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のんびりしたい私のアタマノナカ

教えることの難しさ

よくわかってる人は教えるのが得意、ではないというのはよくあることで、数多くの試練をくぐり抜けた高学歴な人でも教えるのが下手、というかすべての人がわかるように教えるのが得意、なわけではない。

そりゃそうだ。できる人ってのは自分が上達するための能力に長けているということで、誰かに教える能力を磨いてきたわけじゃないんだから。

それに、わかったり上達するってのはレベルが上がるってことで、下のレベルの時のことは経験できなくなる。ゲームだって、難易度をあげることはできてもレベルを落とすを落とすことはできないことが多いし、周回プレイをしたとしても、アイテムを引き継いだりすれば初めての時とは違ってくる。もっというと、一度遊んだゲームをまっさらな気持ちでプレイすることは二度とできない。

だからこそ普通の人は、自分ができなかった時に疑問に思ったことやつまずいたところを他に人に理解してもらうことすらも難しいわけで。自分が難しく感じなかったことを人に教えるなんてできっこないと思う。

教えられることといえば、うまくやる方法や困ったことに対処する方法ではなくて、どんな考え方で取り組むか、くらいじゃないのかな。急がば回れ、とかよりも抽象的な、実際のやり方をその都度自分で考えながら修正しながら探していく、という心構えのような。

ってのは誰もがわかってるんだろうけど、ついついできてる人に教えてもらいたくなるものなんだろうね。そういう感覚はこの先もずっと変わらないことだと思った。

でも、わかってる人のそばにいて似た感覚を持てるようになれたら、もしかしたらわかるようにもなれるかもしれない。

時の流れの感じ方

もう少しで西暦2021年の6月も終わる。

先月も思ったんだけど、この6月も長かった気がする。とはいえ、別に毎日充実していたとかではないよ。ごく普通に生活して散歩して、それなりに規則正しかった。だから、若い人のように新鮮なことが多くてい1日が長く感じる、なんてことはまったくない。

歳をとると時間が経つのが早く感じる、って話を聞いてたし、実際そう感じていたから不思議な感じ。

こういう感覚を持つのって、CPUでいうとクロック周波数が高くなってるってこと? でもそんな雰囲気はない。むしろどんどんマッタリというかダラダラしていて、クロックは下がってる気がする…。

となると、本当に1日が長くなってるとか?! 地球の自転速度なんかの関係で。なんてね、そんなことはまずないだろう。

話は違うけど、少し前からApple MusicをやめにしてSpotify Duoに変えた。静かなピアノ曲が心地よく感じられて、そういった音楽を聞くことが多くなってる。

で、音楽を聴いてる時は心が静かになってるように思う(見方によって、暗めの曲ばかり聴いてるともいえる)。それで時間の流れがゆっくりに感じられてるのかもしれない、と今ふと思った。

映画なんかでも、ほぼ音楽のないものやあっても少しだけのもの、アクションもののように激しめの音楽と映像で気分を盛り上げてくれるものとか、いろいろあるよね。そんな映画を見てて思うのは、同じ2時間くらいの映画でも常に音楽が流れてて展開の早いものだとあっという間に見終わってしまうこと。

もしかしたら、受け取る情報が多すぎると時間の流れを感じなくなってしまうのかもしれない。結果として1日が早く過ぎる、ということではないのかな。

そうだとすると、近頃時間が経つのを遅く感じているのは脳が若返ったとかリラックスしてるとかではなくて、ただ日々刺激が少なくて退屈することが増えただけだったりして…。

Pocketも見返し。記憶について

WorkFlowyに続いて、Pocketも見返してみた。こちらはWebサイトのメモなので、それほど数はなかったけど数十のサイトが保存してある。でも、中にはリンクが切れていてアクセスできなくなってたり、文字化けしてしまうサイトも。

こっちはテキストのメモと比べると記録したのを覚えていないものが多かった。気になったことだけを書いたテキストと違ってサイトを記録してるからだろうね。

Pocketって、あとで読むためのサービスだったと思うけど、あとで読んだりしてなかったから本来の使い方をしてなかったんだろうなあ。これも確か最初はEvernoteにWebクリップをしてたのをこっちでするようになった気がする。URLだけの保存ならWorkFlowyでもできるけど、Webにアクセスする前に大まかな内容がわかるからこれはこれで使い続けてもいいかな。

メモのいいところは、思い出すためのきっかけを作れるところ。記憶ってのは、いくら脳の中に収められていたとしても見出しのようなものにアクセスしないと思い出すことができないといわれている。だから思い出そうとして思い出せないことでも、関連の文章を読んだり音楽を聴いたりした時には一気に記憶が蘇ってくるんだろう。

こういったメモをうまく利用できると、メモを通して記憶の見出しが整理できるんだろうが…なかなかうまくいかないのでほどほどの付き合いにしておく。

まあ、普段から全部の記憶にアクセスできる状態はちょっと考えただけでも普段生きていくのに支障が出そうだから、これはこれで合理的なシステムなのかなと思う。

そういえば、メモの中にあったフリーゲームのTactical Chronicleはそのうちプレイしてみたいかなあ。積み本に加えて、積みゲーも結構あるのでまだまだ先、というか今世ではクリアし切れないかもしれないけども、つまみプレイくらいはさせていただこうかな…。

WorkFlowyのメモを見返した

なんとなく気になったことをWorkFlowyに保存してるんだけど、見返すことはなかった。で、見てみると結構な量のメモが溜まってた。

何かに使うために残してたわけじゃないから、特に使い道はない。でも、サラサラ見てみると、あの時はこんなことが気になってたんだなとか、あの本を読んでこういうところが気になったんだな、というのがわかる。そんなに何年も記録を続けてるわけじゃないので、別人のメモを見ているような気分にはさすがにならない。

元はといえば、Evernoteに記録する習慣をつけよう、みたいな話がよく言われてた時に始めたんだと思う。ただ、Evernoteは画像が貼れるだけじゃなくて多機能だったから少々動作が重かったし、無料プランで写真を貼ったりしながら使うには月の容量制限が厳しかったりしたのでだんだん記録するのが面倒になっていった。

そんな時に見つけたのがWorkFlowyで、ブラウザでもアプリでも軽快に使えるから、気になったことをちょくちょくメモしてる。Evernoteの時みたいに毎日記録するとかはやめにして、気になった時にテキストをメモするだけ。

それでもかなりの量になるんだから、少しずつでも続けることの成果ってのは侮れない。ま、記録してたからって何かの役に立つわけじゃないんだけど、なんらかの検索ワードを思いついた時に一度は気になった言葉たちの中を見てみるってのは価値のあることなんじゃないかな。

でもやっぱり、いくら記録を続けても全体を見返すことはたぶんこれからもしないと思う。となると、無駄なデータをサーバーに保存しているような気もする…。写真みたいに容量の大きいデータじゃなく、小さなテキストデータだから、許してください。

流れるように読む

池田洋介さんの「読むだけで楽しい 数学のはなし」を読んでる。

読んでるというか、眺めてるだけでスーッと頭に入ってくる感じ。

だいたいが知ってる内容というのもあるし、池田さんが同年代の人というのもあるのかな。とっても読みやすくて面白い。

各項目で数学の話題にもっていくまでの話の進め方も心地よく、ひとつのお話が4、5ページと短いのであっという間に一冊読み終えてしまいそうだ。

何回も同じところを読まないと頭に入ってこなかったり、ゆっくり読んでも意味のわからない文章がある中で、こんなに眺めるだけで流れるように読める本も珍しい。

読むタイミングもよかったんだろうけども。

同じ文章でも、その時の自分の興味や体調などで頭に入ってこないことがあるものだから、一度合わないと思ったものでもできる限り手元に置いておいて、気が向いた時に開いてみないとね。

著者の他の本や受験参考書の入門問題精講シリーズも読んでみようと思った。

www.shinkigensha.co.jp

暇と自由

「今日は『暇』だ」と言うと「そんなに暇ならこれやってよ!」と何かを強制されそうだが、「今日は『自由』だ」なら強制はされそうにない、というように『暇』と『自由』という言葉にはそんな違いが思い浮かぶ。

確か、自由という言葉はもともと日本になかったと聞いたが、暇はもともとあったはず。

一日が過ぎ、何も新しいことを経験しないまま日が暮れると、何だか損をしてしまったような、自分がダメなやつになったような気になったりしないだろうか。『暇』よりも、自分で決めて動いたイメージを感じる『自由』の方が良い印象なのかもしれない。

暇という名の自由をのんびり楽しめない人が、時間を惜しんで忙しく動き回る。暇と感じられないように忙しそうに見せる。

単に「暇ならやれ!」という強制は嫌だけど、「忙しいところすみませんが…」と依頼されて自分で決定するのなら嫌な気はしない、というだけの気もするが…。 そこに至るまでの経緯や文脈を把握して、周りに気を遣いながら使い分けているのだろう。

だからこそ、「言葉が間違ってなければ良い」と思っているとうまくいかない。 空気を読むといわれるような、雰囲気をある程度察知して立ち回る必要がある。

頭の中で『暇』を使うのはともかく、他の人の前では『暇だ』を『少し空き時間がある』のように変換するのが良さそうだ、と考えてうまく立ち回る人を正常。そうでない人を異常扱いすることがもしあるとしたら、それはどうなのだろう?

気分のよくなることを覚えておく

よかったこと、わるかったことをずっと覚えておくのもいいけれど、意識して忘れないようにする必要があるだろうか。 思い出そうとすれば思い出せることもあるだろうし、思い出せなかったとしてもそれは不要なことだろうから問題はなさそうだ。

記憶ってのは思い出そうとするたびに強化されていくらしい。 そうなると、忘れたいことほど思い出さない方がいい。 嫌なことを思い出しそうになったら、頭の中を空っぽにするといいのだろう。なかなかそれは難しいことだけど。

どうしても思い出してしまうようなことは、勝手にいい思い出に変えてしまうのもありかもしれない。 よい思い出なら何回思い出しても気分が悪くならないから。

無意識になっている記憶、話し方などの土台になっていることを忘れてしまうと生活に支障が出てしまうが、再び失敗してしまわないための記憶は詳細に思い出せなくたっていい。記憶の引き出しから捨ててしまわなくてもいいけれど、思い出すためにつけていたふせんのような目印は思い出したいことだけにつけておこう。

好きなものもそうでないものも、たくさん持ってた方がいいって思いがち。でも、持ってて気分が悪くなるようなものはなくたっていい。 せめて目に留まらないところに隠してしまい、持ってることを意識しない。自分の中での存在感をなくしてしまおう。

暇と仲良くする人

見つけた言葉のメモを見返していたら、「暇と仲良くする(暇と仲良くできる人は正常)」という言葉が書かれてあった。

これは別に、「暇を楽しむ」ということではないらしい。 暇は考えようによっては嫌なもの。人によっては暇を感じるのが嫌で、予定をいっぱい詰め込む人もいるようだ。 時間を意識している人にとっては、暇に近い言葉の「何もしない」をとても無駄に感じるだろう。

そういえば、別の部分には「考えれば答えが出るわけではない」というような意味のことも書いてあった。 「暇=考えない=何もしない」ではないだろうし、何もしないのが悪いとは思わない。

今も昔も、どれだけ多くの経験を積んだかが大事と考える人は多そうだ。どんなに経験しても最後は消えてなくなるのにね。

暇と仲良くできる人が正常とすると、暇と仲良くできない人は正常ではないのだろうか。 暇と仲良くできない場合に考えられるのは、暇でない状態をつくろうとすることだろう。それにはよさそうな面もある。 楽しめる遊びやイベント、物語などを想像してつくり出す人もいるだろうから。

よくなさそうな面は、しなくてもいいことが生み出されること。どうでもいい作業や行事など、あってもなくてもいい暇つぶし。 暇つぶしの中でも、暇に耐えられない人たちから生み出されるもの。

暇と仲良くできない人の正常でないところで思いつくのは、他の人たちを巻き込むこと。一人で暇をつぶせばいいのに、大抵の場合は周りの人たちとワイワイしたりしようとする。 暇と仲良くできる人ならどうする? たぶん暇の中で自分がしたいことを一人でもするだろう。その人にとって、暇に耐えられない人の暇つぶしに巻き込まれるのは非常に迷惑かもしれない。

でも、どうやら多くの人は暇つぶしが大好きらしい。ということは、暇と仲良くできない人がほとんど→正常ではない、のだろうか。 正常かどうかの判断は抜きにしても、暇と仲良くできる人の方が他の人への影響が少ないという意味では害が少なそうに感じた。

人生はただの出来事。失敗などはない

人生とは、その人に何が起きたか、という記録でしかない。 よく言われる言葉だ。

例えば、偉人の伝記は偉人の物語として書かれているから素晴らしい人生として記述できるわけで、強引に見方を変えてみればどうしようもない物語にすることもできるだろう。 解釈の仕方が変わったことで、誰もが知っていた歴史上の有名人の名前が教科書から消えてしまうことだってある。

客観的にみるのが大事、と言われることもあるが、そんなに大事だろうか。

自分を客観的にみるといっても誰かの視点を想像してみるだけで、それほど重要なことではない気もする。 結局は今から過去を眺めて何らかの判断をしているだけなのでは。

あれは成功だった、これは失敗したといったふうに出来事とその時の感想を一緒に記録していても仕方がない。 どうしても記録しておきたいなら、ただ起きた出来事だけを記録すること。 出来事が起きるタイミングによって見方は変わっていくものだから、後で読み返すと面白いかもしれない。

嫌なことを頭の中で何度も思い出したりして落ち込まないためにも、出来事を良かった悪かったというように区別せず、今起きていることに淡々と対処していくことだ。

自分の物差しも使う

周りからどう見られるか、気になることが多いかもしれない。 だが、人の物差しばかりを使っていると自分のことがわからなくなっていく。常識に当てはまる人などいないのだ。しっかりした自分の物差しをもつようにしよう。

とはいえ、自分の考えだけが正しいと思っているといろんなことに衝突してしまい、生きづらいこともあるだろう。 他人と自分、できればもっと多くの物差しを使い分けるようにして、どの物差しにも合わせ過ぎずに柔軟に。

いつも同じだと楽だから、意識していないと使う物差しはたった一つになりやすいもの。 誰かの物差しにぴったり合わせないで、自分の物差しを使っていこう。

「使い回し」したっていいんじゃないかと思うよ

発売してすぐに入れさせていただいた、創の軌跡をクリアした。あまりやり込まずに90時間ちょいプレイしているので、それなりにボリュームはあったと思う。

8月末からはじめて今までかかったのは、閃の軌跡Ⅲ・Ⅳに続く3作目ということとシステム的により遊びやすくなっていて、早く進めてしまうのがもったいなく感じたから。あと、ルートがわかれていて頭の切り替えがしやすいため、他のRPGなどを並行してプレイしていたことも影響してるかな。

で、Amazonのレビューを見てみると、賛否にわかれていて面白い。中でも気になったのが「使い回し」という言葉。

マップやSクラフト(必殺技)などを使い回すのって、評価を下げるほどのことなの? 気持ちはわかるけど、イマイチ理解不能。でも、わざわざレビューを書くくらいだから、期待していたんだと思う。

確かに、量産型エンジンを積んだスポーツカーを認めたくない気持ちはわかるよ。でも、他の車とまったく同じように調整されてるわけじゃなくて、ベースにしてるって場合がほとんど。つくってる方も「見た目だけ変えて発売すりゃ売れるわ」とか考えてないと思いたい。

それに、よい方向に使い回してると思えた。Sクラフトだって、同じように見えるけどもしかしたら変わってるかもしれない。ボイスがよくなったとは言い切れないけど、少なくても録り直しはしてる。

こういう感覚ってどこの国の人もおんなじなのかな。例えば、企業用のアプリをつくるのに「他社用でつくった既存のコードがあるなら、工数が少なくて済むだろうから安くしろ」みたいなことって日本によくあるのかも。オーダーメードのほうが価値が高いみたいな。

そりゃね、ずっと発注してもらってるお得意さんならともかく、ちゃんと仕様を満たしてれば使い回したかなんて新規のお客さんには関係ないのでは? 多少の微調整は必要なわけで。まあ、もちろん気持ちはわかりますよ。

MacBookとかでも、ボディを何年か使い回すつもりで開発してるんだろうし。そもそも新製品を毎年発売するなんて不可能に近いんじゃない? だからどっちかというと、「使い回し」じゃなくて「使いこなし」ってとらえたい。

PS5はPS4のゲームもだいたい遊べるようだから、PS4空の軌跡から全部遊べるようになったらはじめてプレイする人にもいいかもね。創の軌跡のシステムでやり直せるなら私もプレイしたいかも。

今回遊んでみて、「空の軌跡からプレイしてきてよかった」と感じられたのはいい経験だった。いつも同じような内容でもいいので、毎年少しずつ遊びやすく改良されているゲームを遊べるっていうのは幸せなことだと思う。ただ音楽については、もっと曲が少なくてもいいかもな。一曲ごとの思い入れが弱くなっちゃうから。近頃は戦闘の曲だけでも種類が多いんよね。

嫌いだったり興味の持てないものこそピッタリなこともある

やってみたり使ってみたりしないとわからない。でも、つい頭で考えてしまうもの。

辞典を選ぶにしてもそう。書店で何度も引いてみて、「これは使いたくない」と思った辞書があった。たまたまきれいな古本を見つけて買ってみると、それまでの予想はなんだったの?っていうぐらい気に入ってしまったりする。

気に入るといってもワクワクするとかではなくて、安心できるというか、何度も手に取りたくなるというか、まあそんな感じ。

結局のところ、例えば何時間も立ち読みしたとしても、そんなことは自分のものとして手に入れるのに比べたら、ほとんど当てにならないことなんだろう。かといって、候補のものをすべて買い揃えるには置き場所もお金も足りないわけで、何らかの判断はしないといけない。

「いいな」と思った内容のものが、自分のものとして使い始めると鬱陶しく感じられたり、逆にそっけなくて面白みを感じなかったものが毎日使うにはちょうどいいと思えたり。ほんとうにわからないものだ。

ただ、時間をかけてつくられたものについては、つくった方たちが長い期間かかわりを持ったなかで「これがベスト」という形に仕上げたのだろうから、見方を変えればどれも絶妙なバランスを保っているのではないかと思う。

だから「あれは絶対ダメだ」なんてものはそうそうないはず。もしそう感じたとしたら、まだ使い始めたばかりでよくわかっていないか、こちら側の見方があまりにもつくり手と違っているから。

自分に合うものがたくさんある人は好きなものだけを追いかけたらいいと思う。でもそうでない場合は、「なんでこんなふうになってるんだろ?」と考えてみると面白さを感じられるようになるかもしれない。そうなっている理由がわかって面白さを感じる見方ができたら、たいていのことは楽しめそうな気もする。

確かに、なかにはつくっている人たちが何の感情も持たないでつくられているものもあるだろうし、「前から使ってるし、それしかないから」といったように使うほうが何も感じていないものだってあるはず。それにしたって、使うたびにイライラさせられるわけではなく、十分に目的を達成できているのだから立派なものだ。

何気なく使っているものでも、たくさんの人たちの努力や苦労のおかげでできた可能性もある。きれいに保管してくれた前の所有者にも「ありがたく使わせていただきます」という感謝の気持ちで、ていねいに使おうと思った。

【Switch】ニンテンドーeショップでau PAYプリペイドカード(au WALLETプリペイドカード)を使って残高を使い切る

au PAYプリペイドカード(au WALLETプリペイドカード)[以下、au PAYプリペイドカード]を使って、ニンテンドーアカウントに残高を残さない方法。

セールに釣られてゲームを買おうとしたけど、久しぶりで迷ったから記録しとく。

au PAYプリペイドカードから残高の追加は、500円、1000円、1500円、3000円とかの単位で追加するしかない。 でも、次いつ買い物するか分からないのに残高が残るのは嫌だ。 かといって、au PAYプリペイドカードをクレジットカードとして登録しようとしても登録はできない。

ところが、「不足分」を支払うという形ならau PAYプリペイドカードが使える。 そうすることでニンテンドーアカウントに残高を残さず、ピッタリ使い切ることが可能。

<やり方>

1.ニンテンドーアカウントの残高が足りない状態でゲームソフトを購入しようとすると「残高が不足しています。追加方法を選んでください」といわれるが、この時に「クレジットカード」を選択してau PAYプリペイドのカード番号、使用期限、セキュリティコードを入力。

※ここの「プリペイドカード」はニンテンドープリペイドカードのことなので、紛らわしく感じるかもだけど「プリペイドカード」でなく「クレジットカード」を選択)

2.そうすると、ご注文内容の確認画面になるので「残高を追加して購入」を選択。

※この操作の前に、au PAY残高を確認しておくこと

またダウンロード版のセールが行われた時は、この方法で買ってみよう。

大事なものをトンビに盗まれる

朝夕が涼しくなってきて散歩もしやすくなってきた。

犬と散歩に行って遊んでると、回収し忘れてたフリスビーをトンビが持っていってしまう…。 うちの犬が大好きなオモチャなのに。

とっさに追いかけはじめる。

前にクリアして手をつけてなかった「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」を再開したからか、 走りながらリンクが走ってる姿を思い出す。 あんなにしっかりとは走れないけど。

トンビ側としてもどうでも良くなってきたのか、放してくれたので無事に回収完了。 他人の敷地や水の中、道路なんかに落ちなくてよかった。

そういえば昔、パンを取られそうになったなあ。 過ごしやすい気候になってきたけど、開放的な気分になるのはほどほどにしたい。

乱読でも積読してもいいから興味のあることを追いかけてみて!

勉強法をネットで探していたら、一つの本に絞って学習するほうがよいとの言葉が多く見つかった。しかし、個人的にはそれでは一旦行き詰まってしまったら長続きしないなあ、と感じる。

確かに、受験勉強などの範囲に決まりのある試験のために勉強をしていて、テストに向かってアドバイスをもらえる指導者がいるのなら、それが一番良いと思う。でも、試験勉強ではない場合や教えてくれる専門家がいないときには、同じ分野のことが書かれているものでもたくさんの資料を参考にするべき。飽きないためにも、いろんな出版社の本を眺めることをオススメする。

なぜなら、よく理解できていない部分について、複数の本の同じことについて書かれている箇所を読みあさっていると、疑問が解消することがあるから。そんなときは、その本の説明が自分にピッタリ合ったからだろう。困ったことに、一冊の本での解説だけで一つの分野の全体を細かく知ることは、まずできない。だから、薄い入門書から厚めの専門書まで様々な本を開いてみることになる。人に例えるなら、いろんな人に尋ねてみるといった感じだろうか。

前に本のレビューで、「この本を読んだあとは、はじめに買って難しいと思った本が理解できるようになりました」という主旨の書評を見たことがあって。そのときには、”不思議なこともあるもんだ”くらいに思っていたが、そういったことは結構ある。おそらく、レビューにあった本が特に優れているわけでなく、どこかで読んだり聞いたことがきっかけとなって、自分の知らない間に頭の中が変化するのだ。そのおかげで、他の本を読んだときによくわかるようになるような、そういった経験もたまにある。ただし、ほんの小さな項目であって、ドラマチックに全体像が理解できたという経験ではない。

わからないことについてあまりに長く考えていても、たいていはわからないままだ。そんなときには、まったく別のことに目を向けてみたり、同じ分野の本でも入門書のような、一見やさしそうに見えるものを開いてみるのもいいと思う。やさしそうに見えるものでも、専門家が書いたものであれば大切なことはしっかり載っているし、たいして必要でない理解に苦しむ部分はうまいこと処理してつくられているはずだから。

せっかく興味を持って学ぶのなら、たった一冊本を読んでよくわからないからって、「私には向かない」なんて思いたくない。自分に合う先生を見つけるような感じで多くの本と触れ合って、好奇心を満たしていったらいいでしょう?