなみに、先ほどの文言は帯にしか書かれていないようだ。もし手に入れるとすれば、ぜひ帯付きのものにしたいが、そこまでこだわらなくてもいいかな。


それにしても、そこまで自信過剰な帯をつけてくる◯H◯出版もすごいものだ。どれだけの勢いで出版したのだろう。しかしこの本は、同時期にシリーズとして発売された◯◯語入門の中で絶版となったものである。このシリーズの中でも二つくらいの外国語は今でも新品で購入できる。そしてそれらには、ここまで挑発的な帯はつけられていない。

もしかしたら、この帯のせいで絶版になってしまったのかもしれないな。

本を売るときに帯の内容は重要だと思うけども、ほどほどの謳い文句にしておくことも必要なんじゃないか、と感じた。